主の命令により、エリヤはアハブに会いに行った。1列王18章
- 3年後、「アハブに会いに行け」との主のことばがエリヤにあった。1列王18:1
- そのころ、サマリヤは飢饉がひどく、王は食べ物を探すために巡り歩くことにした。そして、王宮を管理していたオバデヤに命じて、自分と違う方向を探させた。18:6
- オバデヤは非常に主を恐れていた。18:3
おゼベルが預言者たちを殺したとき、100人の預言者を救い出し、50人づつほら穴にかくまいパンと水で養っていた。18:4 - オバデヤの道中に、エリヤが現れた。「王にここに来るように告げよ」と頼む。18:7
- 王に会ったエリヤは、アハブにバアルの預言者450人とアシュラの預言者400人をカルメル山に集めさせ対決した。
皆が集まったとき、2頭の牛を用意した。エリヤは、「祈りに答えて天から火を降らせた神が本当の神だ」とする戦いを提案した。バアルの預言者たちは必死に祈ったが、火は降らなかった。
エリヤはイスラエルの民を自分の側に近寄らせて、12の石で祭壇を造り、祭壇の回りにみぞを堀り、3度水をかけてから、主に祈った。 - 彼の祈りは答えられ、天から火が降って祭壇を焼き尽くした。民は「主こそ神である」と告白した。
- エリヤは民にバアルの預言者を1人も残さず捕らえ、皆殺しにした。
キション川に連れて行かせて皆殺しにした。その後、主のことばの通り、イスラエルの地に雨が降った。
考察1、信仰のための戦いにおいては、人数が多い方ではなく、主が味方する方が勝つ。
エリヤは1人で850人と戦った。しかし、祈りに答えて天から火を降らせる奇跡を起こすことができる方は主しかいない。主に反抗する者、異教を信じる者、異端に走る者がいかに多かろうと、彼らは主を打ち負かすことはできない。彼らは主の被造物にすぎないからだ。いったん主が怒りを下されるならば、正しい信仰を消滅させるために立てた彼らのどのように巧妙な計画も失敗に終わる。信仰者たちを殺す、どのような権力も無に帰する。だから、勇気を持とうではないか。そして、主に反抗する者達が多いことを恐れることはない。主は我らとともにあり、我らのために戦われるからだ。
考察2、バアルの預言者をたくさん集めたことで、彼らを抹殺することができた。民は主の力を知って回心した。
1、エリヤが預言者をたくさん集めたことで、戦いに勝利した後、彼らを一掃することができた。
これは、神がエリヤに指示したことであろう。神の知恵である。
2、この戦いによって、主はイスラエルの民の心をひるがえされた。主に立ち返らせた。
- この戦いの目的は、バアルとアシュラの預言者たちを殺すことだけではなかった。
最終的な目的は、イスラエルの民の心を主に向けさせるためであった。
彼らが、自ら意志で愚像を除くようにするためであった。
その証拠として、エリヤは自分のもとに民を集めてから、民の前で神に祈った。(30節)
バアルにも主にも仕える民の2心を戒めた。(21節) - 神が人を用いる方法は、人間の予想や計画をはるかに超えている。
アハブに命を狙われ、異邦人の貧しいやもめの女のところで養われていたエリヤ。やもめの女の回心に関わっていたエリヤ。
3年もの間、人に知られず隠れていた彼が、突然、全イスラエルを回心させる働きをした。
しかも850人もの異教の預言者たちを抹殺する大きな働きに用いられた。神の導きは驚くべきものである。私たちも、誰に知られずとも、主に従っているなら、エリヤのように、ある日をさかいに、主のご用のために用いていただける日が来るかもしれない。自分に与えられた仕事が重要ではないとか、大な仕事を任される誰かをうらやんでいてはならない。
私たちにとって、主のご用を成すのとき、小さいことも大きいことも、違いは無い。
どちらも光栄なことであり、楽しいことである。日々与えられる努めを、主のために心をこめて成していくことである。
考察3、オバデヤについて(2心の信仰)
オバデヤは、主を恐れていた。預言者100人をかくまって食べさせていた。
しかし、アハブに反対することを恐れ、彼の罪を見逃していた。おそらく、バアル礼拝にも参加していたのではないか。
このような信仰を2心の信仰という。心では主に仕えているというが、その生活は、自分の身の安全を守るため、迫害を免かれるため、神に反している。このようなを、人は私たちの周りに見かけることができる。彼らは、親戚、知人に悪く思われないために偶像を拝む。しかし、結局、このような2心の生き方は、主の祝福を受けることができないのではないか。本当に心満たされた生き方はできないのではないかと思う。