- 1 神とともに働く者として懇願する 「恵みをむだに受けてはならない」1―3
- 2 働き人は、神のことばにつまずきを与えてはならない。 そのため、生活全般において配慮しなさい。4―7
- 3 神は、伝道者たちを守られる 伝道者は苦しむが、倒されない 貧しいが、人を神の前に富む者にすることができる8-10節
- 4 パウロはコリント教会対して心を開いて話し合おうとしているが、 コリント教会の人々が、パウロに対して心を閉じて彼の助言を受け入れない13
- 5 不信仰者とつりあわぬくびきを結んではならない
偶像礼拝に関わる者への警告
14-18
- 5.1 考察1 恵みを無駄にしないためにはどうすればいいのか
- 5.2 考察2 伝道者は、誤解され非難されることを覚悟しておかなければならない。それでも真理に堅く立ち、神の言葉を曲げず、反対者たちに対して自分の信仰をはっきりと表明しなければならない。
- 5.3 考察3 必要なものは、その時が来れば与えられる。 今持っていなくても、主が与えてくださることをパウロは信じていた。
- 5.4 考察4 キリスト者の誇りは、他者に霊的祝福を与えることができること。
- 5.5 考察5 指導者と指導される者との信頼関係がなければ、指導はできない指導を受ける側が、指導者の権威を疑っている場合や、指導者の信仰を疑っている場合、助言は受け入れられない。
- 5.6 考察6 偶像礼拝は神に最も忌み嫌われることである。クリスチャンは絶対に避けなければならない。
神とともに働く者として懇願する
「恵みをむだに受けてはならない」1―3
にせ教師たちが信徒の信仰をゆがませた。
パウロがコリントを去った後、彼が伝えた福音とは別の福音を教える「にせ教師たち」がやって来ました。そのため、信者たちは誤って信じ、実行するようになっていました。
神に義とされた恵みを無駄にして、罪を犯し続ける者がいた。
神から与えられた賜物を誇り、礼拝を混乱させる者がいた。
教会は彼らを寛容に見守り、さばくことをしなかった。
さらに、信者になった後も、不品行を続ける者や、兄弟間のお金の貸し借りで不正をする者がいました。また、ある教師に指示して分派を起こす者や、異言を語ることを誇って礼拝を混乱させる者がいました。しかし教会は、このような人たちに愛と寛容を示して彼らをさばくことをしませんでした。
行いによるのではなく、神の恵みにより信仰によって義とされる福音が、かえって彼らの生活に悪い実を実らせていた。
コリントの信者たちが、パウロから受けた信仰の恵みは無駄になってしまったかのようでした。彼らは、良い実を実らせる代わりに、悪い実を結んでいたからです。
パウロは彼らに、正しく福音を理解することを勧める。
自分たちの罪を悔い改めて、良い実を実らせることを勧めた。
パウロは、コリント教会の人々がパウロから聞いて信じた「恵みの福音」を無駄にしないように、正しい福音にとどまって生活の上に良い実を結ぶように勧めます。パウロは、神とともに働く神の使節です。(5章18-21)
ですからこの勧めは、神がパウロを通してコリント人たちに懇願していることと同じです。
この懇願を軽んじて無視するならば、自らに大いなるさばきをもたらすことを心得なければなりません。
恵みの福音が語られる期間は限られている。
聞く機会が与えられたら、今信じなさい。好機を逃してはならない。2節
キリストによって義とされ天国に入ることができる「恵みの福音」はいつまでも語られるものではありません。福音を聞くことのできない日が来ることが預言されています。ですから、もしあなたが福音を聞なら、それは絶好の機会が与えられたことを意味します。その機会を逃してはなりません。
ここではイザヤ書の預言の言葉が引用されています。
キリスト以前は、ユダヤ人だけに神は和解を要求しました。しかし、キリストの復活の後、異邦人たちにもご自身との和解の機会を与えることを、おゆるしになりました。
私たちは、福音を聞くことができる時代に生きています。
しかし、この時代はいつまでも続きません。黙示録には、そう預言されています。
