コリント教会に民族、男女に隔てなく人々が集まったことから、当時の女性としての慣習を破る者が出て来た。
女性でありながら、男性のように「かぶり物」を脱いで祈ったり預言したりする人たちが現われた。
そこで、男性も女性も創造された時の秩序と役割に従って、礼拝を守るようにと、パウロはコリント教会に指導する。
- 1 公同の礼拝での秩序 女性のかぶり物について
- 2 男女は、神が定めた秩序に従って礼拝しなさい
- 3 主の晩餐を無秩序に行うコリント教会 17-22
- 4 主の晩餐の意味 23-26
- 5 これを犯す者に下る罰 27-32
- 6 晩餐を正しく行うための提案
33-34
- 6.1 考察1 男性と女性について、神が定めた秩序とは。
- 6.2 考察2 教会で、男女はどのように奉仕できるか。
- 6.3 考察3 男性がリーダーであるが、女性を支配してはならない。 男性は神に従って、女性と協力して御心を実現しなければならない。
- 6.4 考察4 「女性は黙っていなさい」(第一コリント14:34)について。 この聖句は、女性はいっさい語ってはならないという意味ではない。
- 6.5 考察5 女性としての魅力をアピールすることは控えるべき。
- 6.6 考察6 教会だけではなく、社会においても、男性と女性がともに神に従って責任を果たすことができれば、本来あるべき社会を形成することができる。
- 6.7 考察7 主の晩餐について
公同の礼拝での秩序 女性のかぶり物について
11:2 さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。
11:3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
11:4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。
11:5 しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。
11:6 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。
用語の説明
かしら(3節):権威を持つ。源、起源である。
かしら(4,7,10節)頭のこと
男女の創造における秩序。
男はキリストの権威の下にある。
男のかしらはキリスト 3節
神が土から男を造り、息を吹きかけて生きる者にした。(創世記1:27)
男はキリストの権威に従う存在。
女は男から造られ、男の権威の下にある。
女のかしらは男 3節
女は男のあばら骨から造られ、男の権威の下にある。(創世記2;18)
男性を助け、共に創造のわざに関わるために造れた。9節
キリストは神であり、神の権威に従われる。
キリストは神に服従し、人と神との仲保者としての役割を担う。
このように、男と女とでは、創造の秩序において、また、役割において違いがあります。
神が定められた秩序に男女が従うことで、初めて神に喜ばれる礼拝を捧げることができます。
礼拝での、一部の女性の振る舞いが秩序を乱していた。
当時は、今と違って、女性は公の場では、かぶり物をすることが常識とされていました。
一部の女性たちは、礼拝で祈りや預言をするときに、あえてかぶり物をつけず、髪を振り乱して祈ったりしていました。そのために礼拝の秩序が乱れていました。女性が男性のように装ったり、女性の性的魅力をあらわにして、祈ったり預言したからです。
女性が「かぶり物」をつけないことが意味すること。
★かぶり物をつけないことは、髪を振り乱して祈ることなど、女性の性的魅力を見せること。
男性を女性の魅力で惑わし、教会を支配しようとする意図がある。
★また、男性のように装うことは、女性であっても、男性のようになって、教会での権威を持とうとする意図の現れ。
男女は、神が定めた秩序に従って礼拝しなさい
11:7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。
11:8 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、
11:9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
11:10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。
11:11 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。
11:12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
11:13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
11:14 自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、
