自分が神から受けた愛におののき
その愛に応答して現わされる賜物だけに価値がある
1-3節
12:30 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。
12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
この聖句の「愛」はギリシャ語のアガペーが用いられている。
後半の文脈からも、愛とは人間の愛ではなく、イエスご自身であると言える。
つまり、イエスが示された愛、神の完全な愛のことである。
この章での「愛」の意味を誤解すると、
3章全体が、人間の努力で実行する愛のことだと間違って解釈するので注意が必要である。
さらに優れた賜物とは。
自分が受けた神の愛への応答として実行される賜物。
たとえ、異言や、御使いの異言(御使いの言葉で話す、特別に霊的な預言)で話しても、また不可能を可能にするような強い信仰を持っていたとしても、たとえ自分の命を他人のために犠牲にしたとしても、その行為が神の愛(アガペーの愛、イエスが罪びとのために死なれた愛)の応答として実行されていないなら、神の前には何の価値もありません。
神の愛を受けて救われた人は、その愛を現実の世界に反映させていく。
自分のためではなく、神の栄光を現わすために、神から与えられた賜物を用いる。
神のためではなく、自分のために、賜物を用いるなら、この世で結果を出したとしても、神にとって何の価値もありません。他者からの尊敬を受けるために賜物を用いるなら、そのような奉仕は、たとえ「神のため」だと言われていても、神の国とは何の関係もありません。死んだ後のさばきの時、自分の貢献をアピールしても、神に知らないと言われる行いです。
私たちが求めるべき愛とは、イエス・キリスト
キリストの愛を知り、キリストの愛に答えて生きること
4-7
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
ここで「愛」という言葉は、ギリシャ語のアガペーが使われています。
これは、神が人間を愛する愛です。
与える価値の無い者に対して、神が愛することを選択し、愛する愛です。
人間は、神を、また、人をこのような愛で愛することができません。
ここでの愛は、人間が実行する愛ではなく、神が人間を愛する愛です。
私たちが求めるべき「さらにすぐれた賜物」とは。
キリストが自分に示された、人知を超えた愛を知ること。
キリストから受けた愛に感動してイエスに従っていくこと。
神は、ある人を愛することを選んで、救いを与えます。
神からアガペーの愛で愛された信者は、そのままでとどまることはありません。
彼らは必ず、他者に対して愛を示す者になります。
4-8節は、神の愛が、救われた人に現わす人格の実です。
寛容で、親切、自慢せず、高慢にならない。4
礼儀をわきまえ、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わない。5
不正を喜ばず真理をよろこぶ。6
困難を感じる人や物事をがまんし、それらが良くなるだろうと期待して、忍耐をもってその人や物事に向き合う。 7
4-8節に列挙された愛は、イエスが罪びとを救うために示された愛です。
私は、神の愛に感動を覚えます。このような愛は私には不可能だからです。
これらは私たちが目指すべき人格の実ですが、人間には限界があります。
これらすべてを備えておられる方は、ただ1人イエスしかありません。
上記の姿は、すべて私たちを救うために、イエスご自身が私たちに対して示された愛の姿です。
天において完全に神を知ることができるようになる。
預言、異言、きせき、いやしの賜物は必要がなくなる
だからこそ、神の愛の応答として神に従って生きること。
賜物を御心に従って神のために用いることが重要である。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が 完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
主が来られる日には、私たちは完全に神について知ることになる。
この世の賜物は必要がなくなる。
しかし、愛は決してすたれることはない。
よって、賜物を熱心に求めるよりも、愛を追い求めるべきである8-12
復活の主が再臨される時には、すべての真理が私たちに明らかにされます。(完全なものが現れたら)そうすれば、預言や異言などの、完全にすべてを啓示するものではない賜物は必要がなくなります。(不完全なものはすたれる)10
私たちは今、預言や異言などを通して、鏡にぼんやり映るようにしか神を知ることができません。しかし、その時(再臨の時)には、神が完全に私たちを知っておられるのと同じ様に、私たちも神を完全に知ることになります。12
賜物を第一に求めてはならない。
自分にとって神に従う生き方はどのようなものかを求めなければならない。
その過程で、賜物が与えられ、生き方が示される。
自分に与えられた賜物を用いることが神に従うことなら、神のために用いる。
天に置いて価値を持つことは、伝道の成果をあげること、癒しや奇跡を行うことではない。
天で神の前に価値を持つことは、自分を救った「神の愛」に、どれほど自分が従順に応答したかということだけである。
すべての賜物に勝って優れているのは「神の愛」です。
賜物を求めることを第一にするのではなく、
神の愛に応答して、自分に示される神の計画に従って生きることが一番重要です。そのときに、賜物を用いるように神から示されたなら、神の栄光が現わされるために、自分に与えられた賜物を用いて行くのです。
