あいさつ
1-2
1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
神のみこころにより使徒となったパウロ、その兄弟テモテ。1
パウロは、キリスト者を迫害する思いに燃えてダマスコへ向かう途中、突然キリストの啓示を受けて、回心に導かれ、使徒となりました。彼がキリスト・イエスの使徒となったことは、全く彼の意志から出たことではなく、神のご計画によるものでした。また、天地創造以前からの神の摂理に基づくものでありました。この確信によって、彼は使徒となった後に経験したさまざまな苦難に耐えることができたのです。
コリントにある神の教会、アカヤ全土にいる神に聖別された人々へ。1
この手紙は、コリントに集められた信者の群れ(神の教会)に対して、またアカヤ地方(ギリシャ、マケドニヤ地方)全土にいるすべての聖徒たち、キリスト者として神により聖別された人たちに対して書かれています。
問題の多いコリントの教会を、パウロは「神の教会」と呼びます。パウロには、コリント教会は不品行があり、分裂があり、異言を乱用するなど問題の多い教会でした。
しかしパウロは、コリント教会が神によって立てられた教会であり、神が召し出した人々の群れであることを確信していまいました。事実、ステパナの家族やアカイコなど真理に立ち続けて神に奉仕する人々が存在していました。ですから、真の信仰者が存在するコリント教会を「神の教会」と呼び、彼らが必ず立ち返ることを確信していたのです。
父なる神と主キリストから恵みと平安があるように。祈り。2
恵みとは、キリストによって与えられる神の救いの恵みです。
救いによって、神との平和が実現します。神が与えてくださった恵みの賜物として、平和がキリスト者の心の中に、また教会やキリスト者の交わりの中に与えられます。また、この平和はキリスト者をこの世の苦難のただ中にあって勝利させます。しかし、これらすべての恵みと平安は神によって与えられ神から来るものです。決して人間から発しているものではありません。ですから、イエス・キリストから神の恵みがあるようにと祈られています。
キリストに従う時に経験する苦難と慰め
3-7
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる 人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、 私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
ここでの苦しみは、キリストに従うための苦しみ。
自分の罪の報酬として与えられる苦しみではない。
ここで言う苦しみとは、キリスト者たちが、その信仰によって生きる時に経験するさまざまな困難のことです。これはキリストの苦難と呼ばれています。
この苦しみは、キリストと関係なく受ける苦しみではありません。
自分の罪が原因で受けるこの世の苦しみではありません。
ここで言われる「慰め」とは、苦難に際して信者に与えられる内的な確信のこと。心理学的な心の慰めとは違う。
ここで言われる「慰め」とは、神が信者に真理を啓示することによる、内的な強めを意味すると思います。パウロも死の危険の際、天国が啓示されました。
信者の信仰を固く保ち、直面する苦難の先にある天国のゴールを見せる神の介入だと思われます。(心の慰め程度のものではない)
また、神が奇跡によって、信徒たちを命の危険から救い出すこと、安全を守ることでもあります。
この手紙は、苦難の中にあって信仰を守り通すクリスチャンたちのために書かれた。
この手紙は、苦難に耐えながら信仰を守り続けているコリント教会の人々やアカヤ全土に散らばっているクリスチャンたちに対して書かれています。
パウロたちは、キリストのために多くの苦しみを経験したが、
彼には、神からの慰めもあふれていた。
パウロには、キリストに従うことによって多くの苦難を受けました。
教会内外に問題があり、迫害者も多く、殺されそうになったこともありました。
しかし、彼には苦難が多いことと同時に、神から受けた慰めも多くありました。
神は彼にお姿を現し、神の奥義を教え、第三の天を見せてくださいました。5
パウロが困難にひるまず働いたことで、福音が広まり、教会が正されました。
多くの人たちがパウロの恩恵を受けました。キリスト者となっている私たちもパウロの恩恵を受けた者です。6
キリスト者の歩みは多くの苦難があるが、神からの慰めもさらに多く与えられる。
だから、最後まで耐え忍びなさい。勇敢に信仰の戦いを戦い抜きなさい。
このように言いたかったのではないでしょうか。
パウロたちが受けた慰めによって、他の信者は励まされ、パウロと同じ苦難に耐える力が与えられた。
パウロが苦難から救い出される経験や苦難の中にあって受ける神からの慰めは、他のクリスチャンたちを励ましてパウロと同じ苦難に耐える力を与えます。6
パウロは、アカヤ全土の教会が、苦難に耐えることを確信している。
彼らにも神は働いておられ、神からの慰めが豊かに与えられていることを確信しているから。