11:15 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。
11:16 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。
男性は「かぶり物」をしてはいけない。
男性はかぶり物をつけてはならない。4、7
男が祈りや預言をするときに、頭にかぶり物を着けるということは、神の創造の栄光に覆いをかけ、神の栄光の輝きを鈍らせるということで、神をはずかしめることです。神の栄光は隠されるべきものではありません。ですから、男性は女性の恰好をして、頭にかぶり物をつけるべきではありません。
男性が長い髪型をすることも禁じている。14
このことは、男性が長い髪(かぶり物にあたる)をして、女のような恰好をすることをも禁止していると思われます。
当時、コリントの町は、男が女のように、女が男のように装う人たちが多くいたのではないかと思われます。彼らは、性別を超えて自由に楽しみたい人たちです。おそらく、多くは同性愛の罪におぼれる人たちだったでしょう。
「かぶり物」は、女性が秩序を守って礼拝している「しるし」
女性は教会で祈る時、預言する時「かぶり物」をしなさい。
当時、遊女、奴隷、不倫をした女は髪を剃る風習がありました。
ですから当時女性が「かぶり物」をしないことは、遊女が髪を剃っているのと同じように恥ずかしいことでした。女性にとって、髪を切り、頭をそることが恥ずかしいことなら、祈りや預言をする時には、かぶり物を着けなさいと言われています。
「かぶり物」は、女性が、創造の秩序にしたがって礼拝していることを、御使いに示す「しるし」。
女性がかぶり物を着けることは、御使いたちのためであるとあります。
また、御使いであるとするなら、御使いは、公同の礼拝において男女の秩序が維持されているかどうかを見守っている存在であるので、その御使いに対して、女性が秩序を守り行っていることが見せる「しるし」であるのです。
「被り物」は、男性を惑わさないために、女性が性的魅力を隠していることをみ使いに示す「しるし」。
御使いを、同席している男性信者と解釈すると、男性たちを神への関心からそらさないために、女性が自分の肉体的魅力を隠して、男性と共に礼拝していることを意味します。
パウロは、男性と女性が協力して神に仕えることを望む
男性と女性はお互いを必要とするように、神に造られた。11
だから、男女が神に従い、調和して神に仕えなさい。
11:11 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。
しかし、本来の神の男女の創造の秩序は、男女が主を敬って従う時のみ成立します。
その証拠に、男性が女性の上に権威を振るって、女性を自分の奴隷か道具のように扱うことがゆるされている地域がたくさんあるからです。男性も女性も主に従うことによって、創造のはじめの、すべてが良かった時の、男女のあり方が成立するのです。
男性も女性も互いを必要とする。神を起源とする。
だから、神に従いなさい。12
11:12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
女性も男性も、結局は神から発していること、神を起源としていることが明記されています。このことが書かれている理由は、男性も女性も神の被造物であるから、神に従わなければならないことを言いたいからです。
「男性は女性を支配できる。女性は男性に絶対服従しなければならない。」
これは違います。男性は女性がいなければ、自分の働きを全うすることがでないからです。男性は女性の助けでとしての働きを必要するように神に創造されているからです。
そして、女性だけではなく、男性も神に聞き従わなければなりません。
神に従って、女性を尊重し、保護しなければなりません。
このことを神が、男性に命令している聖句があります。
「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(エペソ人への手紙5:25)。
「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。 自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです」(エペソ人への手紙5:28)
男性も女性も、互いを尊重し、神の秩序に従って協力して働くことを、神は望まれています。
女性たちを指導する模範的な姿
パウロの説得の仕方に見る
11:13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
叱りとばして、止めさせるのではなく、理由を十分に説明してから
女性たち自身で判断させるパウロの指導方法。13
パウロは、女性たちの行いをしかって、止めさせることはしていません。
十分に理由を説明し、最後にこのことに対しての疑問を提示して、
あとは女性たちで判断させるという指導をしています。
女性たちは、パウロの提案により、自発的に行いを改めたと思います。
