第2列王記13章「エフーの子たち、偶像礼拝を止めなかった。神は彼らの祝福をひかえる。国を守ってくれたエリシャ、死の床にあるエリシャの上に伏して泣いたヨアシュ王の心境について考えた」

要約

エフーの子、エホアハズが17年間王となり、その後エホアハズの子のヨアシュが王となった。彼らは、ネバテの子ヤロブアムの犯した罪を犯し続けた。そのため、神の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。神は、アラムの王ハザエルとその子ベン・ハダテに、彼らを攻め続けるようにされた。エリシャが死の病をわずらっていたとき、ヨアシュ王は彼のところに下ってきて、泣き伏した。エリシャは、ヨアシュのために最後の預言をした。王はこの度の戦いで、アラムを打つこと、3度だけは勝ことを預言する。その通りヨアシュは3度勝利して、ベン・ハダテからイスラエルの町々を取り返した。エリシャは死んで墓に葬られた。彼の骨に触れた死人は生き返った。

観察

観察1、エフーや彼の子達が犯し続けた「ヤロブアムが犯した罪」とは何か?
金の子牛の像をつくって、ダンとベテルに置き、宮を建て、エルサレムの神殿ではなく、これらの宮で拝むようにさせたこと。

ロブアムがイスラエルの10部族の王となった時、彼は、ベテルとダンに金の子牛を置き、宮を建て、レビの子孫ではない一般の人から祭司を任命して、礼拝を捧げるようにした。なぜ「金の子牛」なのかは、イスラエルの先祖たちがエジプトから逃れた後、モーセが山に祈りに行った留守の間に作った偶像が金の子牛だったからだ。
ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」そこで、王は相談して、金の子牛を2つ造り、かれらに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここにあなたをエジプトからつれ上ったあなたの神々がおられる。」それから、彼はいつをベテルにすえ、1つをダンに安置した。このことは罪となった。(1列王記12:26-30)

ヤロブアムはレビの子孫でない一般の人から祭司を任命し、ユダの祭りにならって、祭りの日を8月15日と定め、ベテルの祭壇でいけにえをささげた。(1列王記28:31-33)

ヤロブアムは、民が、礼拝のためにエルサレムに上っていかないようにするために、サマリヤに偶像を置いて礼拝させたのである。エフーも彼の子たちも同じ考えであった。そのために、金の子牛を取り除くことはなかった。しかも、サマリヤにはアシュラ像も立ったままであった。(2列王13:6)

観察2、神は偶像を造って拝むイスラエルを怒られた。彼らへの祝福をひかえて、敵が攻めてくるようにされた。
アタルヤが殺されて後、祭司エホヤダの下でヨアシュが王となり、民が神と契約を結び、バアルの神殿を破壊し、バアルの祭司を殺した。人々は皆喜び、町は平穏であった。(2列王11:17-20)

人々に信仰の復興が起こり、王も民もイスラエルの神に立ち返り、偶像を取り除いた。すると、その町を神が守られ平和が訪れた。神が彼らを外敵から守られるので、彼らは安全であった。これはユダの地で信仰が復興した時に起きたことである。
エフーと彼の子たちは、偶像が王位を維持させてくれると考え、民に偶像礼拝をすすめてしまった。そのために、彼らは、神の怒りが燃え上がり、アラムの攻撃に悩まされ続けた。

観察3、エリシャが死の病にかかった時、イスラエルの王ヨアシュは泣き伏した。
ヨアシュ王は、エリシャに助けられていた。彼の預言によって、イスラエルの国はアラムの攻撃から守られていた。

アラムの王がイスラエルと戦っているとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げな いのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げている のです。」(2列王6:8-12)

エリシャは、病の床にあって、ヨアシュのために預言をしている。「今回はアフェクでアラムを打つ。そしてあと3度勝利する」と。(2列王13:17-19)

これらのことから、エリシャの死を目前にして、ヨアシュ王がうろたえたのは当然である。
エリシャの死は、イスラエルから神の助言が消えることを意味した。それは、近い将来、イスラエル王国はが他国に占領されて滅亡することを意味した。それで、ヨアシュはおののき、エリシャの上で泣き伏し、叫んだのである。