<第一コリント12章 考察>
考察1 どのように良い行いも、神からの愛に対する応答としてなされていないなら、天においては価値を認められない。
未信者の良い行いは、神の愛に根源がない。だから天では価値を認められない。
多くの良い働きがあります。しかし、神のアガペーの愛を受けた結果として、その愛の応答として、発動した行いでないなら、神の前には無価値であると12章では言われています。
未信者の中には、他者の命を救うために自分の命を犠牲にするほどの人もありますが、彼らは創造主を否定しており、神の愛を基としていないため、天では価値のないものです。
クリスチャンであっても、動機が問われる。
利己的な動機でなされる奉仕は、天では無価値。
また、たとえクリスチャンと自称する人たちでも、神の愛に源を置いていない奉仕であれば、これと同様にみなされるのです。たとえ素晴らしい賜物を持って奉仕していたとしても、その動機が「自分のため」であるならばいっさい価値はありません。
神の自分に対する忍耐とあわれみを深く知ることによって、神の愛におののき、感謝した結果として、心の内に湧き上がってくる他者へのあわれみと愛から、他者の徳を高めるために、また他者の益のために行われる奉仕でないならば、神の前に価値はありません。
いろいろな理由をつけていても、動機が自分のためであり、自分の益のためにしている奉仕は、天では消えてなくなる働きです。これについては、14章でさらに深く説明がされています。ぜひ、14章をご覧ください。
考察2 賜物を自分の益のために用いている例
礼拝で異言を語る。
動機は、自分の賜物を見せたい、霊的と思われたいから。
コリント教会では、異言の賜物が重要視されていました。
異言は、他国の言葉で神のことを語ることです。人々はこの賜物を持つ信者を特に優れて霊的だと評価していました。そのため、人々は異言の賜物を求めました。
しかし、異言は外国語で、解き明かす人がいなければ、誰の益にもなりません。解き明かす人がいないのに、礼拝で異言を話すなら、その動機は、自分の賜物を人に見せたい、そして人々からの尊敬を得たいという思いです。
パウロは、解き明かしのない異言を礼拝で語ることを禁じている。
このことをパウロは非難しています。12章で、賜物は、神によって与えられ、他者の益となるために与えられている事実を示し、異言を公衆の面前で語ることは、自分のためにしていることではないのか、他者のためになっているのかという厳しい指摘をしています。
また、この13章では、愛にもとづいて賜物が用いられているかが問われています。愛は、自分の利益よりも他者の利益を思う心です。
愛を動機にしているなら、他者に益を与えることがない自分の賜物を、礼拝を混乱させてまで、ひけらかすような行為は、決してできないはずだとパウロは言いたいのです。
すぐれた説教者と認められたい動機から話される説教。
みことばを解き明かす奉仕の場合は、いかにして人を感心させるかが目標となります。それには、人が驚く神の奥義を発見したり、新しい解釈を披露することが効果的です。これは、非常に危険なことです。人を誤って導いてしまうことになりかねません。
教会員同士の賜物の競い合い
教会での奉仕も、互いが賜物を競い合うことがあります。
調理の奉仕
料理の奉仕は、料理ができる人同士が競い合い、奉仕の取り合いが起きます。
料理が上手にできることが目標となります。教会で皆が協力して調理し、神に感謝して食事をするという本来の目標が否定されます。それよりも、どれほどおいし料理を作るか、それができる人は誰かが問題にされることになります。
奏楽の奉仕
奏楽の奉仕もそうです。素晴らしく演奏できる人、歌声の素晴らしい人が誉められます。賛美の奉仕は、自分の賜物磨いて披露する機会になります。
「神に賛美を捧げる」という本来の目的が2次的になり、「自分が人からの評価を得る」ために賛美しているということになります。このような奉仕を、神は喜ばれないことは明らかです。
私たちは、キリストの愛に基を置かない奉仕をしていないでしょうか。
自分の賜物を、自分に尊敬を集めるために用いてはいないでしょうか。
自分の賜物が他者の利益のためになっているでしょうか。
考察2 神に対する貢献の度合いによって、神は信者を評価するのではない。
神から受けた召命に従い、与えられた賜物を神の御心に従って用いたかどうかを神は評価される。
- 教職だけではなく、職業など生き方全般に関する召命に忠実であったか。
- 与えられた賜物を、神の御心にそって、正しく用いたかどうか。
多くの人が聖書の価値観を否定する時代でも、聖書に忠実に生きること。
宣教が進まなくても、未信者からばかにされても、福音を知らせ続けること。
自分に与えられた職業を忠実に行い、世の人々を助けること。
宣教の結果を出しても、不忠実な人の働きを神は評価しない。
最悪の場合、天の御国に入ることをゆるさない。
多くの信者を集めたとしても、福音をゆがめて語っている場合や、
多くの献金をしていても、不正や貧しい人から搾取したお金であれば、天ではこれらの働きに何の価値も認められません。それどころか、このような人たちは、この世で尊敬されていますが、天国に入ることができない可能性が高いです。
私たちは、結果だけを見て人を評価しないようにしましょう。
神は私たちがどれほど大きな成果を残したかではなく、私たちに与えた使命を果たす過程の忠実さをご覧になっておられるからです。
結果がだせないから、自分を卑下してもいけません。
神のための働きの大小や、成功・失敗ではなく、その時々の状況の中で、自分が神の御心に従って忠実に行ったかどうか、それだけを評価するようにしようではありませんか。