この様なパウロの紳士的な導き方に、男性が女性を指導するときの、理想の形を見ます。
主の晩餐を無秩序に行うコリント教会
17-22
11:17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
11:18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
11:19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
11:20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
11:21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
11:22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。
主の晩餐は各自が食事を持ち寄って行われた。21
当時の聖餐は夕食をする時に行われました。参加する人は自分の食事を持参しました。
この時、富める人は貧しい人と食べ物を分け合うことになっていました。
それで、この食事のことは「愛餐」とも呼ばれていました。(愛に基づく分かち合いの食事の意味)
コリント教会では、富む者が持って来た食事を食べ、貧しい者に分け与えていなかった。そのため、貧しい者の中には食事ができない者もいた。21
しかし、コリント教会では、富める者が、貧しい人たちに分け与えることをしませんでした。富める人たちは、教会に我先にやって来て、自分たちが持参したものを食べて満腹し、酒に酔う者までいました。そして、貧しい者や奴隷たちは、後でやって来て粗末な食事をしました。中には食事もできず空腹な者もいる始末でした。
信者は、貧富の差に関係なく、平等に晩餐で食事ができなければならない。22
晩餐は、キリストの尊い犠牲の死を思い、キリストによって与えられた罪の赦しを感謝するためにする食事です。ですから、信者は貧富の差に関係なく、平等に食事ができるように工夫しなければなりません。
主の晩餐の意味
23-26
11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
23から26節は、聖餐式のときに教会で良く読まれる聖書箇所です。
主イエスは、ご自分が再び来られる日まで、聖餐の儀式を行い続けるように、弟子たちにお命じになりました。このことは父なる神から受けた命令だとイエスは言われました。23
私を覚えるために、信者はこの儀式を行いなさとイエスは言われました。24
<主の晩餐とは何か? なぜイエスは行い続けるように命じたのか?>
- キリストの死と復活の事実を思い起こす機会
- キリストの霊的臨在を覚える機会
- 新しい契約の恵みにあずかっていることを思い起こす機会
- 罪が赦され、義とされていることの恵みを味わい感謝する機会
- キリストの再臨を待ち望み、御国の到来を確信する機会
- 主が死なれて復活されたことを告げ知らせるための宣教の機会
- この儀式の存在自体が、主が死なれ復活されたことの証拠
- 福音を知らない人たちへの宣教になる
主の晩餐の儀式が、主の死を告げ知らせる宣教になっている。26
ご自身が再臨されるまで、続けるように、イエスは弟子たちに命じました。
そのため、現在も各教会で、聖餐式が定期的に行われています。
これは、信者のためだけではなく、未信者に主の死と復活を知らせる宣教にもなっているのです。そのため、イエスはこのことを、再臨のときまで行いなさいと言われたのです。
これを犯す者に下る罰
27-32
11:27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
11:30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
11:31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
11:32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
ふさわしくないまま受けるなら、神に対して罪を犯すことになる。27
受ける資格があるかどうか、自分を吟味して受けなさい。28-29
自分の罪のゆるしをキリストに感謝しない者は、主の晩餐にあずかることはできません。
たとえば、信仰のない人が、主の晩餐を、教会で食事をすることだと単純に考えて食べるなら、それは主に対して罪を犯すことになります。
また、キリストを知っていたとしても、その救いにあずかる信仰がない場合、晩餐を食べることは、神に対して罪を犯すことになります。
ですから、主の晩餐は、自分の信仰を吟味してから受けなければなりません。このように晩餐は、1人1人が自分の信仰について、吟味し、悔い改める機会になります。
ふさわしくない信仰で主の晩餐を食べ、不幸になったり、病気になったり、死んだ人が大勢いた。30
