偶像にささげられた肉について
8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。
8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
8:4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
8:5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、
8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
偶像にささげられた肉は次のように使った。
- 偶像に仕える祭司が食べた。
- 偶像礼拝後の祝宴の食事で食べられた。
礼拝後に、人々は食べて飲んで踊った。(第一コリント10:21) - 市場で安く売られた。
祭司が食べきれない肉や、祝宴で消費しきれない肉は、市場で売られた。偶像に備えられた肉は、普通の肉よりも安く売られていました。そんため、多くの人が買っていました。
偶像にささげられた肉が市場に大量に出回っていたので、どの肉が偶像にささげられたものかを見分けることが難しいほどでした。
コリントの一部の人たちは、偶像にささげられた肉に関する知識(確信)を誇って偶像の宮で食べ、偶像にささげられた肉を食べていた。
コリント教会の一部の人々は偶像についての知識(確信)がありました。
彼らは、偶像の神は存在しないこと、それらには何の力もないことを知っていました。そこで、市場で売っている肉を自由に食べていました。ある人は偶像に関わる祝宴に参加して食事をしていました。
コリントの信者たちの、この知識(確信)について、それが正しいことをパウロも同意している。4-6
偶像は実際には存在しないものです。神々と呼ばれるものは天にも地にもありますが、私たちには父なる唯一の神がおられるだけです。この世に存在する全てのものは、この唯一の神の被造物であって、この神のために存在しています。
ですから、偶像にささげられた肉は、信者の霊を汚す力はありません。
確信のある人にとって、偶像に捧げられた肉を食べることは問題にはなりません。この点について、パウロはコリント人たちに同意しています。
しかし、すべての人にこの確信があるわけではない
確信のない人が、確信のある人をまねて行うなら
彼らの良心は汚れ、偶像に再び引き込まれることも起こりうる
確信を持つ人は、確信の弱い人対する影響を考えて行いなさい
7-10
8:7 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように 弱い良心が汚れるのです。
8:8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。
8:10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。
8:11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。
8:12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
8:13 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。
偶像の宮で食べる、偶像にささげられた肉を食べることについては、信仰の確信がない人がいることを、覚えて振る舞いなさい。
偶像の宮で食事をすること、偶像に捧げられた肉を食べること、また未信者に招かれて律法が禁じている肉を食べることについては、偶像のことを完全に割り切れていない弱い信仰者をつまずかせることになると指摘します。
なぜならすべての信者が、偶像の神は存在しないという強い確信(知識)があるのではないからです。クリスチャンになっても、偶像は無力だと完全に割り切ることができていない信者がいるからです。
確信があるあなたは、偶像にささげられた肉を食べても、良心に呵責を覚えることはないでしょう。しかし、あなたが食べるなら、知識のない人も(偶像に何らかの力を感じている人も)食べていいと思うことでしょう。
偶像に慣れ親しんで来た人が、偶像が無力である確信がないのに、偶像にささげられた肉を食べるなら、その人は良心のとがめを覚えて悩むことになります。また、偶像にささげられた肉として食べる(偶像の神から力を受けるという意味)ことになり、偶像礼拝に関わることになります。
確かにコリント人の知識は正しいものです。偶像に供えられた肉は、クリスチャンを霊的に汚す力はありません。しかし、この行為は、偶像が完全に無力だという確信を持っていない信者や、偶像礼拝に惹かれる思いがまだ残る弱い信者(祭りの楽しさ、興奮、仲間との交わりなど)を偶像礼拝に引き戻すきっかけになります。また、信者が偶像と関わることを見た異教徒たちが、彼らをもっと偶像礼拝に誘うことになります。
