<賜物について> 12章、13章のポイント
賜物について、12章のポイント
賜物は、他者の益のために、神が信者に与えたものです。
信者は、自分に与えられた賜物を、御心に従って用いる責任があります。さらに、他者に与えられている賜物を尊重し、良い働きのために、互いの賜物を協力して働かせる責任があります。
ですから、自分の賜物に不満を持つこと、他者の賜物をうらやむこと、御心に反して他者と協力しないことは、神に大いに逆らう罪です。
最後には、どのようにすぐれた賜物も、主の日には廃れるものであることが強調されました。私たちが求めるべきさらにすぐれた道は、愛の道であることが示されました。
賜物について、13章のポイント
12章の最後に言われた「さらにすぐれた道」とは、「神が罪びとを救うために死なれることによって現わされた愛の道」です。私たちが求めるべき道は、この「神の愛(アガペー)」に応答する道です。
キリストが私たちを愛する愛は、一番すぐれていて最後まで残ります。この神の愛を受けた信者は、ただ神の愛を受けるだけに留まらず、他者に対して自分が受けた愛を反映していきます。それらの具体的な現れが、4節から7節において、寛容、親切、忍耐などの徳として挙げられています。
賜物は、神の愛を基盤として現れる徳をもって働かせるときに、つまり自分に対するアガペーの愛への感謝の思いから生じるとき、最も豊かな成果を上げることができます。そうでない場合は、賜物は自己実現の道具となり、教会に分裂や混乱を招きます。
「さらにすぐれた道」を求める人、つまり神の愛に応答して生きる人は、他者に対して寛容となり、良く忍耐して、他者の利益を図るはずだとパウロは言っています。そうであれば、賜物を用いることによって、教会が混乱するような事態は起こるはずがありません。
コリント教会では、各人が自分の優れた賜物を見せることを第一の目的としていたために、教会に混乱がありました。コリントの信徒たちは、賜物についての考え方が大いに間違っていました。
賜物について、14章のポイント
特に異言の賜物の用い方について具体的な指示が書かれています。当時のコリント教会が、異言を偏重する傾向が強かったためです。特に、礼拝において、異言が無秩序に話され、礼拝が混乱していました。
14章では、異言の性格が預言と比べて説明されています。結局、異言か預言かという問題は、自分の利益を優先するか、他者の利益を優先するかという問題に行き着きます。
<14章の聖書解釈>
異言の賜物を重視することへの警告
1節
14:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
自分のために異言を求めるのではなく、他者のために預言を求めなさい。
神の愛の道に進むこと。特に、預言することを求めなさい。
ここで言われている愛は人間の賜物ではありません。
愛は、ギリシャ語でアガペーが使われています。
新改訳では、「愛を追い求めなさい」NIV英語訳では、“Follow the way of Love”で、神が自分を愛してくださったアガペーの愛に従って生きるという意味です。
つまり、「愛を追い求めなさい」とは、自分に与えられた神の無条件の愛に応答して生きなさいということです。
またこの箇所では、愛を求めることが初めに書かれ、その後で賜物を求めることが書かれています。これは、まず自分に与えられた神の愛を本当に知ることを第一とし、その上で神からの賜物を求めなさいということではないでしょうか。もっと言えば、神の愛に本当に感謝するならば、賜物は付随して与えられるし、その賜物を神の目的に従って、適切に用いることができるであろうと言われているのではないでしょうか。
この言葉は、各人が自分のために無秩序に異言の賜物を用いた結果、混乱しているコリント教会への忠告であると思われます。
確かに、賜物は素晴らしいものです。しかし、それは不完全であり、いつかは廃れるものです。「愛の道を求めること」これが一番優れていて最後まで残るものです。賜物は、神が示してくださった愛の道求める途上で与えられ、御心にしたがって他者の益のために用いられるものです。
神の愛に基を置かない奉仕は無価値です。受ける価値のない自分に与えられた驚くべき救いの恵みに感謝し、神から受けた愛への応答として、さらに言えば、神の愛に報いる動機からなされる奉仕のみが、神の前では価値があるからです。
異言とはどのようなものか
2-20
- 自分の霊で神の奥義を話す。神に向かって話すことば。2
14:2 異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。 - 異言を話すことは、自分の徳を高める行為。4
14:4 異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。 - 異言は、外国語。解き明かす者がいなければ、他の人には理解できない。
他の信者の徳を高めることにならない。5、6-11,16-19 - パウロは異言を話すことの重要性も認めているが、他者の益を考えるなら、教会では話すべきではないとしている。
14:5 私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の 徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。
14:6 ですから、兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう。 - 異言を話す時には、それを解き明かす者がなければならない。13
14:13 こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。 - 異言を話すことにより霊は実を結ぶが、知性は実を結ばない。14
14:14 もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。 - 異言は、異邦人のことば(外国語)で、その言葉を話す未信者に神のことを伝える目的がある。