事実、コリントの教会の中には、ふさわしくないまま晩餐を受けたために、
弱くなったり、病気をしたり、死んだ人が大勢いました。
神の懲らしめは、私たちが永遠に滅ぼされないための神からのメッセージ。
神に不平を言うのではなく、悔い改めなければならない。31、32
神の懲らしめは、私たちのためです。主を知らない人たちと同様に、私たちが、死後永遠に罪に定められないために、神は生きている間に、私たちを懲らしめ、矯正なさるのです。
自分の信仰を吟味し、真の信仰に立ち返るなら、神にさばかれることはありません。31
救いに至る悔い改めをした人は、主の晩餐を食べることができるのです。
晩餐を正しく行うための提案
33-34
11:33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。
11:34 空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに 決めましょう。
主の晩餐は、空腹を満たすために食べる食事ではありません。
主の晩餐は、主が流された血と裂かれた体を覚え、自分の罪がゆるされていることを感謝するための儀式だからです。
ですから、空腹で他の兄弟の分まで食べてしまうな、家で食べなさい。
皆が晩餐の食事ができるために、皆が集まるのを待ってから、食事を始めなさいとパウロはすすめています。33
このようにするのは、あなたがたが神のさばきを受けないためです。34
<第一コリント11章 考察>
考察1 男性と女性について、神が定めた秩序とは。
創造の順序が、男女の関係を示している。
神は、創造において男性を先に造り、男性から女性を造りました。
創造の順番が、男女の関係を決定しています。
女性は男性の権威の下にあり、男性は神の権威の下にある。
神-キリストー男ー女 このような権威の秩序がある。
当時は女性たちは、神の秩序に従っていることの「しるし」として、
「かぶりもの」をつけて礼拝した。
女性が男性に従って助ける役割を果たすことは、神が定めた女性の役割です。
「かぶり物」は、女性が、神の秩序に従って、男性の権威の下で信仰していることの象徴(しるし)でした。
現代、礼拝で「かぶりもの」を着けるように指導する教会は少ないです。
しかし、女性たちの「かぶりもの」が象徴するところの、「神の奥義」に従って信仰を守ることは、現代も当時も変わりはありません。つまり、女性は男性の権威の下で礼拝するという原則です。
女性は男性を助ける立場に立つべき。
男性は女性を支配するのではない。神に従って女性と協力して奉仕する。
男女は違う役割を担います。互いを必要としています。男性だけではは、神の御心は完成しません。
女性は男性の権威の下にありますが、男性は女性を指導し保護する責任を命じられています。
女性を奴隷のように扱うことは、自分をも不幸にすることになると聖書は戒めています。(創世記)
男性も女性も、神に従い、助け合うことによって、共に幸せで、神に喜ばれる奉仕ができるのです。
考察2 教会で、男女はどのように奉仕できるか。
男性が教会のリーダーであることは、神が定めた秩序に合致する。聖書的である。
やむおえない状況が発生した場合は例外として、教会のトップは男性であることが望ましいと思われます。これは、神の創造の秩序から正しいことです。
これに反対する人たちがいます。「男性も女性も同じ能力がある。時には女性の方が男性よりも優れている。」彼女たちはこう主張します。
しかし、なぜ男性をリーダーに据えるのか、このことついて、議論の必要はありません。なぜなら神が男性をはじめに創造し、それから男性のために女性が創造されたからです。これは神が定められたことだからです。
人間は神の被造物であることを忘れてはいけません。自分が造られた目的に従って生きることが、被造物にとって最高の喜びなのです。
被造物が、創造された目的でないゴールを目指して努力したとしても、幸せにはなれないでしょう。それはまさしく、逆風の中で船を漕ぐようなものです。私たちは、このような過ちを犯して、疲労困憊することがないようにしたいものです。
男性リーダーが群れの益になると判断する場合に限って、女性は預言(説教)ができると考える。
教会において、男性がリーダーとなることは創造の秩序に準じたことで、聖書的であると考えます。
パウロも、監督する者の資格として、1人の妻の夫であることを言っています。
考察3 男性がリーダーであるが、女性を支配してはならない。
男性は神に従って、女性と協力して御心を実現しなければならない。
パウロの時代から、女性たちは教会で重要な役割を果たしていた。
パウロの時代、女性にも神のことばが下りました。
女性は礼拝で預言も祈りもしていました。1コリント11:5
教会には有力な2人の女性信者がいました。彼女たちはパウロの宣教を大いに助けました。
パウロが、彼女たちが仲直りするように勧めるほと、彼女たちの教会での影響力は大きかったのです。
パウロは女性たちと協力して働いた。女性の立場が低かった当時としては、めずらしいことだった。