アカヤ全土の聖徒たちも、パウロと同様にして、キリストのための苦難を経験する者です。
そして、キリストと共なる苦難を受ける者たちには、必ず神の慰めもあふれます。
ですから、パウロは彼らを慰める神の慰めを確信して、彼らが最後まで苦難に耐えることができると確信しています。自分は、彼らのところに行くことができないし、彼らと一緒でも助けることができない。しかし彼らを慰める神がおられる。彼らが苦難耐えるための、実際的、霊的な助けが神によって与えられることをパウロは確信しています。
パウロがアジヤで会った苦難
8-11
1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
1:11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。
アジヤで会った苦難について語る。8-10
神は自分を救い出してくださった。将来も救い出してくださる。
第1回伝道旅行の時、アジヤ地方で会った迫害のことであろうかと思われます。アジヤでの迫害は激しく、イコニオムで伝道した時、反対者たちに打ちたたかれ、人々はパウロが死んだと思って町の外に放りだしたことがありました。しかし、パウロは奇跡的に回復し、同じ日に町に入って行ったと使徒行伝に書かれています。パウロは、死を覚悟するほどの危険な状況から何度も救い出されました。そして将来もまた、自分を救い出してくださるという希望をパウロは告白しています。
神は、パウロに死の危険から救い出される経験をさせた。
この経験させた神の目的は、パウロを「自分自身に頼らず」「神にのみ頼る者」にするためであった。9
他のクリスチャンたちの祈りによる助け。11
祈りを通して、苦難の当事者が受けている苦難と慰めを共有することになる。
パウロのために祈ることは、祈っている人々が、祈りにおいてパウロと経験を共にすることを意味します。パウロの苦難をともに苦しみ、パウロとともに神に助けを求め、パウロの救出をともに喜ぶ恵みに預かることを意味します。
そして、パウロが受ける慰めによって、パウロのために祈っている人々は、神が信者に慰めを与えられる方である確信を与えられて励まされ、自分たちが直面している困難に耐える力が与えられます。
自分の誠実さを証明するパウロたち(テモテなど)
12-14
1:12 私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。
1:13 私たちは、あなたがたへの手紙で、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。そして私は、あなたがたが十分に理解してくれることを望みます。
1:14 あなたがたは、ある程度は、私たちを理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであるということを、さらに十分に理解してくださるよう望むのです。
神の恵みによって行動している誇り。12
コリント教会の中には、前回のパウロの手紙を十分に理解しない者たちや、パウロたちの誠実さを疑う者たちがいました。その者たちに対してパウロは、自分たちの誠実さを証明します。自分たちは利害などの人間的な知恵によって行動しいるのではなく、神にとっての最善を思う誠実さから行動していると言いますこのことは、良心にとがめなく言えることで、私たちの誇りとするところでだと言っています。つまり、コリント教会への指導は、神の御心であること、自分たちは神に従って、コリント教会を指導していることを弁明しています。
コリントの教会が前回の手紙の内容を十分理解するように望む。13-14
パウロは、あなたがたが理解できないことは書いていないと断言します。
あなたがたは、あの手紙をある程度理解しているのだから、さらに十分に理解して実行に移すようにと要求しています。13
主が再臨される日には、パウロたちとコリント教会がお互いを誇りであると言えるように、手紙の内容についての相互の理解と合意を望んでいます。 14
コリントを訪問する計画
15-22
1:15 この確信をもって、私は次のような計画を立てました。まず初めにあなたがたのところへ行くことによって、あなたがたが恵みを二度受けられるようにしようとしたのです。
1:16 すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニヤに行き、そしてマケドニヤから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと 思ったのです。
1:17 そういうわけですから、この計画を立てた私が、どうして軽率でありえたでしょう。それとも、私の計画は人間的な計画であって、私にとっては、「しかり、しかり。」は同時に、「否、否。」なのでしょうか。
1:18 しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「しかり。」と言って、同時に「否。」と言うようなものではありません。