神は「ある日」を定めておられ、その日には救いの機会は完全に閉ざされます。ですから、もしあなたが福音を聞くことができたなら、その時が信じる好機です。もし信じなければ、もう2度と機会が与えられないかもしれないからです。
働き人は、神のことばにつまずきを与えてはならない。
そのため、生活全般において配慮しなさい。4―7
あらゆる困難を経験しながらも、福音を述べ伝え続けたパウロ。
キリストの使節として、神とともに働く者としての姿が書かれている。
これらは、神に忠実なキリスト者の姿でもある。
- 信者たちが起こす問題や未信者が加える困難に、非常な忍耐を働かせた
- 非常な悩みを負いながらも、神の奉仕を全うした。4
- 迫害によってむち打たれる時も、入獄された時も、暴徒たちに殺されそうになった時も神のために前進し続けた。5
- 福音のために疲れていても、自分の生活のために働いた(労役)5
- 教会内外の問題のために、しばしば眠れずに労苦し祈った。(徹夜)5
- 貧しさのため飢えを覚えながら働いた。(貧困)
- 奉仕の働きに寝食を忘れて働いた。(断食)5,6
- 不正な思いを持たず、誠実な心で奉仕した(純潔)6
- 神の真理の知識を話人々を説得した。(知識)6
- 人に対して寛容で親切に接した。(寛容、親切)6
- 聖霊が結ぶ実である偽りのない愛をもって人々に接した。(聖霊、愛)6
- 宣教により命が危険な状況でも、真理を伝えた。(真理の言葉)7
- みことばに、神の力が働いて信者が起こされた。(神の力)7
- 罪人を義とする「救いの言葉」を語った。6、7(福音のことば)7
- ある人々から、愚か者だ、嘘を言っていると悪評を受けた。(悪い評判)
- 他の人から、真実を語る神の働き人として良い評判を得た。(良い評判)
神は、伝道者たちを守られる
伝道者は苦しむが、倒されない
貧しいが、人を神の前に富む者にすることができる8-10節
今日、パウロの正当性は認められている。否定するのは異端だけ。
パウロは偽教師だと言う者たちや、パウロの述べ伝えた福音は間違っていると言う者たちがいました。しかし、パウロの正当性は歴史が証明しています。パウロが述べ伝えた福音は、今も私たちが信じるべき信仰の基準です。今日パウロの正当性を否定する者はいません。そして、彼に反対した者たちの信仰は異端として退けられています。
パウロへの人々の評価は分かれた。
神は、伝道で苦しむパウロを助けられ、彼の宣教を続けさせた。8-9
彼は、彼を認めない人たちにとっては「人に知られないような者であっても」つまり無視されるべき人物ですが、真理を愛する人々にとっては「良く知られ」つまり価値を認められる存在です。
そして、神は伝道にともなうさまざまな困難からパウロを救い出してくださいました。パウロが生きて働くことによって、さらに多くの人々が福音を聞き信仰に入ることができました。
パウロに財産はなかったが、多くの人を神の前に豊かな者にした。
みことばにあるように、パウロは物質的には貧しく、「何も持たない者」のようですが、「多くの人を霊的に富んだ者」としました。
信仰は、この世と次の世のすべての必要を供給する。
だから、信者は何も持たないようでも全てを持っていると言える。10
また、パウロに与えられた信仰の富は、パウロがこの世で生きていく上に必要な物をも供給してくださいました。パウロは、必要が生じれば神がその必要を満たしてくださることを知っていました。ですから、信仰の富が与えられているということは、この世と次の世におけるすべてを与えられていることと同じです。それで、「何も持っていないようでも、すべてを持っている」と言えたのです。
パウロはコリント教会対して心を開いて話し合おうとしているが、
コリント教会の人々が、パウロに対して心を閉じて彼の助言を受け入れない13
パウロは、自分は心を開いてコリント教会と話をする用意があることを伝えています。しかし、コリント教会の人々の側でパウロに対して疑いを持っていたために、パウロから素直な心で教えを聞くことができないでいました。そこでパウロは、自分たちに対して心を開いて欲しいと願っています。
不信仰者とつりあわぬくびきを結んではならない
偶像礼拝に関わる者への警告
14-18
