イゼベルに命を狙われたエリヤ。気力を失う。1列王19章
- エリヤは、バアルの預言者たちを殺したことで、イゼベルに命を狙われるようになった。
- 逃亡中に彼は、「主よ、もう十分です。」と死を願った。その彼に天使が来て、食べ物と水を与えた。
- 食べ物で力を得たエリヤは、神の山ホレブまで逃げることができた。
そこで、主は彼に現れ、イスラエル王国を倒すための次の使命を示された。
考察1、エリヤの失望 (主の働きに疲れた時に、私たちも感じる思い)
「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ、私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」10節、14節
エリヤは主に忠実に仕えた。バアルの預言者たちに勝利し、彼らを殺した。そして、主こそ真の神であることを証明した。しかし、王は天から火が降る奇跡を見ても、悔い改めなかった。それどころか、エリヤの命を狙うようになった。
私たちも同様なことを経験する。主のために働いたのに、その結果を見ることができない時がある。かえって伝えた人が、主を嫌って、私たちの信仰に妨害を企てることがある。アハブやイザベルが主に逆らっても裁かれず、権力を奮っていたように、私たちに敵対する人たちが権力を持ち繁栄するのを見るとき、私たちは意気消沈する。エリヤは疲れ果て死を願った。私たちも同様に疲れ果て死を願う時がある。
考察2、主のエリヤに対する憐れみと助け(主は働き人の困難を知っておられ、彼らを守られる)
主はエリヤがホレブの山に着くまでの間、天使を送って彼に食べ物と水を与えた。
主はエリヤの体力・気力の限界を知っておられ、エリヤの命を守られた。
同様に、主は主の働きに疲れた私たちの限界を知っておられる。気落ちした私たちを元気づけ、再び主の働きに向かわせるために、物質的、霊的必要(みことば)を与えて養ってくださる。
考察3、落ち込むエリヤに、神は新たな使命を与えた。
ある仕事で結果を出すことができなくても失望してはならない。
別の領域に、いくらでも使命がある。すべての仕事には意味がある。
たとえ期待と反した結果となっても、それは次の展開への布石として重要であることがある。
主は「エリヤよ。ここで何をしているのか」と仰せられた。10節、13節
イゼベルに、自分の命を狙われ、山に隠れてうずくまっていたエリヤ。主は彼にに対して、「ここで何をしているのか」と問われた。エリヤはきっと、「私は精一杯戦った。しかし、アハブとイゼベルは変わらず権力を振るっている。
しかも、自分は命を狙われて隠れている有様だ。これで万事終わったのだ。神はこれ以上の刑罰をアハブに対してなさらないのだ。」と考えたのではないか。しかし、神はアハブの罪を放っておかれる方ではない。
神は、エリヤに対して上記のことばかけによって、こう言いたかったのではないかと思われる。
「なぜ、おまえは私を力を小さく考えているのか。私にはこれ以上の事はできないと思っているのか。
だから、おまえはうずくまっているのだろう。しかし、おまえはこれから私の全能の力を見ることになる。」
私たちも、主の働きに疲れうずくまる時、主のエリヤに投げかけられた言葉を思いだそう。私たちは主を小さく考えて絶望しやすい。主は私たちが考えるよりも、はるかに大きい力を持つお方である。だから、失意の時こそ、再び立ち上がり、主の奇跡を体験しよう。
考察3-1 エリヤに新たな使命を与える神 (新たな領域でのミッションが与えられる)
19:15 主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。19:16 また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者 とせよ。19:17 ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。」
アハブやイザベルに対する神の裁きは終わった訳ではなかった。
神はエリヤを遣わして、バアルの預言者たちと対決させた。イスラエルの神の全能を知らせた。しかし彼らは回心しなかった。それどころか益々かたくなになった。そこで神は、彼らを倒すために、目に見える敵を起こされた。アラムにハザエルを王として立て、イスラエルを攻撃させたのである。
また、ニムシの子ヤフーを、アハブの次の王として立てた。アハブを殺し、次の王として立てるためである。
また、エリヤに変わって、次の預言者エリシャを立てた。こうして、アハブを国の内外から苦しめた。
エリヤの今までの働きは、神の裁きの第1段階に過ぎない。
アハブたちは、これから本格的に彼らは苦しみ、そして破滅することになる。
これを知らされたエリヤは、立って、次の働きに向かっていった。
主の働きに疲れうずくまる時、主は私たちに次の働きを示される。
それを聞いたなら、私たちの心は躍る。絶望から立ち上がって、新たな働きに向かうのである。
私たちは、失望するときこそ、神に祈ることが大切である。神が次の展開を示してくださることを期待することが重要である。
考察4、エリシャが次の預言者として召された。(神はレビ族でない、普通の農民の子から預言者を起こされた)
19:19 エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリ ヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、19:20 エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますか ら。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」19:21 エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、 エリヤについて行って、彼に仕えた。
考察4-1 イエスの弟子達を召した時との共通点
エリシャは農民であった。当時の宗教学者の影響を受けていない彼が選ばれたことは注目に価する。
このことは、イエスが12弟子を選んだ時と状況が一致する。彼らも、無学な漁師たちであった。
考察4-2 神の召しを受けた人は、あらがいえなく従うことを見る
エリヤは彼の外套をエリシャに掛けた。エリシャは、仕事を置いて、即座にエリヤに従った。(彼は最後に家族に食事を与えて別れのあいさつをした)イエスの弟子達も同様であった。彼らは、イエスに声をかけられた途端、立ち上がって従った。
ここに旧約と新約の共通の型を見る。神の召しを受けた人は、その呼びかけに対して、あらがいえない力で引き寄せられるのではないかと思われる。
考察5、エリヤのことから、伝道者が失望し疲れ果てることを考えた。
主のために働いても結果がでないとか、かえって悪くなる一方である時、私たちは意気消沈する。いくら伝道しても、救われる人が起こされないとき、私たちは、今までの努力が全て無駄であったように思う。
私たちは神を小さく考えて、意気消沈しやすい。しかし、神には千も万もの策があり、駒があることを覚えておかなければならない。
神のための働きに何1つ無駄はない。一見無駄と思える働きも、次の展開のための布石であることがある。
事実、エリアがバアルの預言者を殺したことは無益ではなかった。アハブたちは悔い改めることなく、エリヤの命を狙ったが、神はエフーを起こされアハブを殺した。さらに預言者エリシャを立てて、偶像礼拝する者を徹底的にさばいた。エリヤの働きは、これらの神のさばきのはじまりであったのである。
私たちは、自分の働きの実を見ることができなくても、落胆する必要はない。
パズルのピースは、パズルをはめ込んでいる段階では、1つ1つのピースが全体のどの部分の絵であるのか、わからない。
ピースの多い、複雑なパズルは、各ピースの絵柄がほとんど同じで、作業が進んでいるのか不安になる。
しかし、それが完成したとき、全体の絵柄が現れ、各ピースがどの絵の部分であったかがわかる。
私たちの働きも同様である。主の働きの完成は、主が来られる日である。
私たちは、生きている間にその完成を見ることはできない。しかし、その日は、必ず来る。
その日には、私たちの小さな働きが、主のご計画のどの部分を担っていたのかが、わかるだろう。
そして、自分の働きは無駄ではなかったことを知って、驚くことであろう。