ですから、確信のあるクリスチャンが、偶像とどのように関わるべきかは、弱い信仰者がいることや、未信者に誤解を与えないことを考えておこなわなければなりません。他の信者に罪を犯させないために配慮する必要があります。
あなたの確信が、兄弟の信仰を滅ぼすことになるなら、あなたはキリストに対して罪を犯していることになる。その自由は控えなさい。11-12
あなたの知識にもとづく行いが、確信のない信者たちの良心を悩ませ、彼らを偶像礼拝へと引き戻すきっかけを作っているなら、あなたは兄弟の信仰を滅ぼす罪を犯しているのです。
あなたが滅ぼすことになるその兄弟のために、キリストは死んでくださったのです。そうであるなら、あなたは、その兄弟に対してだけではなく、その兄弟に命を与えるために、ご自分の命を犠牲にされたキリストに対して罪を犯していることになるのです。
もし兄弟につまずきを与えるのであれば、私は今後いっさい肉を食べません。 パウロは、信者につまずきを与える可能性があるなら、自分の確信から行える自由を放棄する覚悟を示す。 13
パウロは、市場で売っている肉には偶像にささげられた肉が多く混じりこんでいて、どの肉がそうでないのか判別できないから、兄弟につまずきを与えないために、自分は肉をいっさい食べないと言いました。これなら、偶像の肉を食べる可能性はゼロになります。
パウロは、偶像の神は存在しないという強い確信を持っていました。彼は、恐れることなく偶像にささげられた肉を食べることができました。しかし、初信の者や偶像の力を恐れる気持ちが残る信者たちのことを思って、彼らに偶像礼拝に関わる罪を犯させないために、自分の自由(肉を食べる自由)を放棄したのです。
パウロは、信者が滅びることを望まなかったので、このように決断しました。
これが、「愛が人の徳を高める」(1節)ということです。
<1コリント8章 考察>
考察1 クリスチャンは、信仰を持ったことによって与えられた知識を、どのように適応して偶像と関わればいいのかについて考える。
コリントの信者は、偶像の神は存在しないとの確信を持っていた。
この知識はパウロも認めている通り正しいものです。
しかし、彼らは自分たちの知識を正しく活用できていない。
弱い信者への影響を考えずに、偶像と関わっていた。
しかし、彼らはその知識によって得た自由をどのように行使するかについて、未信者や、確信の弱い信者に、どのように影響するかを考えずに、自分たちの自由を行使していました。
確信のある者が偶像にささげられた肉を食べ、異教徒の宴席に連なる行為は、他の信者に対して同じように行っていいというメッセージになります。しかし、偶像が無力だという確信の弱い信者や、偶像の力を否定しきれていない信者が、偶像と関わることは、彼らを偶像礼拝に再び引き戻すきっかけとなります。偶像については、兄弟がみな同じ強さの確信をもっていないことを考えれば、確信の弱い信者のために、偶像と関わることは避けるべきです。なにより、偶像礼拝は聖書で禁止されている行為で、私たちクリスチャンは偶像の神と関わりを持ってはいけません。
それどころか、偶像を恐れない自分たちの信仰を誇っていた。
さらに、コリントの一部の人たちは、自分たちの偶像を恐れない信仰を誇り、そこまでの確信を持てないでいる信者たちを見下していました。
確信の弱い信者に、自分たちと同じようにすることを強要した。これは、訓練ではない。兄弟の信仰を破壊する行為でしかない。
そして、確信の弱い者の信仰を鍛える目的で、無理やり偶像にささげられた肉を食べさせたりしていました。しかし、これは、彼らにとっては偶像に関わる行為です。そのため、唯一の神に対して良心の責めを感じて苦しみます。このような訓練は彼らの信仰を傷つけるだけであって、偶像を恐れない信仰を持つための助けにはなりません。
確信のある者が、自分にできることを誇って、できない信者をいじめているだけです。このような知識の誤用は兄弟を建て上げるためのものではなく、かえって、兄弟の信仰を破壊する行為です。
確信のある者は、兄弟姉妹の信仰の益になるように、神から与えられた知識を用いなければならない。
自分だけではなく、兄弟の信仰の益となるために、自分が得た知識をどのように用いていったらよいかと考えることは重要です。
たとえ、信仰の確信にもとづいて行うことであっても、それが兄弟に偶像礼拝と関わるきっかけを作ることになるなら慎むべきです。
自分の行いが、兄弟姉妹にどのように影響するかを考えなければなりません。
これが愛に根ざした、正しい「神の知識」の用い方であると思われます。
