回心は、知恵を用いた説得によって起こるのではない
御霊と御力が「十字架のおろかな言葉」の正しさを
聞く人の心に強く示すことによる1-5
2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。
2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
イエスの死と復活、神の救いの計画を語ることに専念したパウロ。1、2節
パウロはコリントで宣教を開始したとき、当時のギリシャ人たちが価値あると考えるすぐれたことばや知恵を使いませんでした。
彼は、イエスに関する出来事だけを伝えました。イエスが十字架にかかって死んだこと、3日後に復活されたことです。そして、この事実から明らかにされた「神の救いの計画」を語ることに専念しました。
コリントに来た時のパウロは、弱く恐れおののいていた。3節
パウロには、人をひきつける魅力はなかった。
人々は説教者の容姿や言葉遣いなどの印象から説教者の優劣を判断するものです。しかし、パウロは弱く、恐れおののいていました。
パウロはその時、アテネでの宣教で成果を見ることができずに落胆しており、しかも弟子たちとも離れて1人だったのです。また、コリントの町にあふれる偶像や、退廃的な暮らしを楽しんでいる人々を見て、彼らを回心させることの難しさを感じていたとも考えられます。
御霊が力強く働き、聞く人に確信を与えてくださった。4節
彼は、知恵を用いてイエスがキリストであことを説得したのではありません。
彼が語ったのは、人が聞いて愚かと思える「宣教のことば」でした。
しかし、御霊が聞いた人々に力強く働きかけて、確信を起させたのでした。
2:4 and my message and my preaching were not in persuasive words of wisdom, but in demonstration of the Spirit and of power, 5 so that your faith would not rest on the wisdom of mankind, but on the power of God.
(NASB訳)
聖霊が人に確信を与えて信じさせる。宣教と聖霊は切り離せない関係にある
- 聖霊の働き無しに人は救われない。
- 宣教のことばを聞くことなしに、聖霊は真理を示さない。
御霊と御力のあらわれ (エペソ2章4節)
「あらわれ」と訳されたギリシャ語 αποδειξειは、「証明」という意味。
複合動詞 απο強く+ δεικυμι示すこと。
あることが正しいことを強く示す。そのことの証拠を示すこと。
御霊と御力の証明(demonstration of the Spirit and of power)とは、
聖霊が、聞き手に「イエスがキリストであること」を強く示すこと。
聞き手に、上記のことを確信させることという意味になる。
聖霊が人の心に強く働きかけて、イエスを主と告白する確信を与え、イエスを喜ぶ者としていることを、主イエスもパウロも同意している。
<イエスの証言>
- 主イエス:マタイ10:20 迫害者に弁明するとき「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される父の御霊」
- ヨハネ15:26,27 「御霊がわたしについてあかしする。」
<パウロの証言>
- 1コリント4:20「神の国はことばにではなく、力にある」
- ローマ15:19「しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によってそれ(宣教)を成し遂げてくださいました。」
- 1テサ1:5「福音があなたがたに伝えられたのは、ことばによったのではなく、力と聖霊の強い確信とによったからです。」
- 1テサ1:6「あなたがたも。多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」
2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
信仰が、人間の知恵や意志が同意によって保たれているならば、時代が変われば信仰が価値を失い、信じなくなることも起こりえます。なぜなら、人間のモラルや社会環境(科学の進歩など)は時代によって変化するため、人間は神のことばに同意できなくなるからです。
しかし神に支えられた信仰は、時代が移り変わっても無くなることはありません。なぜなら、神の定め、神のご意思は、永遠に変わらないからです。ですから、神にささえられた信仰は、たとえ迫害の時代が来たとしても、良く耐えて実を結びます。
へブル書12章も、信仰が神によって始められ、完成されることを証言している。
信仰は、常に揺れ動く人間の知恵を通して生じたものではなく、神の力によって生じたものです。
「神が信仰の創始者であり完成者」 ヘブ12:2
人間が思いつきもしない「神の知恵」6-9
2:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
