不本意ではあるが、あなたが導くために必要だから、自分を誇る話をする。
我慢して聞いてほしい。1
パウロは、自らを誇ることを愚かであると考えていました。しかし、偽使徒たちの自己宣伝によってコリント教会がだまされているため、自分こそ彼らが信頼するべき、真の使徒であることを弁明しないわけにはいきませんでした。そこで、やむなく自慢話だと聞こえる話をするが、こられえてほしいとパウロは言うのです
私は、利得を求める思いからではなく、神の熱心によって指導している。
私の願いは教会が正しい信仰にとどまり、終わりの日に救いに入れられること。2
霊の父親としてのパウロは、コリント教会が純粋な信仰を保ち、終わりの日にキリストの花嫁として神にささげることにしました。
パウロの熱心は、教会の純潔を願う「神の熱心」から生じています。パウロは「コリントを救いたい神の熱心」をもって、コリント教会を指導しているのです。
あなた方が救いに至る信仰を失ってはいないかと心配する。3-4
コリント教会に、パウロの後からにせ使徒たちが入り込みました。彼らは、パウロが宣べ伝えなかった「別の福音」「別のイエス」を宣べ伝えました。信徒たちはパウロからは受けなかった別の霊を受けました。しかし、教会はにせ使徒たちを崇拝して、彼らに従っていました。(みごとにこらえている)
エバが蛇にあざむかれたために、エデンの園から追い出されたように、コリント教会の信仰が、にせ使徒たちによってあざむかれ、キリストに対する真実と貞節を失い、天国に入る資格を失ってはいないかとパウロは心配しています。
私こそ神についての真の知識を持つ者である。5-6
にせ使徒たちの雄弁に比べれば、パウロの話しぶりは劣るかもしれませんが、神についての知識においては誰にも劣ることはない。パウロは、このことをコリント教会に示してきたし、教会はそれを認めていたではないか。
報酬を受けなかったので、私は劣った者と見なされるのか。7-12
パウロはコリント教会から報酬を受けずに奉仕しました。彼の必要は、自ら働くことによって、またマケドニヤからの献金によって満たされました。7-9
「パウロはコリント教会を愛していないからマケドニヤからの報酬は受けても、自分たちからは報酬を受けないのだ」「パウロはにせ者だから報酬を受けられないのだ」と考える人たちがいました。7,12
しかし、本当の理由は、彼がコリント教会を指導するために、無報酬ですることが良いと判断したからでした。その理由については、第1コリント9章に詳しく書かれています。時間があれば読み返してください。
パウロが報酬を受けなかった理由。
にせ使徒たちと自分を区別するため。12
にせ使徒たちは、報酬を得ることを誇りとし、そのことが自分たちの使徒としての証拠だと主張していました。しかし、真の使徒であるパウロは、福音に少しのさまたげも与えないために、報酬を受けずに奉仕しました。
- 自分と偽使徒と区別するため。
- より多くの献金を受けることが使徒の証拠だと誇る彼らの考えが間違っていることを、信者たちにわからせるため。
- にせの使徒たちが教会で金儲けできなくするためでした。
にせ使徒たちに気を付けよ
彼らはサタンのしもべ。彼らの最後は滅びである。14-15
パウロを否定する教師たちは、にせ使徒です。彼らが語る福音によっては、救われることはありません。彼らは人を欺く働き人です。キリストの使徒に変装しているのです。
しかし、驚くことはありません。サタンでさえ光の天使に変装するのですから。サタンの手下である彼らが、使徒に変装したとしても特別なことではないのです。ただし、裁きの日には、神は彼を正しくさばかれます。偽教師たちの最後は滅びです。神の意志に反して実行した「彼らの行い」にふさわしいものになるとパウロは言います。
あなたたちは、にせ使徒たちの横暴によく耐えているものだ。19-20
コリント教会は、にせ使徒たちのなすがままにさせていました。
信徒たちは、使徒たちから侮辱されても、彼らに金品を不当に取られても、だまされても、いばられても、顔を打たれても耐えていました。なぜなら、彼らの権威を恐れたからです。パウロは、信徒たちに対して、愚か者たち(にせ使徒たち)を良くこらえているものだと皮肉を言っています。
自分の正当性を証明するパウロ。16-33
にせ使徒たちが、自分の優れた点を自己宣伝しているので、パウロも自分の正当性を主張するために、自分のことを話さない訳にはいきません。それで、愚か者として思い切って話すと前置きをして話します。16-18
自分の血統について語るパウロ。私も彼らと同じきっすいのユダヤ人。22
にせ使徒たちは、イスラエルで生まれたへブル人であること、アブラハムの子孫であることを誇っていました。そこで、パウロは、自分も血統としては申し分がないことを明らかにしました。
キリストのために受けた壮絶な労苦について語るパウロ。
この労苦を耐えて抜いて働き続けた事実こそ、自分が正真正銘の使徒であることの証拠。23-33
にせ使徒たちは、キリストのために労苦したことを自慢していました。
そこでパウロは、自分の労苦が、常軌を逸したものであったことを語ります。