信者と不信者の人生の目標、生き方は全く違う。
霊的な事柄において、不信者と信者の間には埋めることのできない隔たりがあります。
不信者は自分を人生の主としています。彼らの思いは地上の事だけです。
彼らは、地上に宝をたくわえること、この世を楽しむことに必死です。
偶像を拝み、キリストを嫌います。
それに反して信者は、キリストが彼らの人生の主です。信者は次に来る世に望みを置いて天に宝をたくわえるために生きます。偶像を拝まず、キリストを礼拝します。
不信者の霊的な状態を聖書は何と表現しているか。14-16
不信者のことは、不法、暗やみ、リベアル(サタンに属す者)と表現され、
信者のことは、正義、光、キリスト(神に属する者)と表現されています。
究極的には、キリストを認めない人は、依然として暗闇の中に閉じ込められており、彼らは神の義を持たず、罪人であるために不法を行い、サタンの支配下にあるということです。これは、非常に厳しい言い方ですが、これが聖書の語る不信者についての霊的な現実です。
不信者に誘われて偶像礼拝に関わることは危険。避けるべき。
不信者とつりあわぬくびきをつけてはならない。
そうであるなら、信者と不信者の間に霊的な一致は全くありません。
霊的な事柄において不信者と深く関わるならば、信者の信仰に悪い影響が出ます。ですから、彼らが拝む偶像に関わってはならないと強く警告されているのです。
不信者と全く交際しないのではない。
彼らから霊的に悪い影響を避けないように気をつける。
機会があれば、彼らに伝道する。これが信者の務め。
しかし、彼らに伝道する機会が与えられるなら、積極的に彼らと関わり伝道をすることはキリスト者としての当然の務めです。この箇所では、不信者と全く関わらないで生活せよと言っているのではありません。彼らの信仰に引き込まれて、不信仰の罪を犯してはならない。そのために、霊的な事柄において不信者と分離するようにと言われているのです。
偶像の宮で食事をする信者たちへの戒め。
コリント教会の中には、自分の信仰は確立しているから、偶像からの影響は受けないと慢心して、偶像の宴席に連なって食事を楽しむ人がいました。
また、偶像の力を完全に否定しきれていない弱い信仰者たちに、彼らの信仰を強めるためだとの理由で、偶像に供えた肉を無理やり食べさせる人たちがいました。彼らに対する警告であると思われます。
偶像から離れるなら、神はあなた受け入れる。 17-18
あなたは神を父と呼び、神はあなたを子とする。
霊的な事柄で信者が不信者から分離することは、神にとって正しいことです。私たちが偶像から、自分自身を分離するなら、神は私たちを受け入れ、神が私たちの父となり、私たちは神の息子、娘になると言われています。
偶像礼拝は神が一番嫌われることである。
信者は、このこと知っておかなければならない。
偶像礼拝は神が最も忌み嫌われることです。なぜなら、神の御霊が信者の内に住んでおられるために、信仰者の体は神の宮となっているからです。信者が偶像と関わることは、神の霊とサタンとを結びあわせることです。そのようなことは絶対にしてはならないことです。信仰者は、「自分自身が神の宮となっている」という自覚が必要です。
<第2コリント6章 考察>
考察1 恵みを無駄にしないためにはどうすればいいのか
キリストが、すべての人のために死なれたのは、生きている人々(キリストの死に預かって救われた信者)が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(第2コリ5:15)
「私は、もはや自分のためにではなく、キリストのために生きる者にされた」この思いが根底にあってこそ、はじめて信者からキリストのかおりが放たれ、信者の生活にキリストが結ばせる実が実るようになります。
偽教師たちがコリントの信徒を狂わせた。
しかし、コリント教会に、偽教師たちが入り込んで信者たちを惑わしました。
そのため、違った福音に惑わされた人たちが出てきました。彼らは、兄弟間で訴訟問題を起し、法定で争い、教師の優劣を比べ合って分裂し、自分中心な思いで異言を用いて礼拝を混乱させました。彼らは、はじめにパウロから受けた恵みの福音からはずれ、明らかに悪い実を実らせていました。