14:21 律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』 と主は言われる。」
知性においても祈り、霊においても祈りましょう。15
14:15 ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。
知性を用いてみなが理解できる言葉で祈ることと、異言を語ることの両方をしていこうという勧めです。しかし、この根底には、他者の益を考えて、両方を適切に行っていくべきであるという意図があることを忘れてはいけません。
異言には人を救う力はない。
異言は、信じない人の不信仰を明らかにするしるし 21-22
14:21 律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる。」
14:22 それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。
ここで、イザヤ書が引用されています。イザヤの明確な預言に逆らい、イスラエルの民は彼の預言を無視しました。そして、彼らの不信仰の刑罰として外国語を話すアッシリヤ軍が侵入して来ました。しかし、彼らの心はかたくなで、神を拒否し続けました。
これと同じように、異言をいくら話しても、民は悔い改めないことを言いたいのです。異言には人を救う働きはありません。
私たちは、異言を聞いても何を言っているか理解できません。なぜなら、その言葉を語る国に属さない外国人だからです。そのように、異言は、神を拒絶する人たちが、みことばを聞いても理解しないし信じないことを現わすしるしです。つまり不信者が御国に属さない外国人であることを示すしるしです。異言は、信じない人たちへのしるしです。彼らが不信仰であることを証明するしるしです。
集会での異言、預言を語る時のルール
23-33
4:23 だから、もし全集会が一しょに集まって皆が霊言を語っているとき、(霊言のわからない)初心者か不信者たちが入ってきたらば、「あなた達は気が狂ってい る」と言われないだろうか。
14:24 しかし皆が預言しているとき、ある不信者か初心者が入ってきたならば、その人は皆に誤りを認めさせられ、皆に批判され、
14:25 自分の心の中の隠れたことが明らかになり、こうして、地にひれ伏して神を『おがみ、「ほんとうに神はあなた達の中においでに成る」』と公言するであろう。
預言は信者の徳を高め、未信者を悔い改めに導くことができる。23-25
信者のためのしるし。22
信者に警告を与え、正しい道を歩むように勧める賜物。
信者でない者や初信の者は、預言によって自分の罪を示され、さばかれ、心の秘密が明らかにされ、悔い改めに導かれる。24-25
教会の徳を高めるために賜物を用いなさい。12
14:12 あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。
教会の徳を高める賜物を求めなさい
教会で集まるときは、賜物を教会の徳が高まるために用いなさい。
教会では異言は話さない。家で1人の時に話しなさい。28
14:28 もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。
解き明かす者がいなければ、教会では話さないこと。
異言は、家で1人の時に話すこと。
教会で異言を話すときのルール
14:29 預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。
14:30 もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。
14:31 あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。
解き明かしができる者がいなければならない。
その預言が正しいかどうかを、皆が吟味しなければならない。29-31
2人か3人が預言をし、ほかの人は吟味する。 29
預言も、それが本当に神から来たものかどうか、吟味する必要があります。
この当時すでに、にせ預言者がいたのではないかと思われます。
ですから、預言として語られることばを、吟味せずに受け取ることは危険であったのです。
別の人に預言のことばが与えられたら、先の人は黙る。30
みながかわるがわる預言すること。31
14:32 預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。
14:33a それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。
預言者たちの霊は、預言者たちに服従する。32―3
預言をする者は自分の意志で話したり、止めたりできます。
自分を制御できる状態で、預言の言葉は話されるものです。
恍惚状態になって、いったん霊が臨んで話し出したら止められないとか、話したことを覚えていないというものではありません。もし、自分で制御できない預言、つまり秩序をもって用いることのできない預言は偽物です。
コリント教会の一部の女性たちに対する忠告
34-40
14:33b 聖徒たちのすべての教会で行なわれているように、
14:34 教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。14:35 もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。
14:36 神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいはまた、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。
婦人たちが礼拝中に説教者に質問して、礼拝を中断させていた。
女性は教会で疑問がある時は、家に帰ってから夫に聞きなさい。
女性たちが礼拝中に質問をして、礼拝を中断させていたと思われます。