パウロが経験した苦しみは、にせ使徒たちの苦難をはるかに超えるものでした。
この壮絶な苦しみに耐えぬいて働き続けることができた事実こそ、彼が正真正銘の使徒であることの証拠です。
- 39回のむち打が5回。 ユダヤ教の会堂で行われた。
律法で40回打つことが限度とされていた。40回以上打つ間違いを犯さないために、1回引いた39回を打った。3つの皮ひもの先を結んだ物で打つ刑。 - むちで打たれたこと3回。 異邦人による刑。
縄の先端に先のとがった鉛をつけて打つ。 打つ回数に制限がない。 - 石打ち1回 神を冒涜したと責められた時に受けた。ユダヤ人の死刑の方法。
- 難船 3回
- むち打たれたこと、牢にいれられたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばあった。
- 教会内外のさまざまな問題に対する心づかいによって心が痛められた。
<第2コリント11章 考察>
「にせ使徒」と「本当の使徒」との違い。
動機の違い。
- 「神の熱心」を自分の思いとして、教会を指導したパウロ。
1節に、パウロは「神の熱心によって、熱心にあなたがたのことを思っている」とあります。また、2節には、「終わりの日に催されるキリストとの婚礼において、コリント教会を信仰において純潔な処女として結びあわせるよう心に決めている」と告白しています。そして3節で、「にせ使徒の教えによって、あなたがたのキリストへの真実と貞節を失うことがあってはならないと心配している」とあります。信仰において、教会が最後まで聖く保たれ、終わりの日に天に引き上げられることは、神がお持ちになっている熱心です。これが1節で言われている「神の熱心」です。パウロは神の熱心を自分の思いとして、コリント教会の霊的汚れを聖めることに全力を尽くしました。 - 真の使徒とにせ使徒の動機の違い。働きの違い。
肉的な動機からの教会形成か、神的な動機による指導か。
真の使徒の動機は、「神の熱心」です。それは、魂が本当に救われて天国に入る願いです。ですから、もし信者の信仰に誤りがあるなら、厳しい言葉を用いてでも、その誤りを正そうとします。たとえ、そのことで自分が嫌われても、人が離れて行ってもです。
しかし、にせ使徒の場合は違います。彼らの動機は「肉の熱心」です。自分が尊敬され、有名になることです。ですから、魂の最終的な行先よりも、より多くの人が自分を尊敬し、自分に従う教会を作ることを目指します。そのような教会を作るために、「偽り」を約束することが必要な場合は、集めた人たちに「違った福音」、つまり信じても救われない福音を語ることを選択します。
にせ使徒たちが異邦人教会でしたこと。4、19-20
- イスラエル人を選民と敬う意識を植え付けた。
にせ使徒たちは、自分たちがユダヤ人の中でもイスラエルで生まれ、たの民族の血が混ざっていない「きっすいのユダヤ人」であることを誇りました。(22節)
ですから、異邦人信者たちは、格が下ということになります。
にせ使徒たちは、ユダヤ人信徒を優遇し、異邦人信徒は粗雑な扱いをしました。
異邦人信徒たちは、にせ使徒から横暴な扱いを受けても、耐えていました。
20節には「いばられても」「顔をたたかれても」とあり、ユダヤ人の異邦人に対する扱いがひどかったことがわかります。 - 信徒たちを律法主義に逆戻りさせた。
御霊によって心の板に書かれた律法を守るよりも、人の手で書かれた律法の決まりを守る信仰を教えた。
コリント教会に後からやって来た自称使徒たちは、律法を厳格に守りつつ、キリストを救い主として信じる人たちであったと思われます。(22節)おそらく、彼らは異邦人にも割礼を受ける必要があると説いたでしょう。また、異邦人にも律法を守るように指導したと思われます。
律法を守ることは、ユダヤ人のお家芸であり、このことにおいてさらに異邦人は自らを卑下する結果になったであろうと思われます。 - 異邦人から、不当に金を集めた。(信徒を搾取した)
自分たちは神に選ばれた選民であることを強調し、異邦人に対して金を要求したと思われます
彼らは、「神に特別に愛される自分たちに与えることは、神に与えることだ」とうそぶいたのであろうと思われます。
彼らは、異邦人に感謝することもなく、当然のこととして金銭を受け取っていたことでしょう。
にせ使徒の搾取の仕方は執拗であったようで、「食いつくされても」(20節)とパウロは彼らの貪欲ぶりを表現しています。 - パウロが伝えなかった「別のイエス」を伝えた。
パウロはメシヤとしてのイエスを宣べ伝えました。キリストは人として来られた神です。旧約時代から預言されていたメシヤです。この方の贖いによって、信じる者の罪が赦され、永遠の命があたえられます。
彼らはパウロが伝えたのとは違うイエスを伝えました。
ですから、彼らの伝えるイエスを信じても救われることはありません。 - パウロが受けなかった「違う霊」を信徒に受けさせた
彼らの働きにも霊的現象がともなった
パウロが福音を語った時に、聖霊が下り、信者が起こされました。人々は聖霊を受けて新生し、異言を語り、霊的な賜物(預言、知識のことばなど)を授かりました。