適応

適応1、「ヤロブアムの罪」を犯し続けた王たちは、神に信頼していなかった。神は彼らの不信仰を怒られた。
神に対して不信仰な者は次のような生き方をします。
エフーと彼の子たちがそうでした。そして、彼らの生き方を神は怒られたのです。1、神の介入を考えに入れず、現状だけから、将来を予測する。
エルサレムに行けば、民の心はレハブアムに帰る。王国はダビデに戻ると予測した。
2、自分の益のために、神のおきてを破る(金の子牛を安置する)

自分の持つ力や手段、たとえば人やお金、策略などで自分を救おうとして、神の助けを期待して待つことがありませんでした。これは、見えるものに頼り、見えない神を頼りにする信仰がなかったからです。私たちもこのような生き方をするとき、神に対して罪を犯すことになります。


適応2、問題を解決するために、まず、自分の信仰を整えることが重要。全ての出来事を神が支配しておられる。神の怒りを買う信仰では、神からの助けを期待することはできない。
エフーと彼の子らは、「金の子牛」を取り除いて、イスラエルの神に頼るべきでした。神には、千も万もの策があります。彼らが神に立ち返れば、神は彼らを外敵から救ったであろうし、民もユダになびくことはなかったでしょう。しかし、ユダが王位を継承することは神の定めでした。彼らが不信仰におちいったのも、神のご計画によるのでしょう。彼らは罪を犯し続け、王国は益々衰退していきました。そして最後には、アッシリアに占領されてしまいました。

私たちは、問題のただ中にあるときこそ、自分の信仰を吟味するべきです。自分は偶像に仕えていないだろうか?神よりも信頼でき、神よりも自分を保ってくれ、神よりも自分を喜ばせてくれるものを持ち、神よりもそれに自分の時間や関心を注いでいないだろうか?このように自分の心を探らなければならない。もし、偶像があるのであれば、それらへの服従、依存を止めて、神を第一として頼らなければならない。なぜなら、私たちの身の回りに起きる全ては、主によって定められているからです。主の祝福なしに平和は実現しません。

ですから、もし神に対して不信仰であるなら、悔い改めて主に立ち返りましょう。主はゆるしてくださいます。もし、神への不義がないなら、その困難は主からの訓練です。主はそのことを、あなたの為に益としてくださいます。解放の時を信じて、忍ぼうではありませんか。

適応3、信仰のある人を通して受ける祝福は、いつまでも続かない。自分が神との平和を得て、神から祝福される者になっていなければならない。
ヨアシュ王はエリシャの恩恵を受けていました。エリシャの預言によって、アラムに勝利することができたからです。しかし、そのエリシャが死ぬ時がきました。もはや神のことばはイスラエルに下りません。後は、滅亡の時を待つだけです。ヨアシュ王は、このとき神に立ち返るべきでした。自分と神との関係が平和になれば、アラムの攻撃は止んだはずです。しかし、彼はただ、エリシャの死を悲しみ、アラムの脅威におののくだけでした。

あなたも、もし信仰のある人の恩恵を受けて、やっと自分の信仰を保っているのであれば、あなたはヨアシュ王と同じです。あなたが頼っていた人(牧師、伝道師、信仰の先輩など)があなたから取り去られるとき、あなたの信仰は崩れ始めるでしょう。サタンは、「神を信じることを止めれば、いいことがあるよ」と誘惑してくるでしょう。あなたは、主を知らず、神を否定して生きていた時の状態に戻り、ヨアシュ王が一生涯、アラムに悩まされたように、信じなかった頃に、あなたを悩ませていた問題に、再び、そしてずっと悩まされ続けるようになることでしょう。

このように、人を介して恵みを受ける信仰は、最後には消滅してしまいます。
人を介してではなく、わたしが主との個人的な関係を持つこと、主に心から悔い改め、心を新しくされること、つまり新生をすることが一番緊急で、重要なことです。主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて 愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。(2歴代16:9)

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今から約2000年前、キリストは預言されていた通り、死んで3日後に復活し、ご自身が神であることを証明されました。神がおられるのですから、その方を無視して生きることは、神があなたを造られた目的を知らずに生きることを意味します。どうか、神を知り、神に生かされる確かな人生を歩んでください。そのために、聖書を学び、神について、自分について、知ることを始めませんか?