偽りの教師は、信徒の「欲望」「自己中心」を増長させる。
偽りの教師たちがもたらしたものは、「自己中心」の思いでした。彼らは、信者たちが自分のために生きること、この世でもっと楽しんで得をしたいという思いを増長させました。そのために、信者間で争いが絶えなかったのです。
また、にせの教師は、信者の信仰を守るために自分の命を危険にさらすようなことはしません。彼らが伝道する動機は、人々から尊敬されるから、お金儲けができるから、人を支配することができるからです。
私たちもこのような教師に指示して、自己中心の思いを強くして、他者との関わりや、生活において悪い実を実らせていることがあるのではないでしょうか。
パウロが伝えた福音にとどまり、正しく実践する。これが恵みを無駄にしない生き方。
私たちは、神から受けた恵みを無駄にしたくないものです。パウロが伝えた正しい福音にとどまって、キリストのために生きる正しい生き方をしたいものです。「本当の福音」は人を謙遜にします。その人に罪を自覚させます。ますます自分ではなく、神に頼るように導きます。
失敗の多いあなたであっても、神はあなたを見放さず見捨てず、最後には天国に入れてくださいます。これが、神から受けた恵みを無駄にしない生き方です。
考察2 伝道者は、誤解され非難されることを覚悟しておかなければならない。それでも真理に堅く立ち、神の言葉を曲げず、反対者たちに対して自分の信仰をはっきりと表明しなければならない。
パウロは、どのような困難の中にあっても真理に立ち続けた。
パウロは、どのような困難の中にあっても、神のことばを曲げずに伝え続けました。彼から神のことばを聞いた人たちに、聖霊が臨むことで人々が救われました。ですから彼は、自分の宣教は御霊と御力の現れであったと告白しています。(1コリ2:4)
信者は、悪評を受けることもあると心得ておくこと。
すべて神のために忠実に仕える伝道者たちは、パウロのように悪評を受けることを覚悟しておくべきです。しかし、このことは、あなただけではなく、過去の聖徒たちも経験したことを知っておくことは重要です。
過去の聖徒たちは皆、反対者におびやかされる中で真理を伝えた。
ユダヤ人たちは、イザヤやエレミヤをあざ笑いました。預言者たちは、自分の命の危険を犯して王に忠告をしました。使徒たちも同様です。反対者たちに殺されそうになりながらも、死に至るまで神の言葉を述べ伝え続けました。そうであるなら、私たちに同様のことが起きても、驚くことではありません。
神は信者を守られる。だから勇気を失ってはならない。
苦しみながら主を伝える私たちに慰めとなることは、神は困難の中にあるご自分のしもべを守られるということです。神が定めた時まで、パウロの命を守られた主は、あなたがあなたの使命を全うするまで、あなたを守られます。
ですから、みことばを伝えることを止めてはいけません。反対者を恐れてはいけません。自分の信仰を隠してはいけません。これが、パウロが生き方でした。そしてまた、私たちの生き方です。
考察3 必要なものは、その時が来れば与えられる。 今持っていなくても、主が与えてくださることをパウロは信じていた。
神は信者の必要をよくご存じである。
神は、信者の必要をその人よりも良くご存じです。
私たちは、自分の本当の必要がわからない愚かな者です。
しかし神は、信者の本当の必要を満たしてくださいます。
私たちは、自分が臨んでいない物が与えられて悲しみますが、後になって感謝することをしばしば経験します。
信者の背後には、神の供給がある。必要なものは与えられる。
信仰こそすべてであり、信仰が、霊的物質的なものを満たす源です。
ですから聖書の言う通り、信者は「今持っていなくても、すべてのものを持っている」と言うことができるのです。
信者は、見える物に頼らない。見えない神の守りと供給を確信する。
私たちクリスチャンは、目に見える状況の背後にある神の働きを見ます。
これが、見える物しか頼ることができない未信者との大きな違いです。
信者は、自分に信仰を与えてくださった神が、信者としての歩みに必要な霊的、物質的に必要な全てを備えてくださることを知っています。
