生活の全般的な指導
Ⅰ 神を喜ばせる歩みをしなさい
4:1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
4:2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。
Ⅰ 私たちから教えられた通り、良い歩みを続けなさい
パウロは、テサロニケの人たちに、どのように歩んで神を喜ばせるべきかを教えました。パウロたちは、教えるだけではなく、その教えを実践していました。
テサロニケの信徒たちは、パウロの生き方を見て、クリスチャンとしてどのように生きればいいのかを学びました。
彼らは、パウロの教えに従い、良い歩みを実践していました。
パウロは、これからも、その良い歩みを続けてほしいと願います。
Ⅱ 清潔に歩みなさい
不品行を避け、落ち着いた生活をしなさい
4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、
4:4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、
4:5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、
4:6 また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。
Ⅱ-1 自分の体を聖く保ちなさい(不品行をさけなさい)
神のみこころは、聖徒たちが聖くなることです。
そこでパウロは、まず自分の体を聖く保ちなさいと命じます。
つまり、不品行を避けることです。
結婚を重んじ、結婚以外の性的な関係を持たないことです。
Ⅱ-2 信徒の妻や夫と関係して、兄弟に対して悪を行ってはならない
この手紙が書かれた当時、人々は性的な事に関して自由に振る舞っていました。
特に未信者の間では不品行は日常的に行われていました。
しかし、不品行は、それに関わる人だけでなく、その家族を破壊します。
また、不品行を受け入れる社会は、道徳的に退廃します。
結局、不品行は本人も、その周りの人々をも不幸にします。
もし、教会で不品行があるなら、当事者の妻や夫である兄弟姉妹に対して悪を働くことになります。
たとえ、誰にも知られないで事を行っていたとしても、神はご存じです。
そして、その悪は必ず神にさばかれることになると、パウロは前もって、テサロニケの信徒に警告を与えていました。
4:7 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。
4:8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。
Ⅱ―3 これらの勧めを拒むことは、神に反抗することである(強く警告する)
信者は、聖い歩みをするために神に選ばれキリスト者とされました。
神が彼らを救ったのは、彼らに不品行を行わせるためではなく、彼らを聖く歩ませるためです。
ですから、信者になった後も、不品行を続けることは、あってはならない事です。
それは、パウロの命令に従わないだけでなく、神の命令を拒否することだからです。
4:9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。
4:10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。
Ⅱ-4 兄弟愛をますます実践しなさい
あなた方は、兄弟愛を良く実践してくれています。
また、マケドニヤ全土の兄弟に対しても愛を実践しています。これからもますます励んでください。
4:11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。
4:12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。
Ⅱ-5 働いて自分の生活を維持しなさい(落ち着いた生活をしなさい)
再臨が近いからと言って、仕事を止めてはいけません。
自分の仕事に身を入れて取り組みなさい。
そうすることで、未信者からも信頼されるようになるからです。
また、お金が無いために、兄弟に負担をかけることにならないためです。
信者が困って未信者に助けを求めなら、キリストの御名を大いにはずかしめることになるからです。
Ⅲ 再臨前に死んだ信者も救いにあずかっている
殉教者が出ても、失望せずに前進しなさい
4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
Ⅲ-1 再臨前に殉教した信者は、キリストが再臨される時に、キリストと共にやってくる。
テサロニケ教会は、殉教する兄弟姉妹が出ました。
教会は彼らの死を悲しみました。
彼らは、主の再臨が、自分たちが生きている間に起こると思っていたので、主の再臨前に死んだ信者はどうなったのか、彼らは主の約束にあずかることができたのか、彼らは疑問を持ちました。
彼らの中には、再臨前に死んだ信者は滅んでしまったのだと思って落胆する人たちさえいました。
彼らの疑問に対して、パウロは主から受けたことばを伝えました。