この世は「神の知恵」を理解できない。6、8節
しかし、パウロは信仰において成長している人には「神の知恵」を語ります。
「神の知恵」は時代によって移り変わる、この世の知恵ではありません。6
神の知恵」をこの世の支配者たちは誰一人理解できませんでした。もし、理解していたら、彼らはイエスを十字架につけなかったでしょう。8
救いを与える「神の知恵」は、この世が始まる前から定められていた。
人間には考え出すことが不可能なもの。7,9節
信仰において成長した者たちが知る「神の知恵」は、多くの人に隠されている奥義で、この世界が始まる前から、神によってあらかじめ定められていたものです。7
この天地が造られる以前から、神が備えてくださっていた「救い」は、人間が見たことも聞いたこともないこと、人間が思いつきもしないものです。神が、神を愛する(信じる)人のために備えてくださった「救い」とは、このようなものです。9
「神の知恵」は御霊によって知る
だから、私たちは御霊を受けて救われた
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
御霊は神のみこころを知っている。10,11節
神はこの奥義を、御霊によって私たちに啓示してくださいました。10
御霊はすべてのことを探り、神の深い奥義までも啓示してくださるからです。
人のことは、その人の中にある霊が一番良く知っているように、神のみこころのことは、神の霊、つまり御霊が一番良く知っているのです。11
私たちは御霊を受けて信者とされた。
それは御霊によって「神の知恵」を理解するため。12節
私たちクリスチャンは、この世の霊ではなく、神の御霊を受けました。
御霊を受けた理由は、自分たちの功績によらず、全く神から恵みとして与えられた「神の知恵」「神の救い」を、御霊の解き明かしによって信者が知るためです。12
御霊を受けた人だけが「神」を正しく伝えることができる
御霊に支配される人は、キリストの判断をもって
全てのことを治めることができる
2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。
御霊によらなければ「救い」ついて正しく知り語ることはできない。13
この賜物(救いを与える神の知恵)について話すためには、この世の知識を用いた論証によらず、御霊に教えられたことばを使って話します。神についてのことは、御霊に属することですから、御霊のことばをもって話すのです。
御霊を受けていない人は、神が定めた「救いの奥義」をおろかと思う。14
生まれながらの人(御霊をいただいていない人=新生していない人)は、神の御霊に属すること、つまり「救いに関して神が定めた」ことを受け入れません。それらは彼らにとっては愚かなことにしか思えないからです。
彼らは御霊を受けていないため、神の奥義を悟ることができません。
神に関することは、御霊によってしか理解することができないからです。
御霊を受けている人は、神の奥義を理解できる。15
「御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれ」2章10節
「私たちは御霊を受けました。そえは恵みによって神から私たちが賜ったもの(救いの恵み)を、私たちが知るためです」2章12節
「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」2章11節
御霊を受けている人は、神の奥義を理解できます。
なぜなら、御霊が神について解き明かしてくださるからです。
聖霊に支配された信者は人の評価で判断されない。
神の評価で判断される。15
2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
パウロは、コリント教会の人たちが、自分たちの好みによって、教師たちを評価していたことを戒めている。
The spiritual man makes judgements about all things, but he himself is not subject to any man’s judgement. Subject 管理下にある Judgement さばき
意味:信仰者は、誰のさばきの下にもない。神のさばきの下にのみあるのみ。
信者には「キリストの心」がある。神のみこころを知ることができる。16
生まれながらの人は、神のみこころを知り行うことができません。
ところが驚くべきことに、信仰者には御霊が与えられ、キリストの心が宿っているのです。そして、その心によって主のみこころを知ることができるのです。
<第1コリント2章 考察>
考察1 この世の知恵を用いて、神を伝える教師たちが多い/1-3節から
このような教師たちは次のように言います。
