第2列王記16章、第2歴代誌28章「ユダの王アハズ、敵国の力に恐れおののき、敵が拝む神に助けを求めた。そのため主の怒りが下り、ユダは外敵からさらに激しい攻撃を受けることになった。このことから、困難の中にあるとき、一番肝心な心がけは何かを考えた。」

ウジヤの子、ヨタムの子、ユダの王アハズヤ

彼は、自分が王になるやいなや、アラムやアッシリヤの強力な戦力を恐れた。そして、父ヨタムがイスラエルの神に忠実に歩んで、国を強固にしたことを、祖父ウジヤの名声と転落を、見聞きしていたにもかかわらず、敵を強大にしている彼らの神に頼った。彼は拝む対象が多ければ多いほど効果があると考えた。

  1. レマルヤの子ペカの第17年に、アハズは20歳で王となり、16年間王であった。2列王16:2、2歴代28:1

アハズは偶像を拝んだ。主の祭壇をダマスコにあった祭壇と置き換えた。

  1. 彼は、バアルのために祭壇を造った。(2歴代28:2)
  2. 自分の子供を火の中にくぐらせた(異邦人の宗教儀式)(2列王16:3/2歴代28:3)
  3. 高き所、丘の上、青々と茂った木の下(繁栄のしるし)でいけにえをささげ(神々に贈り物をするため)、香をたいた。(神々に祈りを届けるため)
  4. ダマスコで見た祭壇と同じ物を造らせ、神殿の前にあった祭壇とすりかえた。
    もとからあった祭壇を北側に移動して、造った祭壇を神殿の正面に置いた。人々の捧げ物を、この祭壇の上で焼いて煙にし、全焼のいけにえの血、その他のいけにえ血を、この祭壇に注ぐように命令した。(2列王16:10~15) 
    これは律法に違反する行為、神の定めを破る行為
    他国の神とイスラエルの神の礼拝方法を混ぜ合わせて、イスラエル神への新しい礼拝方法を作り上げた。
  5. 洗盤を台からはずして、ささえの牛も取り除いて、敷石の上に置いた。(2列王16:17)
    使いやすくしたのか?

観察2、アハズは神の怒りを買った。主はユダに敵が攻めてくるようにされた。

これは、主がユダの王アハズのゆえにユダを低くされたためであり、彼がユダでほしいままに事を行ない、主に対して不信の罪を犯したからである。(2歴代28:19)

  1. アラムの王レツィンの攻撃(2列王16:5/本拠はダマスコ) 北東から
  2. イスラエルの王ペカの攻撃(2列王16:5、2歴代28:5~15) 北から
    ペカはイスラエルの父祖の神主を捨て去っていた(2歴代28:6)

    1日のうち12万人の勇者たちを殺す。ユダの女たちと男女のこども20万人、多くの分捕り物をサマリヤに連れて行った。
    しかし、イスラエルの預言者オデデやエフライムのかしら達の反対があり、捕虜たちを丁寧に扱って、エリコに連れ戻した。
    イスラエルの王ペカは戦いに勝利したが、得るものはなかった。
  1. エドムの攻撃(2歴代28:17) 南から
    ユダを打ってとりこにした。
  2. ペリシテ人の攻撃(2歴代28:18) 西から
    ネゲブ、ベテシェメシュ、アヤロン、ゲデロテ、ソコ、ティムナ、ギムゾをとって住む。
  1. アッシリアの王 ティグラテ・ピレセルによる攻撃(2歴代28:20~21) 東から
    アッシリヤに金銀を送って、アラムを打ってくれるように頼む。(2列王16:7~9)

    アッシリヤの王はアラムを攻め、アラムの王レツィンを殺した。アッシリヤとユダは一時的に平和であった。
    しかし、アッシリヤの攻撃は再開した。ユダが彼らに送った捧げ物は役に立たなかった。

主はあらゆる方向から敵を起こされた。そしてユダを悩ませた。これは、アハズの不信仰が原因であった。

主がアハズを悩ませたとき、彼はますます主に対して不信の罪を犯した。

アッシリヤの王が彼を悩ましたとき、このアハズ王は、ますます主に対して不信の罪を犯した。 彼は自分を打ったダマスコの神々にいけにえをささげて言った。「アラムの王たちの神々は彼らを助けている。この神々に私もいけにえをささげよう。そうすれ ば私を助けてくれるだろう。」この神々が彼を、また全イスラエルをつまずかせるものとなった。・・・
(2歴代28:22~25)

  1. 自分を打ったダマスコの神々にいけにえをささげた。(2歴代28:23)
    アラムの神々は彼らを助けている。その神々に自分も頼ろうと思った。
  2. イスラエルの神への礼拝を止めた。(2歴代28:24)
    彼は宮の器具を集めて、主の宮の戸を閉じた。
  3. エルサレムの町の至る所に、偶像のための祭壇を置いた。
    民がいつでも、偶像に供え物ができるため(日本の神仏やお地蔵さんのようだ)
  4. ユダの町という町に、神々に香を焚くための高き所を造った。
    神々に祈りの煙を届けるためであった。
  5. 彼が死んだとき、人々は彼を王達の墓には入れなかった。エルサレムの町に葬った。

アハズの父ヨタムは主に忠実に歩み、国は強くなった。アハズは父の業績を側で見ていたはずである。また、祖父ウジヤの名声を聞いていた。それなのに、なぜ彼は父のように主に頼ることをせず、偶像にたよったのか?最後には、主への礼拝を止めたのか?