パウロは、手紙の最後に彼女たちに、あたたかい挨拶のことばを送っています。当時、女性を数えなかったほど、女性の地位は今の時代と違って低かったのです。パウロの女性たちに対する処し方は、当時としては非常に新しいものでした。それは、キリストにより罪がゆるされて、男性が女性に対するのろいを解くことができるからです。
しかし、このことは男性も女性も神に従う限りにおいて実現することです。
男性も女性も神に従わないなら、男女のうるわしい調和は実現しません。
男性が女性を支配し、女性蔑視、女性差別が起きてはいけない。
男性は神の秩序に従って、女性に与えられた賜物を、教会の益のために用いる責任がある。
男性であっても、その人に賜物がないなら、その職を止めさせるべき。
どのように対処するかは、教会の状況、集う人の賜物によって、柔軟に判断されるべきである。
1つの決まった型があるのではない。
創造の順番を理由に、男性が女性を支配し、奴隷的に従わせることになってはいけません。
男性が女性の上に権威をもつことは、男性が女性より優れていると言う意味ではありません。
神は男性も女性も両方とも愛しています。私たち1人1人の救いのために、キリストは死なれたのです。男性と女性は、優劣ではなく、役割や目的が違うことを覚えておきたいものです。この事実に立つ時、神は必ず教会に、男女が秩序を保って、共に神に仕える道を示してくださいます。
考察4 「女性は黙っていなさい」(第一コリント14:34)について。
この聖句は、女性はいっさい語ってはならないという意味ではない。
礼拝の途中で質問をしたり、解き明かす人がいないのにもかかわらず異言を話したり、また複数の人が同時に話したりして、教会の秩序を乱す女性たちがいました。このことをパウロはいましめました。
この聖句から、「女性はいっさい教会では発言してはいけない」と結論する教派があります。しかし、これは行き過ぎた解釈です。なぜなら、この聖句は、礼拝説教が理解できない時に、説教を中断させて質問する女性たちを、いましめている箇所だからです。その証拠に、質問があるなら、家で自分の夫に聞きなさいとパウロは言っています。
この聖句を理由にして、女性はいっさい教会で語ってはならない、預言をしてもいけないというなら、間違った聖書解釈です。男性が、女性を奴隷として支配するための理由づけであると言わざるをえません。
パウロもこの章において、女性が預言することを当然のこととしています。なぜなら、神のことばは、女性にも下ったからです。(11:5)
問題は、それがどのように教会で分かち合われるかです。パウロがいつも勧めているように、自分の益だけを考えるのではなく、他者の益を考えて行う、適切に秩序を守って行う必要があるのです。
考察5 女性としての魅力をアピールすることは控えるべき。
当時、自分の髪の覆いをとって、髪をなびかせて、預言をし、異言を語る女性たちがいました。これは、自分の肉体美を見せびらかして、会衆を魅了しようとする罪です。教会においては、厳に慎むべき行為です。
今の時代も、これと同様のことが、教会でよく見られます。
女性の性的魅力をアピールする肌の露出の多い服、飾り物などです。
これらは、女性の美によって、男性を魅了することにより、男性を自分の自由にあやつろうとする女性の罪の思いから発しています。
教会において、女性は装いに気を付けるべきです。女性としての魅力をアピールすることは極力控えるべきです。教会は神を礼拝するところだからです。
男性の理性を狂わせないために、女性はつつましい身なりを心がけ、神の恵みを分かち合う注意が必要です。
考察6 教会だけではなく、社会においても、男性と女性がともに神に従って責任を果たすことができれば、本来あるべき社会を形成することができる。
男性と女性は支配と奴隷の関係ではありません。男女は、ともに神の国の民です。
キリストの血がささげられている者です。
ですから、お互いを尊重し、協力し合う必要があります。
しかし、このことの実現のためには、男女がともに、神に従って実行しなければなりません。このことが男性女性双方からなされていなければ、神が望まれる調和した社会を形成することは困難です。男性と女性の両方が、本来与えられている目的に従って働くことによってはじめて、神が最初にアダムに与えた「この世界を管理する仕事」が円滑になされていくと考えます。
考察7 主の晩餐について
聖書から、主の晩餐の意味と目的を知り、どのように行うべきであるかを明らかにすることは重要だと思います。
主の晩餐は、厳粛なものであり、ふさわしくない者が受けるなら、その身に神のさばきを招くことを知らなければなりません。
未信者や求道者の好意を得るため、教会に訪れたすべての人に聖餐を許可するとか、求道中の人に聖餐を受けさせるべきではありません。
私たちは、教会の儀式だと理解して、日ごろあまり深く考えることなく、聖餐を受けています。この章は、聖餐について、もっと深く考える機会を私たちに与えてくれます。そして、その深い意味が理解できた時、聖餐を受けることが、以前よりもっと恵みと感謝に満ちたものとなることでしょう。