ユダヤから来た人が異邦人に割礼を受けなければ救われないと教えた
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。
彼らは、信じた後もモーセの慣習を守り続けていました。彼らの勧めは、割礼を受けることだけにとどまりません。
割礼に始まって、律法全体を守ることに及びます。安息日、エルサレム神殿で礼拝をすること、動物のいけにえ、ユダヤ人と異邦人の区別は残り続けることになります。
パウロとバルナバは彼らと激しく対立した。
この問題をエルサレムにいる長老や使徒たちと話し合う必要が生じた。
15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
パウロとバルナバは律法に精通していた。しかし彼らは割礼は救いの条件ではないと教えていた。
だから、互いに激しく対立した。
エルサレム教会にも、パリサイ派で信者になった人々は、異邦人にも割礼を受けさせ、律法を守らせなければならないと主張した。
15:5しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言った。
ユダヤ教から回心した人々は、ユダヤからアンテオケに来て教えた人と同じ考えであった。
ペテロはパウロの意見に賛成した。7-11節
15:7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口か ら福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
15:8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
15:9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
15:11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」
ペテロは、異邦人コルネリオの回心に直接かかわった。7節
彼らも、ペテロたちと同じ聖霊を受けた。
そのとき彼らは割礼を受けていなかった。
律法は、父祖たちも自分たちも負いきれない重荷だった。10節
守ろうとしても、守れない現実に向き合うことになった。
なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。ローマ3:20
今や、異邦人とユダヤ人との差別は解消された。9節
神はアブラハムを選び、その子孫ユダヤ人だけにご自身を現わされた。
異邦人は、偶像を持ち込むため聖絶の対象であった。
しかしイエスが天に昇られて以降、今や異邦人もユダヤ人にも同じ聖霊が与えられた。このことから、神が異邦人とユダヤ人を同等に扱い、差別していないことがわかる。
神はユダヤ人も異邦人も信仰によって心を清めてくださった。9節
律法を守ることによるのではなく、信仰が与えらえることによって、
つまり聖霊が下ることによって、神は信者の心を清めてくださった。
今や、ユダヤ人と異邦人の区別なく、神のわざによって救われる。
ユダヤ人か異邦人か、律法を守るかどうかではなく、聖霊が与えられたか
聖霊を持たないかが救いの条件になった。
ユダヤ人も異邦人も主の恵みにより救われた。11
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。エペソ2:8-9ユダヤ人と同じように、異邦人たちも神の恵みにより救われた。
自分が決めて信じたのではなく、神から信仰を与えられた。
パウロとバルナバは、神が彼らを通して起こされた奇跡を話した
これは、神が救いにおいて割礼を必要としておられない証拠
15:12 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行なわれたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾 けた。
パウロ達の旅の途中、神の奇跡を起きて、異邦人たちが救われた。
これは、神が異邦人を割礼によらず、神の民とされておられる証拠である。
ユダも預言書からペテロの意見を支持した13-20節
15:15 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。
15:16 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
15:17 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。
15:18 大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』
15:19 そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。
15:20 ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。
15:21 昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。
異邦人を救うことを、神のはじめから計画されていた。15-18節
神は、はじめから異邦人を救うことを計画しておられた。
その証拠に、異邦人の救いについて預言されていた。
ヤコブはアモス9章11節を引用した。この聖句は、敵国に負けて、国を失ったユダヤ人たちにイスラエル王国の復興、ダビデの幕屋の再建を預言したもの。
しかしヤコブはこの聖句を、イエスへの礼拝が始まり、異邦人が救われることによって、神の国が完成する約束だと解釈した。
聖霊とエルサレム教会の決定 28―29節
偶像、偶像に備えられた食べ物、不品行、血を食べないこと。
異邦人はこれらを守るだけでいい。割礼を受ける必要はない。
律法ではこれらの食べ物を食べることを禁じています。
ヤコブは、ユダヤ教からの改宗者たちと異邦人キリスト者たちとの間の平和のために、食事のきまりを守ることを提案しました。
しかし、これを守らなければ救われないのでありません。
