自分たちが指示する教師を偉くして、
教会を支配しようとする肉的クリスチャンを戒める
4:1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
4:2 このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。
教師たちは神に忠実であることが要求される。1-2
私たち教師(パウロやアポロ)は神の奥義を教え守る管理者であると思いなさい。
教師たちには神に忠実であること、つまり神の知恵である奥義を正しく知って信徒たちに伝え、実践させる務めが要求されます。
4:3 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくこと さえしません。
4:4 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。
4:5 ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。
人の働きを正しくの評価する方は、主のみである。
人の評価、自分の良心による評価は、確かなものではないと心得よ。3-5
教師たちの働きを評価するのは人間ではありません。それは神です。
主が来られる日、つまりキリストが地上に再臨なさる日に、あるいは私たちが死んで天上において主とお会いする日に、主は各人が地上において隠れて行った事や地上での心の思いのすべてを明らかにして、完全に正しいさばきをなり、各人に報酬を与えます。
ですから、私パウロにとっては、あなたがた神に従わないコリント教会の人々の、私にする判定、およそ人間による判定は小さなことであると考えています。(気にしません。)私は自分でも、自分の働きについて、その偉大さがどれほどかを判定することをしません。なぜなら、私は神に対して不忠実であるという思いはありませんが、だからといって私が無罪とされる訳ではないからです。私の働きの正しい評価をなさる方は神のみだからです。
4:5 ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはか りごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。
人の働きについて先走ったさばきをしてはいけません。5
各人の働きを正しくさばかれるのは主のみです。主のさばきは、人が隠れて行っていたことや、人の動機を知った上でなさるさばきです。私たちは、見えること、知り得ることのみからしか判断ができません。人間がする評価は正しくないことがあるということを知らなければなりません。
まして、コリント教会の一部の人たちは教師たちを、彼らの雄弁さ、立ち居振る舞い、社会的地位などによって判断していましたから、彼らの評価を気にする必要はありませんでした。彼らは、間違った物差しで教師の価値を判断していることを知って、先走ったさばきをしてはならなかったのです。
4:6 さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。
この問題から学びなさい。 6
以上、コリント教会が教師たちを評価して、誰に支持するかで、分裂することを戒めるために、あなたがたのために言って来ました。
この分派の問題によって、あなたがたが聖書に書かれたことを超えないこと、神の絶対主権の前に自らをわきまえることを学びなさい。そして、教師の教えが正しいかどうかによるのではなく、世の価値によって教師を判断し、一方の教師を高くして用い、他の教師を低くして追い出し、自分が教会を支配できることを誇り、教会を分裂させることがあってはなりません。
あなたがたはキリスト者としての本来のあり方から離れている
私が伝えた初めの福音に立ち戻りなさい
4:7 いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらってい ないかのように誇るのですか。
与えられえた救い、立場についての間違った理解。7
このような問題が起きる原因は、あなたがたに与えられた救いの賜物に対する間違った考えから来ているのではありませんか。あなたがたは、自分の救いや教会での地位を、自分が得たもののように誇っています。
しかし、救いも各人の賜物もすべて神から与えられたものです。それらは、教会を建て上げるために用いるものであって、分裂させるために用いてはならないのです。
4:8 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。
救いが与えられ、自分を誇り、満足しきっているコリントの人たち。8
救いが与えられ、教会を支配するあなたがたは、満ち足りています。そして、私たちのように、終末の救いの完成をめざしてこの世で戦っていくことを忘れています。
4:9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。
4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
4:11 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。
4:12 また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、
4:13 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。
コリント教会に対する強烈な皮肉。9-13
あなた方は豊で、満足しきっている。反対に私は、貧しく、苦難に耐えている。
しかし、神は私を競技場で最後に引き出される者のようになさいました。
その者は観衆が見ている前で殺されるために引き出されます。
そのように、私パウロは、私たちを迫害する者たちにいつ殺されてもおかしくないような危険を犯しながら、福音を宣べ伝えてきました。そしてこの世の人からは愚か者と思われています。また、自分で苦労して働きながら伝道しています。今に至るまで貧しく、食べるもの着るものにも不足し、虐待されて定住する場所もありません。迫害されても耐え忍び、ののしられても悪をもって悪に報いず、神にすべてをゆだねて善をもって悪に立ち向かっています。
今でも私は、この世の無に等しい者、価値のない者とみなされています。