コリント教会の一部の女性の中には、教会での振る舞いをわきまえない者たちがいたのでしょう。
今まで書いてきたことは主の命令です
異言、預言、礼拝などすべてのことを適切に秩序をもって行いなさい
37-40
14:37 自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。
14:38 もしそれを認めないなら、その人は認められません。
14:39 それゆえ、わたしの兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。
14:40 ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。
今まで書いてきたことは主の命令である。
すべてを適切に、秩序を持って行いなさい。37-40
パウロが、コリント教会にあてて書くことが、神の命令であることを認めるようにと言っています。神の命令であれば、絶対に守らなければなりません。37
預言することを求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。39
預言を勧めていますが、異言の大切さも認めており、異言を禁じてはいけないとも言われています。異言も預言も礼拝も、適切に秩序を持って行われてこそ、その賜物を通して教会が豊な実を結ぶことになるからです。40
<第1コリント14章 考察>
考察1 異言を重視し、異言の賜物を求めたコリント教会について思う
賜物を間違って用いる動機は何か。それは自己実現の思い。
異言は、人の目にはっきりと認められ、超自然的で、神の特別な油注ぎを本人にも、また他の信者にも感じさせる賜物です。コリント教会の信者たちが異言の賜物を求め、異言を特別に重要視していたことも納得できます。そして、礼拝において、異言が無秩序に語られて、集会が騒がしくなり、混乱する状況が発生していたと思われます。
この問題の背後にあるのは、信者の自己中心、自己実現の思いです。自分の賜物を、皆の前に見せびらかして尊敬されようとする思いです。
これは、神の愛に基礎を置き、他者の益のために生きる「愛の道」ではありません。
自己実現ではなく、神実現を求めなければならない
教会の徳を高めるための賜物を求めなさい(14:26)と言われています。
自分の賜物が、他者の役に立つかどうかを考えた上で、賜物は用いていかなければなりません。賜物が与えられている目的は、自分の能力を最大限に発揮して自己実現するためではありません。賜物は、他の信者の徳を高め、ひいては教会の徳を高め、その結果として、神のみこころが実現するために与えられているのです。つまり、自己実現のためではなく、神実現のために与えられているのです。このことを勘違いしてはいけません。
考察2 今の時代、神はどのようにして預言を与えられるのか。
旧約時代、特定の人に神は語られ、その人が民衆に伝えた。
パウロの時代、直接啓示を受ける信者たちがいて、神のことばを人々に伝えた。
パウロの生きていた時代は、新約聖書がまだ完成していなかったために、神様は、今の時代とは違う特別な配慮を信者のためになさっていました。神様からの直接啓示や黙示が何人かの信者に臨んで、啓示を与えられた信者たちが会衆全体に対して語ったと思われます。これが文字どおりの預言(預かったことば)です。ですから、当時の信者たちは、預言を預かった信者を通して、間接的に神のみこころを知ったのです。
これは、旧約時代と同じです。旧約時代は、ある特定の人に神の霊が下り、その人が全会衆に預言し、全会衆を導きました。荒野の時代、人々は、モーセを通して神のことばを聞きました。
聖書が完成してからは、各信者は聖書と聖霊によって、直接神のみこころを知ることができるようにされた。今は、聖書から真理を知ることができる。
新約聖書が完成した後の時代は、このような直接啓示はすたれました。
黙示録の最後には、「これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この書の預言のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分をとい除かれる。」(黙示録22:18-19)と書かれています。
神の啓示が完結して封印され、聖書66巻が完成してからは、聖書のことばを通して、聖霊が解き明かすことによって、各信者と直接、神は対話されるようになりました。特定の預言者を通してではなく、各人が直接神から教えられることができるようになったのです。これは恵みの非常に大きな前進です。
しかし、多くの人々は今も、預言者から預言の言葉を聞くことを好む。
しかし、ある人々はこのことを恵みとは思いません。彼らは、預言者的リーダーによって、自分に関する神のみこころを語ってもらいたいと願います。自分で聖書から聞くことを怠って、預言者たちに頼ります。彼らは、預言者もただの人間で、罪人であることや、神のように全能ではないことを忘れています。彼らは、神と直接語ることのできる恵みが与えられているのに、旧約時代と同じ様に、預言者を通して語られる自分への特別啓示を求めて、集会から集会へ走りまわっています。
今の時代、預言者と自称する人がいるなら「にせの預言者」。
もし、今の時代も神のことばを預かって語る人がいるとすれば、その人は、にせ預言者です。黙示録の最後には、「これらのことばに足したり、削ったりすることは許されない」と書かれています。これは、神のことばを直接預かって語る預言者という役割が廃棄されたことを意味します。ですから、「主はこう言われる・・・」と神の代理として話す人がいるなら、その人はにせものだと言えるのです。
考察3 では、今の時代、教会は預言をどのように用いていくべきか。
預言とは、信者が、聖書の真理から、互いに教え、励まし、戒めること。
御霊を持つ信者のみが預言の賜物を持つことを知っておくべきである。
では今の時代、教会の徳を高める預言とはどういうものなのでしょうか?