まして、自分の知識を誇って他者を見下し、自分の信仰が優れていることを証明しようとして、他者の信仰を破壊する知識の用い方は、愛のない、間違った用い方です。
考察2 具体的に例を上げて、クリスチャンとしての適切な行いを考える。
8章で言われていたことは、兄弟の信仰を建て上げるために、かしこく信仰の知識を用いなさいということでした。それでは、私たちの場合、どのような状況が考えられるでしょうか。
1.酒やたばこ。
酒を飲んでも自制心は失わない自信のあると言う人がいます。
しかし酒の量は、その時の状況いかんで、度を越えてしまいやすいものです。
クリスチャンになる以前に、酒が好きだった人やお酒で失敗しやすかった人が、あなたが酒を飲んでいるのを見れば、自分も飲んでいいと思います。あなたは大丈夫でも、その人は、酒によって身を滅ぼし、信仰から離れることになります。
また、あなたが酒を飲む姿は、未信者に対して、クリスチャンは自分たちと同様に酒に酔いつぶれてもいいのだという理解を与えます。
彼らは、クリスチャンと知っていても、その人に酒をすすめるでしょう。
あなたのために、自制している他のクリスチャンたちが迷惑を受けることになるのです。
未信者と一緒に、酒でうっぷんを晴らすることは、クリスチャンがすべきことはありません。
クリスチャンは、楽しみのため、ストレスを発散のために酒に頼る者ではなく、御霊に満たされる者だからです。
ですから、酒は飲まないのが最善です。
パウロも「人につまずきを与えるなら、今後肉はいっさい食べない」とまで言ったのです。キリストの栄光を現わすために、自分の自由を制限することは、クリスチャンとして良い選択だと考えます。
たばこは、体に煙を入れます。これは聖霊の宮を傷める行為です。
ですから、クリスチャンとして良いことだとは言えません。
2.競馬、パチンコなどのギャンブル。
クリスチャンは、かけごとをしてはいけません。
かけごとは、人を夢中にさせます。しかし、時間と金、家族まで失わせる可能性がある恐ろしいものです。ギャンブルに夢中になることと、信仰に熱心であることは、決して両立しないことを知るべきです。
3.葬儀で焼香する。
あなたが偶像と関わっている姿を見た未信者は、キリストを信じても偶像を礼拝しても良いのだと思うでしょう。あなたの行為を見た他の信者も、あなたの行いに勇気を得て、同じようにするでしょう。
しかし、偶像を拝むことは、父なる神が一番忌み嫌われることです。
あなたの妥協が、兄弟姉妹の信仰を汚す恐れがあるのです。
偶像に関わることはしない、焼香はしないと、はっきりろ自分の立場を貫くことです。
初めは強く反対されるでしょう。しかし、あなたの決意が固いことを知れば、あなたについてはそれが当然なのだという理解に至ります。
ですから、クリスチャンになった後で、初めて葬儀に出席する時に、焼香をしないことが重要です。
私は、以前は焼香の代わりに花を祭壇に置きました。しかし、これがかえって目立つことになるので、焼香はしませんが、亡くなった方のお写真を見てから、腰を少し曲げて振り返り、席に戻っています。
4.神社のお祭り。
秋は祭りが盛んです。あなたが祭りで異教徒たちと食事を楽しむ姿を見た人は、クリスチャンは偶像の祭りに参加していいのだと理解します。そして、あなたがクリスチャンと知っていても、偶像の祭りのために奉仕し、献金することを頼むようになります。
しかし、偶像と関わることは罪です。
あなたは偶像の祭りで飲み食いした事実があるのですから、彼らの理解が正しいわけで、もしあなたが断れば、あなたの信仰と行いが矛盾していることが彼らに明らかになります。
異教徒がキリスト教信仰をあざ笑う理由を与えることになります。
ですから、偶像の祭りにはいっさい参加しないのが良いです。
5.神社、寺の奉仕。
クリスチャンが神社や寺の寄付を集めていたら、それを見た未信者は、クリスチャンは偶像と関わっていいのだと思うでしょう。そして他の信者に対しても、偶像への奉仕を頼むことになります。ですから、偶像に関わる奉仕はいっさいしないことが良いです。
まとめ。
クリスチャンが、偶像の神との関わりにおいて、信仰から得た確信をどのように現わしていくかについて、そのように行うことが、未信者に誤った理解を与えないかどうか、他のクリスチャンたちが信仰を守る上で、困難な状況を与えることにならないかどうかを慎重に考えて行うことが必要です。
他のクリスチャンへの愛の配慮から、自分が得た神についての知識を、正しく用いていくことが大切です。
聖書に「・・・してはいけない」と書いてあるから私はしない、という動機は次元の低いものです。
他の信者の信仰を守る動機から、神についての知識を正しく用いる。
必要な時には、自分の自由をあえて制限する。
これが、8章で勧められているクリスチャンの生き方です。