何がいつ与えられるかは、神がお決めになることです。
神が与えてくださる物や、与えてくださる時が、自分にとっての最善であることを信者は知っています。
パウロはこの確信を告白しています。(2コリ6:9-10)
私たちも、困難な中にある時こそ、この確信にしっかりと立ちたいものです。
考察4 キリスト者の誇りは、他者に霊的祝福を与えることができること。
キリスト者にとって霊的な祝福が一番の関心事です。
信者たちは、愚かだと言われ、無価値だと評価されます。
しかし、彼らは、永遠の滅びに向かっている未信者に命を与える「かぎ」を持っています。信者たちは、この世の一番価値ある宝に勝った宝を与えることができます。このように尊い務めを、神から委ねられていることが、キリスト者の誇りです。ですから、さげすまれても、ばかにされても伝え続けることができるのです。
考察5 指導者と指導される者との信頼関係がなければ、指導はできない指導を受ける側が、指導者の権威を疑っている場合や、指導者の信仰を疑っている場合、助言は受け入れられない。
パウロの使徒としての権威を疑う者たちは、彼の指導に従わなかった。
パウロは、イエスが地上におられた間に使徒として召されていなかったため、彼の権威を疑う者たちがいました。
指導を受ける側が、助言する人を信頼しなければ、指導は不可能になる。
指導を受ける物が、パウロの使徒として認めなければ、指導は不可能です。
それでパウロは、自分が主を見たことや、第3の天にまで上げられたことを語り、彼らに自分の使徒としての正当性を弁明する必要がありました。
そして、自分が伝えた福音が正しいことの証拠として、彼の伝道を通して救われた人々の生活の良い実を紹介しています。伝道者の真価は、彼らの働きから生まれた信者の結ぶ実によって見分けることができるからです。
聖書から正しく論証できる人は、教職者ではなくても、神からの権威が与えられている人。その人の助言を大切にしなければならない。
真実な助言であっても、語る人の真実性を認めているかどうかで、その助言が無駄になるか、受け入れられるかが決まります。
教会から正式な権威を与えられた働き人からの助言は受け入れやすいものです。しかし、公式な権威を与えられていない信者が、聖書から正しく立証して、教会の間違いを指摘した場合はどうでしょうか。果たして教会はその意見を受け入れるでしょうか。
クリススチャンに権威を授けるのは聖書です。助言をする人が聖書に忠実な信仰を持っているのであれば、その人には権威があります。この判断を持って、私たちは助言に耳を傾けて、自分を、また教会を、正しく保つ努力をしなければなりません。
考察6 偶像礼拝は神に最も忌み嫌われることである。クリスチャンは絶対に避けなければならない。
安易に偶像と関わることは、神の怒りを買うことになる。
偶像から離れることは神の願いであり、信者の願いです。
職場や地域、親戚との付き合いなどの問題はありますが、偶像とは一線を引くことが大切です。信仰に入った時に、はっきりとした態度を取ることが、その後の付き合いを楽にします。
偶像礼拝は、神の子としての権利を失うことに関わる重大な罪だと知っておく必要がある。
クリスチャンの体は神の宮になっています。その宮に偶像を招き入れることは、神の宮を悪霊によって汚すことです。この自覚は重要です。
偶像との関わりは、決して小さな問題ではありません。断りにくいから神社や寺と関わり続けるとか、神社で一緒に手を合わせるくらいのことはいいだろう、心でキリストを拝んでいるから神はゆるしてくださるだろうと、自分勝手な判断はいけません。
偶像に対するこのような軽い考えは、大きな間違いです。
この章から、偶像を避けることが、神の子となること、神が父となってくださることと密接につながっていることがわかります。
そうであるなら、偶像を拝むことは、自分の側から神との関係を断ち切る行為をしていることになります。神もあなたを子として認めないことに関わる行為であることを知るべきです。
ですから、私たちクリスチャンは神への恐れをもって、偶像を避けて関わらないようにしなければなりません。