4:14 私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。
4:15 たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
4:16 ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。
コリント教会の悔い改めを強く願うパウロの思い。14-16
わたしがあなたを生んだ霊の父。だからこそ、わたしにならってほしい。
今まで書いてきたのはあなたがたをはずかしめるためではなく、さとすためです。あなたがたは私の宣教によって救われた、私の愛する霊の子供です。
だからこそ、あなたがたには私にならう者となってもらいたいのです。
コリント教会にテモテを遣わす
4:17 そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えていると おりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
コリント教会を建て上げるため テモテを遣した。 17
あなたがたを教えるために、テモテを派遣しました。テモテは私が信頼でいる忠実な弟子です。テモテは、あなたがたに新しい教えをもたらすのではありません。
彼の働きは、コリント教会に、初めに教えられた福音を思い出させることです。コリント教会で起きているさまざまな問題は、他の教師たちによって福音が曲げて伝えられ、あるいは彼らが初めに聞いた福音を忘れていることに本当の原因があるからです。
それで、パウロは信頼できるテモテをコリントに送りました。
テモテが教えることによって、彼らの考えを訂正しようと考えました。
4:18 私があなたがたのところへ行くことはあるまいと、思い上がっている人たちがいます。
4:19 しかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。
4:20 神の国はことばにはなく、力にあるのです。
4:21 あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。
パウロの忠告 私も御心であればいつでも行きます。 18-21
もし、彼らがテモテに聞かないのなら、いつでも自分が行く用意があることを、コリント教会に警告しています。彼らの悔い改めを強く迫るパウロです。
思いあがっている人々、つまり自分の救いは完成されたと安心し、教会を支配して王のように振る舞う人々、他者の救いのための戦いや、自分の霊的な完成のための戦いに無関心になっている者たちに対して、パウロは挑戦します。「あなたたちの力を見せてもらおう」と。
あなたたちのことばは巧みで、この世で高い評価を受けているかもしれない。しかし、人を本当にキリストにある救いに導く力があるのかどうか、それを見せてもらおうと言うのです。
<第1コリント4章 考察>
人を一切さばいてはならないのではない。
真理を誤解しているままで、他者の働きを判定してはならないということ。
コリント教会の人々は、キリスト者となった後もこの世と変わらない基準で教師たちを評価していました。たとえば、知識の豊富さや、話しの巧みさ、外見や経歴によって説教者に優劣をつけていました。このような判断は、神が喜ばれる判断ではありません。ですから、コリント教会が分裂したのでした。
人の働きを判決されるのは主のみ
人からの評価よりも、神に対する忠実さを大事にすること。
人からの評判よりも、主に対する忠実さが大事です。人の評価は不完全であり、それらを重く見て、神への忠実を忘れることがないようにしなければなりません。また、自分の良心が責めなくても、自分が罪なしとされるのではないこと、自分が完成したかようにおごり高ぶる勘違いをしてはいけません。神がご覧になるなら、自分が良いと思うどのような善行の中にも、利己的な動機が潜んでいることを見いだされるであろうことを、いつも心得ておくことは大切です。
自分の自分に対する評価をも過信しないこと。
自分は神に良く仕えていると思えても、自分が神から高く評価されていると勘違いしないことです。自分の良心もあてにならないものです。神のみが正しいさばきをなさることを覚えなければなりません。ですから、自分は大丈夫、自分は良いしもべだと過信することはできません。すべては、主の日に神が判定を下されるものであることを心に留め、神の前にへりくだり忠実に仕える努力をおこたらないことが重要です。
救いにあずかったことで安心し、堕落した生き方続けている。
安心し満足しているコリント教会と命の危険を冒して戦い続けるパウロの違い
コリント教会の人々は自分が救われたことに満足して、自分の楽しみを追及する生き方をしていました。聖書から学ぶことにおいても、真剣に道を追求するためではなく、聖書を題材にして神についての議論を楽しんでいたのです。
他者の救いについては無関心で、自分は罪に定められない者になったことに安心しきっていました。彼らは、さらに完成を目指して、自分の内にある罪と戦うことをしませんでした。
パウロは、自分の生き方を明らかにして彼らをいましめます。
パウロは、いつ殺されてもおかしくない状況で、福音を伝えることで貧しくあり、人々から見下されていました。
これらは、神から任された福音宣教のためであったのです。
パウロの生き方は、神のために自分を犠牲にする生き方でした。
コリント教会の人たちの生き方は、神から良いものをいただいたことを喜び、それを楽しむ生き方でした。神のために犠牲を払うのではなく、良いものだけを受けて楽しむ信仰生活だったのです。
教会を立て直すために、始めに聞いた福音を思い出すこと。テモテの派遣
混乱して真理を誤解し、間違って適応するコリント教会に、パウロはテモテを派遣します。テモテはパウロが信頼できる神に忠実な働き人で、至る所でパウロの述べ伝えた信仰を人々に教えていました。テモテを派遣することで、コリント人がパウロの述べ伝えた福音を思い出し、悔い改めて神の教会として正しく建て上げられていくことをパウロは望んだのです。
これらの事と同様に、現代の教会の中で起こっているさまざまな問題の原因も、牧師や教会員がはじめに述べ伝えられた福音、パウロが伝えた福音の奥義を誤解したり、曲げたりしていることに原因があるのではないでしょうか。
テモテが派遣されたように、混乱する教会には、真の福音を思い起こさせるための教師が与えられる必要があると思わされます。