それは、礼拝説教や、聖書の学び会、キリスト者の交わりの中で、聖書のみことばから真理を分かち合うことです。知らされた真理を、自分の人生に適応していくことです。ただし、聖書を正しく解釈し、適応できるのは、御霊をいただいた信者だけです。このことを教会は知って、正しく預言の賜物を用いることが重要です。
御霊を受けた信者は、預言の賜物を求めよう。
聖書から、教え、励まし、戒め合う、信者でしかできない交わりを持とう。
聖書は、私たちに預言の賜物を求めるように勧めています。
預言は、聖霊を受けた人であるならばできるのです。
「互いの徳を高め合うために、聖書から導き出される真理を分かち合う」
これはすべての人が求めて良い賜物です。
短いことばであっても、他者に真理を悟らせることがあります。
イエス様も、むずかしいことばは使わず、生活の場で経験することを題材にして、メッセージを語られました。
信者の中には「私にはそのような賜物はないからできません」と謙遜になる人がいます。しかし、「預言」は求めなさいと言われている賜物です。
教会は、信者たちに真理を分かちあう機会を与え、預言することを励ますことが大事であると思います。
(預言とは、「主は・・言われる」と神の代弁者として語る言葉ではありません。信者が、聖書から真理を分かち合い、徳を高め合うときに話す言葉のことです)
私たちは、信者同士の交わりを保ち、聖書のみことばから互いに教え合い、励まし合い、戒め合うことができます。聖書はそれを勧めています。
異言は、自分の徳を高めるだけですが、預言は他者の徳を高める、異言よりもすぐれた賜物です。教会では預言の賜物を用いていきましょう。
ある教会の交わりは、社交場のごとく世間話しに終始しています。これは非常に残念なことです。このような交わりであれば、他でもできます。
信者は、教会でしかできない、意味のある交わりをするべきです。
キリスト者にとって、聖書から神について話し、聞き、証しすることが一番心を潤すことです。これはキリスト者同士でしかできないことです。
礼拝も教会での交わりも、すべてこのことのためにあるのですから。
考察4 分かち合いは、ルールを守って、適切に行わなければならない。
分かち合いの場を秩序をもって行うために注意すること。
分かち合いの場で、1人の人だけが長々と話をして、他の人が話す時間がなくなるようなことが起こります。また。悩み相談のために来る人、聖書についての議論に興味があり、求道する気持ちのない人などがいます。
聖書の学び会は、聖書から学ぶ心を持って集まる集会です。
聖書個所について議論したければ、別の機会を設けるべきです。
人生相談であれば、集会ではなく、個別でなされるべきです。
教会を自分のために用いる人がいるものです。
教会は、これらの人々によって集会の目的が果たせなくならないために、知恵を用いる必要があります。
集会に集まる人は、集会の目的を理解した上で、求道の思いをもって参加できる人が集まるようにしなければなりません。
礼拝を、秩序を持って行うために注意すること。
教会では、異言を語るべきではありません。
異言は、家で1人の時に神に向かって話すべきです。
しかし、聖書のことばを解き明かし、真理を明らかにする預言は大いに語られるべきです。
ただし、それは秩序を持って語られるべきです。
預言は1人が話しを独占するのではなく、みなが順に話せるようにするべきです。
そして、語られた預言は吟味されるべきで、正しくないと判断されるものは参考にしてはいけません。
他者と意見が違う時、聖書を調べて意見を一致させることが重要性。
他人の意を害することを恐れて、間違っていると思っても指摘しないことがあります。ところが、聖書の分かち合いでは、真理について議論することは、大いになされるべきことです。自分は、そのことがなぜ間違っていると思うかを、聖書から説明して、真理は何であるかをお互いに調べて話し合うことが重要です。そのことを通して互いを教え、矯正することができるからです。
聖書よりも理性や感情に頼る人とは、いくら議論しても一致は不可能だと知っておくこと。
そして無駄な議論の応酬に巻き込まれないようにすることも重要である。
しかし、この場合、お互いが聖書を絶対的な真理と認めていなければなりません。聖書より自分の感情や理性を重んじる人と話し合っても、聖書から示される真理において一致することはできないからです。このことを知って、必要以上に彼らとの議論にのめりこまないことは知恵のあることだと思います。