彼は、父ヨタムが主に忠実であったこと。主が父の信仰を喜ばれて、国を強固なものにしてくださったことを見ていた。父は、町々を建て、森林地帯には城塞とやぐら築いた。(2歴代27:3~4)アモン人を打ったので、アモン人は毎年1万コルの大麦を持ってきた。父の治世で、ユダは勢力を増し加えた。彼も父のそばでこれらのことを喜んでいたはずである。また、偉大な祖父ウジヤの業績と、祖父が不信の罪を犯したため、不治の病に苦しんだことを、彼は聞いていたはずである。

ところが、彼自身が王座につき、ユダを治める立場になるやいなや、彼は他国の脅威に恐れおののき、おじけづいた。とても、ユダのような小国が、アッシリヤやアラムなどの強敵に勝つことはできないと思った。確かに、ユダは、北はアラム、東はアッシリヤ、南はエドム、西はペリシテの国々に囲まれており、侵略を受け続けていた。

アハズは、イスラエルの神を信頼することができなかった。なぜなら、イスラエルの神は、ユダの国をアラムやアッシリヤのように強くして、領土を広げさせることができないからだ。それで、彼は他国を助けている神々を取り入れて拝んだ。それも、多ければ多いほど効力があると思ったようで、町の至る所に、祭壇を築き、森には高き所を造って、民にいけにえをささげさせ、香を焚かせた。

しかし、このことが、主を怒らせることになった。彼は、イスラエルの神が、すべての国々を支配しておられる事実を知らなかった。どのように強大な国であっても、主の御手の中にあり、主の御心1つで、消え去る運命にあることに気づいていなかった。

つまり、イスラエルの神に力がないから、ユダが小国なのではない。ユダの王達が不信仰であったから、主が彼らを敵に攻めさせ、彼らを悩ませて、ユダに悔い改めを迫っておられたことがわからなかった。彼は悔い改めるどころか、かえってイスラエルの神に対して不信仰になり、他国の神々に頼るようになった。このことが、ますます、ユダの国を弱体化させる原因となった。
彼は、問題の原因を取り違えた。そのために、ますます自分を窮地に追いやる結果となった。

アハズは、他国を強大にしている偶像を拝んだ。主は、ユダを大国にできない力のない神だと思った。私たちも、人の成功だけを見て、主を信じる生き方に疑問を抱き、主を捨てて、信仰のない人の生き方に習うようになってはならない。

私たちは、見える宝をたくさん持っていることが、神に祝福されていることだと勘違いします。
成功者、富者が、自分の人生を左右する力があると勘違いして、その人たちを恐れます。
大金持ちになった人や大事業を立ち上げた人たちから、成功の秘訣を学んで実行しようとします。
また彼らに近づくことで、彼らの成功にあずかろうとします。彼らを尊敬するあまり、彼らの生き方、信条まで取り入れだしたら、主を否定するようになってしまうこともありえます。

しかし、これは大きな誤りです。見えない神こそ、この世の全てを支配しておられるお方だからです。
どのように力をもつ者であっても、主によって、一瞬にしてその立場は失われます。
ですから、クリスチャンは見えるものではなく、見えない神に頼るときに、一番安全です。

主は言われます。
「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがた に言います。この方を恐れなさい。」

ユダが衰退した本当の原因は、主への不信仰でした。異邦人の神に頼ったこと、また異邦人の王(アッシリヤ)に助けを求めたことでした。アハズ王は、敵がどれほど強大に見え、自分たちが弱小であっても、主に信頼して戦うべきでした。しかし彼は敵国の強大な兵力におびえ、主に対する信頼を失っていきました。
そして、あらゆる偶像に祈って助けを求めました。またあらゆる人間の知恵を使って、ユダを守ろうとしました。それが大金を送ってアッシリヤに援軍を頼んだことでした。

私たちも、自分の境遇に不満を覚えて、アハズのように主を否定するようになってはいけません。
主の祝福には、物質的なものと霊的なものがあります。この世の成功だけが主の祝福ではありません。
主に喜ばれる信仰が与えられることが、
私たちにとって一番大切な祝福です。
なぜなら、この世の楽しみには限りがあります。死ねばもはや楽しむことはできません。
しかし、
天国での祝福は永遠に続きます。そして、主に喜ばれる信仰がなければ天国に入れないからです。
私たちは、このことを覚えていきましょう。そして、主が自分の人生に今なされていることを、天国での命を含めた視点から見るようにしましょう。クリスチャンは、何が一番の宝であるかを見間違ってはいけません。
そして、この世で主の目にかなう歩みをしたいものです。最後にもっとも素晴らしい宝を永遠にいただこうではありませんか。

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今から約2000年前、キリストは預言されていた通り、死んで3日後に復活し、ご自身が神であることを証明されました。神がおられるのですから、その方を無視して生きることは、神があなたを造られた目的を知らずに生きることを意味します。どうか、神を知り、神に生かされる確かな人生を歩んでください。そのために、聖書を学び、神について、自分について、知ることを始めませんか?