「神の奥義は、人間の知恵を否定しません。聖書と人間の知恵は両立します。人間の知恵は神の奥義をますます明らかにしていくことができます。あなた方が信じる以前から持っている知恵や価値観を捨てる必要はありません。知恵ある者たちこそ神の奥義を極めることができるのです。」このように人々を説得し、科学によって神の創造のわざを説明し、人間中心の世界観によって聖書を解き明かすのです。彼らは人々から良い評価を得ることができ、大きな教会を作ることができるでしょう。そのために、このように伝道する教師たちが多いのです。
考察2 「救い」は神の御霊と御力による内的確信によって起こる。
伝道者の務めは、世の人が愚かと思う「十字架のことば」を語ること。
パウロの伝道が成功した理由は、彼が語った「おろかに聞こえる福音ことば」を聞いた人の心に、聖霊が「正しい」と思う確信を与えたからだった。
パウロは、コリントの町に来て、偶像があふれ、この世の富と快楽を追い求めている人々を見て、任務の困難さを覚えて恐れおののいていました。また、彼には人々を魅了するような姿はありませんでした。(彼には人を遠ざけるような病気がありました)彼は説得力のある演説で人々を説得したのではありません。彼は、ただ十字架の事実とその事実から明らかになった神の救いのご計画を伝えただけでした。
しかし、彼がその結果見たものは、人々が救われていく姿でした。これは、神が御霊の力により人々の心に、人がおろかと思う福音のことばを正しいと思う確信を与えられたからでした。
私たちの使命は、福音をあますところなく伝えること。
救われる人に、聖霊は信仰の確信を与えてくださる。
私たちは、人間的にも、信仰においても弱さや不完全さがあります。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるだけでいいのです。
おろかだと思われても福音をそのままお伝えすることです。後は聖霊が働いてくださいます。救われる人には、聖霊は聞いたことが正しいと思う心を起させてくださいます。聖霊こそ救いのカギです。聖霊の働きかけがあってはじめて、人は救われます。伝道する人の務めは、福音を伝えることと、聞いた人に聖霊が働くように祈ることす。
世の人から知者と思われたいために、この世の知恵を用いて福音を説明しようとしてはならない。おろかと思われても、聖書が示す通りに語ることが大事。
知識のある人だと尊敬されたいために、聖書とこの世の知恵をうまく混ぜ合わせて神について、救いについて伝える人たちがいます。しかし、これでは正しく信仰を伝えることはできません。彼らの語る福音は、世の知恵という混ぜ物がなされた純粋ではない知らせだからです。
なぜなら、このような説得によって信仰を告白した人は、パウロが伝えた福音をそのまま理解できません。その結果、偽物のクリスチャンを量産することになっていまいます。
このように勧めるのは、信仰がこの世の知恵にささえられず、神の力によってささえられるため。神の力にささえられた信仰だけが、天国に入る信仰だから。
この世の知恵に裏付けられた信仰は、世の常識が変われば信じ方も変わり、この世がこの信仰を止めさせようとするなら信仰を捨てます。
しかし、御霊の力により支えられた信仰は、御霊によって教えられるため、この世の移り変わる価値判断に左右されることなく、聖書に現わされた神の価値判断にとどまり続け、変わることがありません。たとえ迫害に会うことがあっても、信仰を捨てることはありません。なぜなら、その人の信仰は神が維持しておられるからです。
ですから伝道者は、神によってささえられた信仰を紹介することが務めです。
そのためには、この世のすぐれたことばを用いるのではなく、皆がおろかだと思う「十字架のことば」をそのままお伝えすることが最善です。なぜなら、その人は、この世の知恵によって説得されず、聖霊の働きによって、生まれながらの人には決して理解できない福音を信じる確信が与えられて、救われることができるからです。
考察3 教師は人間的な基準で評価できない。神の基準で評価する。
学歴、経歴、偉い先生の推薦などの外的要因で教師を評価してはならない。
真の福音を語り、実践する教師を評価して、教会員は一致するべきである。
ペテロ、アポロ、パウロらの教師の教えに違いがあったとは思われません。
しかし、教会員たちは彼らの人間的な要素によって優劣をつけ、分裂していました。ある人はアポロの雄弁さを評価し、別の人はペテロの教会の長老としての立場、また別の人は多くの教会を開拓したパウロの働きを評価しました。
しかし、本来彼らは、これらすべての教師から学ぶことができ、一致することができたはずでした。
私たちの教師に対する評価は、教師自身の経歴や教会での成果、どの師匠に認められているかによって大きく左右されます。しかし、パウロは、霊的な人は、人間の評価ではなく神の評価の下にあると言いました。
ですから、教師であれ信者であれ「その人が福音を正しく語っているか信じているか、自分が語る福音に従って実践しているか」このことが、信仰の人を評価する際の一番重要なポイントになります。
このことをクリヤーしている人であるなら、どのような経歴、立場の人からも学ぶことができるのです。
私たちはこのことを心に留めて、教会の働き人、信者を認めていくべきだと考えます。