にせの使徒たちによっても、これとよく似た現象が起こりました。しかし、それは聖霊によるものではありませんでした。
悪霊によっても、霊的な現象は起きます。たとえば占いが当たることがあり、異言がでることもあり、幻を見ることもあります。
ですから、私たちは霊的現象が起きていることだけで、それが聖霊のわざだと判断できません。同時に、その人たちの信仰を吟味しなければいけません。 - 異なった福音を伝えた。
にせ使徒の語った福音は、パウロから受けたものとは異なっていました。
ですから、彼らの語る福音を受け入れても、天国に入ることはできません。
にせ教師はいつの時代にも存在する。13-15
彼らは、「にせ使徒たち」と同じ特徴がある。
にせ教師らは、今日も存在しています。聖書は彼らの出現を預言しています。
イエスも、彼らが来ることを預言しました。(マタイ7章15-16節)
ですから、にせ教師たちがいること自体は驚くことではありません。
大切なことは、私たちが彼らのあざむきを知って、彼らにだまされないようにすることです。そのためには、普段からパウロが語った福音を良く学び、教師が語る福音が正しいかどうかを判断できる力を養っておく必要があります。
にせ使徒は多くの場合、光の天使に変装する。
彼らは、初めは良いが、最終的にはあなたを支配し搾取する。13-15
彼らは悪い教師に変装することはありません。彼らの印象は良いものです。
たとえば、やわらかい物腰、愛のある態度、清潔な服装、ていねいな言葉遣いなどです。彼らは、輝かしい学びの経歴を持っていたり、しかるべき団体からの按手や推薦を受けていたりします。そして、これらのことを自己宣伝します。
しかし、だんだんと彼らはその本性を現わしていきます。自分についてくる人たちから金銭を巻き上げ、神にではなく自分に服従するようにさせます。
ですから、うわべのことだけを見て信用するなら、にせ教師のいいように利用されてしまいます。
本物の教師は、キリストのために多くの苦難を経験している。
パウロほどの苦難を経験する人は多くはいないかもしれませんが、キリストの真のしもべは、キリストのために多くの困難を経験しています。彼らは、福音宣教のために必要であるならば、貧しくなることも、価値のない者と見なされることも甘んじて受けるからです。
偽りの教師が誇る労苦は、自分の身の安全を確保した上での労苦。23
彼らは、教会から金銭が得られなくなれば、他の教会に移る。
迫害で命に危険が及ぶと思えば、教会を見捨てて一目散に逃げる。
にせ使徒たちが語るキリストのための苦難は、パウロから見ればとるに足りないものでした。
なぜなら、彼らは自分の安全を確保した上で、奉仕しているからです。
彼らは、教会からの報酬が少ないとか、迫害によって自分の命に危険が及ぶ場合は、信徒を置き去りにして逃げます。彼らが教会に仕えることができるのは、彼らが教会から益を得ている間だけだからです。
しかし、パウロの場合は違いました。コリント教会のために無報酬で働き、福音のために命の危険を犯すことも度々ありました。これらの違いによっても、本物とにせ物の教師を見分けることができます。
パウロは、「本当の使徒」。彼が書いた書簡は神のことば。
この事実を重く受け止め、パウロが語ったこととは違う福音を作りあげたり、信じたりしてはならない。パウロ書簡を軽く扱う信者や教派が多いことを憂慮する。
- 彼はキリストをその目で見、その耳で御声を聞き、キリストから直接教えられました。
彼は、正真正銘の使徒です。だから、彼が使徒であることを否定する人たちは「にせ使徒だ」と言ったのです。
どの書簡でも、パウロは自分が使徒であることを宣言しています。
彼は、教師たち、信徒たちが、自分の使徒としての権威を疑うことを、ゆるしませんでした。なぜなら、彼が直接神から召された正真正銘の使徒だったからです。 - パウロは、命を失うほどの苦難を数多く経験しましたが、生き延びました。神が、奇跡によって彼を守られたからです。このことからも、彼は神からの委託を受けた使徒だとわかります。
神の介入がなければ、パウロの旅は、1回で終わっていたことでしょう。
神は、彼が命を失う危険を何度も逃れさせ、3度の旅をさせました。そのため、当時世界の中心であったギリシャ、マケドニヤ、アジヤ地方一体に福音が広められました。最後には、ローマにまで福音を伝えられました。このようなことを成しとげられたのは、彼が神に召された正真正銘の使徒であったからです。 - 上記ことを思い起こすとき、パウロのことを軽く扱うことはゆるされないことが解ります。パウロは人間ですが、神からのことばを「委託」された使徒です。彼が書き残した書簡は、神のことばだからです。
私たちは、この事実を重く受け止め、彼が説いた福音に合致した信仰を持たなければなりません。決して彼の説かなかった福音を作りあげたり、信じたりしてはなりません。それは、神に反抗する罪だからです。永遠の滅びに向かう道だからです。自分のために、神の怒りを積み上げるほどほど恐ろしいことはないからです。