信者は未信者と同じように悲しみに暮れる必要はありません。
キリストを信じて死んだ人たちは、天で主と共におり、復活の体が与えられるのを待っているのです。彼らは今、地上での苦しみから解放されて安息に入っています。そして、キリストが再臨される日に、彼らはキリストと共にこの地上に降りて来るのです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
Ⅲ-2.主の再臨について
主と、死んだ信者たちの空中再臨、生きている信徒たちの軽挙
先に死んだ信者が復活する。その後、生きている信者が空中に引き上げられ、先に死んだ者と合流する。
パウロは再臨の時、信者にどのようなことが起きるかを明らかにしています。
これは、パウロが主から聞いて知ったことですから信頼できる言葉です。(15)
主は天から下りて来られます。その時、キリストを信じて死んだ者たちに復活の体が与えられ、彼らは主とともにやってきます。(16)
その後、地上に生き残っている信者たちが、生きたまま空中に引き上げられて、主と会うことになります。(17)
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
Ⅲ-3.これらのことを覚えて希望を持ちなさい
ですから信者たちは、この希望が与えられていることを覚えて、死者のゆえに悲しみに暮れるのではなく、死んだ者との再会を期待して、ますます信仰励み、前進し続けなさいとパウロは励ましています。
<第1テサロニケ4章 考察・適応>
考察 クリスチャンの「死」について
1.キリスト者にとって、親しい者の死は「亡くなった者と再会」を意味する。
クリスチャンも、病気や事故などでいつか死にます。
未信者にとって、「死」は、生きていた人との永遠の別れです。
しかし、クリスチャンにとっては、彼らとの再会を意味します。
天において、再び会えることを意味します。
2.亡くなった者との再会は、本当に喜ばしいものであろう
亡くなった信者との歩みは、困難の多いものでした。
迫害や貧困、病気などの苦しみがありました。
しかし、天国で再会する時には、そのような苦しみや悲しみはいっさいありません。
天国で再会する時は、本当に楽しく喜ばしいものでしょう。
3.天国での交わりは永遠に続く。もはや離別を心配する必要はない。
地上では、死によって、再び会うことができなくなります。
しかし天国に死はありません。つまり、死による離別はありません。
ですから、天国で再会した人との交わりは永遠に続きます。
4.親しい人が天国に入っている事は、自分がそこに入ることを待ち望ませる。
親しい者の死は、残された人に、彼らと天で再会できる日を待ち望ませます。
ですから死が悲しいというよりは、かえって望ましいとさえ思うのです。
だからといって自分の命を絶つことを勧めているのではありません。
神様が自分を生かしておられる間は、主のために精一杯働きます。
そして、主が天に召してくださる時には、喜んで天国に入るのです。
5.先に亡くなった人との再会を期待して、自分の使命を果たし終えて、堂々と天国へ凱旋したい。
彼らが亡くなった後の自分の人生が「堕落」したものであれば、死ぬ時に、彼らに対して良心のとがめを感じるでしょう。
「生かされている」のは、まだ自分に使命が与えられているからです。
なすべきことは、その時々聖霊によって教えられます。
それらを自分の力に応じて成していくことが、神に喜ばれる生き方です。
このような歩みが「自らの救いを達成する」ことになります。
また、自分が死んだ後、先に亡くなった人と堂々と再会できる道です。
「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」第2テモテ7-8
パウロのように告白して、死を迎えることができる人は本当に幸いです。
私たちも、自分に与えられた使命を全うして、堂々と天に凱旋していきたいものです。
6、地上では報いを受けることなく死んだキリスト者が大勢いる
彼らの生涯のゆえに、神を疑ってはいけない 彼らは、天で報いを受けている
クリスチャンの中には、迫害によって殺された者や、信仰を守るために貧しくなった者、伝道のために苦難の生涯を送った人たちがいます。
身近な例としては、教会に献身的に仕えながらも、病気や貧困などで苦しみ続けた信者がいます。
彼らの生涯を見る時、キリストへの信仰に失望を感じる人がいるのではないでしょうか。
しかし、地上での生涯は永遠の世界から比べたら、一瞬であることを忘れてはいけません。
ですから、地上の事だけで、彼らの生涯を判断することはできないのです。
地上で裕福な楽しい人生を送った後、永遠に苦しみを受ける生涯と、地上で一時的には苦しむけれども、永遠に喜べる生涯とどちらが良いですか?
ですから、私たちは永遠の尺度を持って、人の人生について判断しましょう。
この世で報いを受けないからといって、神を疑うようになってはいけません。
この世で報いがないということは、天国で報いを受けることの確かな証拠です。
ですから、信仰のために苦しむクリスチャンたちを見て、失望してはいけません。
彼らにそのような生涯を歩ませておられるのは神です。
神は彼らの働きに対して、天国で豊かな報いを用意していてくださるからです。