1:19 私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり。」と同時に「否。」であるような方ではありせん。この方には「しかり。」だけがあるのです。
1:20 神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。
コリント教会再訪問の計画。15-16
初めにコリントを訪問し、それからマケドニヤ行き、再びコリントに戻ってから
ユダヤに行くという、コリントを2度訪問する計画をパウロは確信をもって立てました。
この計画は、神の御心によるもの。パウロが考え出した人間的な計画ではない。
だから、パウロは必ずそちらに行く。
どうせ来ることはないと軽く考えて、忠告を無視してはらない。17-20
パウロは常に、神の御心を第一として伝道計画を立てています。
「主がお許しになるなら、あなたがたのところに滞在します」第1コリ16:7
今回のコリント訪問の計画も、神の御心に従って作られたものでした。
このコリント訪問の計画を批判する人たちに対して、パウロは自分が非難されたと言うよりも、この計画の真の作成者である神の真実性が疑われたのだと感じ、神は「しかり」と肯定していたことを、すぐに「否」と否定するような不真実な方ではないこと、この方においては、ご計画されたことはことごとく実現することを教えます。つまり「しかり」のみである神が建てられた、コリントへの再訪問の計画は必ず実現する。ですから、どうせパウロは来ないだろうと思って、彼の指導に従わない者たちは、覚悟しておく必要があるのです。
パウロもコリント教会の信者も、神によって救われた。
神から御霊の証印を受けた。
21-22
1:21 私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。
1:22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。
神の御力によって、キリストのうちに堅く保たれている。21
パウロもコリントの兄弟姉妹も、神によって救われました。御霊の証印を与えられました。
神の御力によって、キリストへの信仰を保たれている者です。ここに希望があります。
だから、私たちは、あなたがたが回心することを期待できる。21-22
なぜなら、あなたがたに信仰を与え、信仰を守らせておられるのは神だから。
あなたがたへの神の働きに期待することができるから。
コリント教会の信仰が回心するためには、彼らに神の力が働く以外に希望はありません。
パウロは、コリント教会が自主的に立ち直ることを望んでいます。
パウロには、このことをコリント教会に期待できる理由がありました。
教会員の信仰深さとか、彼らの誠実さに期待したのではありません。
これらは変わりやすく、信頼できるものではないからです。
そうではなくて、彼らに救いを与え、彼らの信仰を固く保たせておられる神に期待したのです。神が教会を正してくださるはずだと確信していたのです。
コリントへの訪問が遅れている理由
23-24
1:23 私はこのいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。
1:24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。
パウロの訪問の遅れは、彼らに回心する時間を与えるため。23-24
コリント訪問の計画のことで、パウロを嘘つき呼ばわりする者たちがいました。
なぜなら彼の訪問が延期されていたからです。
しかしその本当の理由は、パウロのコリント教会に対する思いやりのためでした。
パウロは、コリント教会が自主的に罪を悔い改めて、正しい道に立ち返ることを願っていました。
そこで、訪問を遅らせることによって、コリント教会に悔い改めの機会を与え、パウロが彼らを訪問した時に、厳しい処罰をする必要がないようにするためでした。また、コリント教会が立て直されたことを共に喜び、コリント教会の喜びのために働く協力者として再会することができるためでした。
<第2コリント1章 考察>
考察1 キリストのために受ける苦しみは、他者の救いのための益となる。
パウロの苦しみは、キリストに従うための苦しみ。
パウロが経験している困難は、自分の罪から生じる世の苦しみではありません。それは、キリストにある教会を立て上げるために経験する困難のことです。
クリスチャンは霊的な戦いの中にある。
未信者はキリスト信仰の価値を知らず、クリスチャンたちを迫害します。
サタンも、なんとかして信仰を消滅させようと機会をねらっています。
キリスト者たちは、逆風の中、キリストのために戦い続けなければなりません。
信仰のための困難、迫害やそれに伴う神からの慰めは、他の信者に困難に直面する勇気を与える。
未信者に信仰の価値を知らせる機会になる。
しかし彼らの苦しみは、信者や未信者の救いのために益になります。
信者は、迫害者から解放するための神の奇跡を見て、