ユダとシラスを選んで、パウロとバルナバとともにアンテオケに送った。
この決定を手紙に書いてアンテオケ教会に伝えた。
エルサレム教会は、パウロとバルナバを信頼している。
ユダヤから下って来た人の教えは間違っている。
異邦人は割礼を受ける必要はない。以下のことを守ればいい。
パウロはもう一度宣教地を訪問することをバルナバに提案した。
しかし誰を連れて行くかで意見が合わず、別々に旅をすることになった。
5:36 幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来 ようではありませんか。」
15:37 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。
15:38 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。
バルナバはマルコを連れて舟でキプロスに渡った。
15:39 そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。
マルコを愛するバルナバの思いが強かった。自分たちの故郷キプロス島に行った。
パウロはシラスを選んで、以前巡った地方に旅立った。第2回伝道旅行
15:40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。15:41 そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。
パウロの判断が教会の意向であったようだ。彼らは広く宣教地を巡った。
使徒の働き15章 考察
考察1 私たちは旧約と新約の命令の違いに混乱する。神が心変わりされたかのように思う。しかし神は変わることがないお方。よく注意してみると、両者の間に一貫した神の御心があることがわかる。
旧・新約に一貫する神のみこころ。
信者であることの「しるし」「区別」、未信者にはないもの。
イエス以前の信者のしるし=体の割礼
イエス以降の信者であるしるし=心の割礼
ユダヤ人も異邦人も、体に傷をつける必要はなくなった。
安息日 神を第一としなさい。神を愛しなさい。
イエス以前 神はモーセに啓示して守るよう命じた。安息日=「神の内に安息せよ」「静まって神を思え」と言う意味。安息=働かないという意味ではなかった。
ユダヤ人は守らなければ救われない生活のきまりにしてしまった。
イエスは 安息日は人のためにあると言われた。安息日の規定を破って人を助けた。
大切なことは安息日に労働をしないことではなく、神を愛する、隣人を愛する信仰だと言われた。
22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。マタイ22:36-39
いけにえ 罪のゆるしのために犠牲が必要である。
イエス以前 罪の赦しのために動物が捧げられた。
イエス以降 神であるイエスがささげられた。信者のいけにえは完了した。
礼拝 神が住まれる宮で拝みなさい。
イエス以前 エルサレム神殿でささげる礼拝が神に届いた。
この所でささげる祈りに耳を傾けよう。ソロモンへの啓示
イエス以降 信者が神の宮。聖霊を宿す。
エルサレムに限らず、どこでもいつでも礼拝できる。
考察2 信者は割礼を受けるべきかどうかは、信者の霊的自由を左右する重要な事柄だった。聖霊と教会が、信者は律法にしばられることがないと決定したことにより、霊的な自由が確保された。
私たちを霊的にしばっているのは何か。天国から遠ざけているものは何か。
それは、私たちが生まれつき持つ「罪」の性質。
「罪」を持ち「罪」犯さざるおえないために、私たちは神にさばかれる運命にあり、天国に入る望みが絶たれているのです。
律法は、信者に罪を意識させる。救いの希望から遠ざける。
律法が与えられたほうが、律法を持たないよりもさらに自分の罪深さを意識することになります。
律法を守ることによっては誰1人救われない。
信者は完全に律法を守ることはできません。
そのため、律法を守ることによっては、誰1人救われることはできません。
キリストによって、信者は完全に霊的に自由にされる。
キリストによる罪のあがない(清算)にあずかることで、信者は神のさばきから逃れることができるようになります。
信者は、罪人のままで、神のゆるしを受けて天国が約束されます。
神の恵みによって、私たちは霊的に完全に自由にされるのです。
考察3 私たちはもう一度、霊的に縛られた状態に戻ってはならない
救いの条件に、行いを少しでも加えるなら、霊的自由を失う。
律法を守らなければ救われないとするなら、たちまちにして信者は霊的に自由を失うことになります。誰も天国に入ることができなくなります。
これはユダヤ人と異邦人の両方に対して言えることです。
私たちは、信仰に行いを加えて救われようとしていないか。
教会の奉仕、献金、礼拝出席、人に親切にすること、助けることなど、
これらは良いことです。できればした方がいいことです。
しかし、これらの行為が救われるための条件になるなら問題です。
善行を行えない人は救われていないとは聖書に違反しています。
救いは唯一、主イエスによる罪のあがないにすがることによる。
いくら善行には励(はげ)んでも、自分の罪を自覚しない人や、自分の罪の贖い(あがない)主(ぬし)としてのイエスを信じないなら、その人は救われていません。
救いは神から与えられる恵み。神の恵みが与えられて信じた人は、自分や周りの状況によってゆるがされることがない救いの確信を持つことができる。
救いとは、聖霊が与えられて、心が変えられ、自分の罪を心から悔い改めさせられ、自分の救いを神に切実に求めることです。これが「新生」です。
行いによって、不信仰を補うことはできません。
私たちは主に心から救いを求め、主にすがるようにされるとき救われます。
そして、主の恵みによって救いが与えられた人は、霊的に自由にされます。
自分の罪のゆるしが与えられた確信、天国に入る確信が与えられます。
この確信は、自分の心の状態とか、良いことができた、できなかったなどに関係なく持ち続けることができます。
このような確信を持つことができる理由は、彼らに与えられた聖霊が、彼らの心に救いを保証しているからです。