また、彼らが死にまでキリストに従う姿を見て、同じ苦難に耐える勇気が与えらます。
未信者も、彼らが死をも恐れず、信仰を守り続ける姿を見て、天国が本当にあること、この信仰が命を懸けても信じる価値のあることが知らされます。
考察2 キリストに従うとき、経験する困難と慰め(なぐさめ)について。
キリストに従うために経験する苦悩には、神の「なぐさめ」がある。
パウロたちは、キリストに従うために、非常な困難を経験しました。
彼らは、常に命を失う危険と隣り合わせでした。
教会内の問題もありました。
自分が開拓した教会が堕落し、違った教えに惑わされるとか、堕落することがありました。パウロですら、気落ちすることがあったのです。
しかし、神は時にかなって彼らを慰めてくださいました。
天国の啓示を与えて励まし、迫害者の策略や、遭難の危険から奇跡的に逃れさせてくださいました。
神の「なぐさめ」あることを確信して、信仰の戦いを勇敢に戦い抜こう。
パウロたちが受けた「神の慰め」知る時、私たちは大いに励まされます。
パウロを慰めた神は、私たちをも慰めてくださると信じることができるからです。
私たちの信仰の戦いは、パウロほど激しくないものです。
それでも、弱い私たちは、宣教が進まないとき、違った教えが広まるとき、そのために自分たちが間違っていると言われるとき、落胆します。
しかし、神はすべてをご存じで、私たちを慰めてくださいます。
真理によって、気落ちした私たちを霊的に力づけ、自分に定められた働きを最後まで成すことを可能にしてくださいます。パウロと同様に、迫害者から物理的に逃れさせてくださいます。
私たちの神は「慰め」の神であることを、しっかりと心に刻みましょう。
そして、この世での霊の戦いを勇敢に戦って参りましょう。
考察3 堕落した教会や個人を立て直すにはどうすればいいか。
個人や教会が、誤った教えや行いにむかうことは、パウロの時代から起こった。
個人でも、教会でも、福音から外れた時に、当事者たちはそれに気づかないことが多いのではないでしょうか。
パウロが生きていた当時から、このようなことが起こっていました。
パウロは、自分が開拓した教会を正すために、たくさんの手紙を書きました。
それが今日、新約聖書の多くの部分を占めることになったほどです。
パウロが間違いを指摘する時、旧約聖書のことばを示し、キリストから受けた正しい知識(福音)を彼らに教えました。そして、彼らの理解や行いが福音と反している理由を説明して、正しい福音理解に基づいて実行するように勧めました。
パウロは彼らが自主的に悔い改めて、正しい理解に戻ることを願った。
パウロには彼らを強制的に正す権威が与えられていましたが、できればその権威を行使することなく、相手が自主的に悔い改めて立ち返ることを願いました。
相手を非難するだけでは、相手はかたくなに自分の主張に固執することになり、説得のための時間と労力を無駄に費やすだけに終わってしまうことを知っていたからです。
また、外からの圧力によって止めさせられた誤った理解や行いは、その圧力が無くなる時に復活するでしょう。なぜなら、自分たちが間違いに気づいて悔い改めていないからです。
真理を知らせ、悔い改めさせるのは神。
私たちは、「巧みな説得」や「人間的な愛」によって、他者に救いに至る悔い改めをさせることができないと知ることは大切です。それをなさるのは神だけ、聖霊だけです。
パウロは、神の働きに期待した。その上で、説得した。
このようなことは現代も、個人や教会レベルで起きています。
では、兄弟姉妹や教会が、福音から外れて行くときに、私たちはどうすればいいのでしょうか。
パウロは、なかなか悔い改めが行き届かないコリントの教会に対してあきらめず、関わり続けています。パウロは、「コリント教会は神が集めた群れだから、神が必ず立て直してくださる。」という確信があったからです。
パウロは、教会の立て直しにおいて、神の働きに期待をして、自分のできる限りの努力をしました。
私たちも、パウロと同様に、
教会や個人が誤った教え、非聖書的な行いに走るなら、
反対者を恐れず、聖書から証拠を示して説得する責任がある。
しかし、私たちには神からの使命を果たす責任があります。
もし、神が間違いについて指摘する機会を私たちに与えるなら、聞き手が怒ることを恐れずに、聖書から証拠を示して真理を伝えなければなりません。
それは、信徒に対しても、牧師に対しても同様です。
説得に応じない場合でも、自分は責任を果たしたから、神の前で自分の良心は守られる。
今後、あなたがどうするかを、神は示してくださるはずである。
そして、神が「もう止めて良い」と言われるまでは、私たちはパウロのように執拗に教会を説得するべきなのでしょう。それが私たちの務めであり、私たちの務めはここまでです。
どうしても説得に応じない場合、神は、今のところ、その教会や個人から真理を隠しておくことを望んでおられるのかもしれません。その時には、あなたは十分自分の責任を果たしたのです。後は、神様にその人や群れをゆだねましょう。神は、あなたがこれから行くべき方向を、示してくださることでしょう。