- 1 Ⅰ 奇跡をきっかけに始まった説教で、約5000人が信じた。 困ったパリサイ人たちが、ペテロとヨハネを牢屋に入れた。
- 2 Ⅱ ペテロ、指導者、長老、学者たちに説教する。
- 3 Ⅲ 捕らえられたことがきっかけとなり、ペテロは民の指導者、 長老たち、大祭司一族に説教する機会が与えられた
- 4 Ⅲ 長老たちは2人をおどした上で釈放した
- 5 Ⅳ 感謝の祈り、一同は聖霊満たされた
- 6 Ⅴ 信者たちは、思いを1つにし、持ち物を共有していた
- 6.1 考察1 弁明が必要なとき、聖霊に満たされる。 聖霊が語るべきことばを与えてくださる。
- 6.2 考察2 信仰は、聖霊のバプテスマを受けることではじまる。信じて洗礼を受けていても、聖霊を受けていなことがある。
- 6.3 考察3 信仰告白と、聖霊を受けることに関する誤解について。
- 6.4 考察4 教会は、信じることを勧めるときに、聖霊のバプテスマを受けることについて正しく伝えていないのではないだろうか。だから、信仰を途中で止める人、自分勝手に信じる人、正しく信じる人を攻撃する人がたくさんいるのではないか。
- 6.5 考察5 私たちは、どのようにして聖霊が与えられたことを知るのか。
- 6.6 考察6 聖霊によってバプテスマされた人は、力が必要なとき、聖霊に満たされた。私たちも同じことを期待していい。
Ⅰ 奇跡をきっかけに始まった説教で、約5000人が信じた。
困ったパリサイ人たちが、ペテロとヨハネを牢屋に入れた。
4:1 彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、
4:2 この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、
4:3 彼らに手をかけて捕えた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
4:4 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。
足なえをいやしたことをきっかけに、ペテロが神殿で説教をしました。その日、約5000人のユダヤ人たちがイエスを信じました。そのため、ユダヤの教師たちはペテロたちを捕らえて牢に入れました。
<祭司たちが2人を捕らえた理由>
- イエスの死と復活は、イエスが神である明確な証拠。
祭司たちも反論できない。イエスを神と認めざるを得ない。 - 弟子たちは、民衆に教えを広め続けるなら、イエスを信じる人が増え続け、民衆が自分たちから離れて、弟子から教えを受けるようになる。
- 人々が、自分たちの教えを尊重しなくなれば、自分たちは無用な者になる。
Ⅱ ペテロ、指導者、長老、学者たちに説教する。
4:5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。
4:7 彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。
4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、
4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者 の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
Ⅲ 捕らえられたことがきっかけとなり、ペテロは民の指導者、
長老たち、大祭司一族に説教する機会が与えられた
ペテロは、祭司長たちに質問された時、聖霊に満たされて語った。
彼は、聖霊によって力づけられ、聖霊から言葉を与えられて語りました。
イエスはこのことを預言しておられました。
12:11 また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。
12:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。ルカ12章
★考察1参照 弁明が必要なとき聖霊に満たされる。聖霊が語るべきことばを教えてくださる。
Ⅲ 長老たちは2人をおどした上で釈放した
4:13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
4:14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。
4:15 彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。
4:16 彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。
4:17 しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」
4:18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。
4:19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
4:20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
4:21 そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。
4:22 この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。
祭司長たちは、イエスの名がこの男をいやしたことを認めざるをえなかった。14-16
いやされた男はなんと40歳すぎでした。彼は生まれてからずっと足なえでした。その事実を、たくさんの人々が知っていました。ですから、イエスの名による祈りが、彼をいやしたことは明白な事実でした。祭司長たちは、このことを否定することはできませんでした。14-16
奇跡を行い、旧約聖書から神について論じている伝道者が、無学な漁師たちであることに驚いた。13
弟子たちが、イエスが「メシヤ」であることを、旧約聖書を引用して証明する説教に、祭司長たちは反論することができませんでした。なぜなら彼らの言い分は、もっともだったからです。彼らが言うように、イエスの十字架と復活が、預言たちが預言していたメシヤの姿であったからです。
彼らが無学な人たちであるのに、なぜ神の奥義を語ることができるのかと、祭司長、律法学者たちは不思議に思いました。これも、神の奇跡によるものか・・・と思われました。
祭司長たちは、イエスを神だと認める信仰が広まることを恐れた。17-18
人々が弟子たちの奇跡を見て、彼らを指示していたので、祭司長たちは彼らを殺すわけにはきませんでした。民の反感を買うことになるからです。そこで、これ以上語ると罰を与える(殺すことも暗示)とおどしてから、彼らを解放しました。
しかしペテロたちは、彼らのおどしに負けなかった。
これからも語り続けると言い残して立ち去った。19-20
彼らは、「死のおびやかし」も恐れることがありませんでした。
イエスの受難の時、いっせいに逃げてしまった彼らでしたが、聖霊を受けた後は、全く変えられています。
Ⅳ 感謝の祈り、一同は聖霊満たされた
4:23 赦された二人は仲間の所に行って、(最高法院の)大祭司連や長老たちが言ったことを報告した。
4:24 聞くと彼らはいっせいに、神に向かって声をはりあげて祈った、「主よ、』あなたは、天と地と海とそれらの中の一切の物とをお造りになりました。』
4:25 あなたはわたし達の先祖、あなたの僕ダビデの口をもって、聖霊により、こう言われました。『なにゆえ異教人らは騒ぎたち民どもは空しいことをたくらむのか。
4:26 地上の王たちは勢ぞろいをし主権者たちは一緒に集まって主とその(油注がれた)救世主とに反抗する。』
4:27 (そして、この預言は成就しました。)実際ヘロデ[アンテパス](王)と(総督)ポンテオ・ピラトとは』異教人らや』イスラエル人の『民ども』と共に、 『あなたに油を注がれて(救世主として聖別された、』あなたの聖なる僕イエスに敵対してこの(エルサレムの)都に『集まり、』
4:28 あなたの力強い御心をもって実現しようとあらかじめ定められていたことを、なしとげたからであります。
4:29 だから、今、主よ、彼らの(わたし達に対する)おどかしをよく御覧ください。そして出来るかぎり大胆に御言葉を語る力を、(わたし達)あなたの僕どもにさずけてください。
4:30 御手をのばして、あなたの聖なる僕イエスの名のゆえに、癒しや徴や不思議なことを行わせてください。」
4:31 こう彼らが祈りおわると、(たちまち)集まっていた所が揺れ、だれもかれも聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語った。
信者たちは「神の奥義」を知っていた。
これは、彼らた復活したイエスから直接教えられたことの証拠といえる。
- イエスはこの天地を創造された神である。24
今まで自分たちが神と呼んで祈っていた方は、イエスであった。 - メシヤを殺す役割は、異邦人の為政者「地上の王たち」と、神が忌み嫌うユダヤ人たちが行う。このことは預言されていた。25-28
預言の通り、ユダヤ人ヘロデとローマ人ピラトは、祭司長、律法学者たちの訴えを受け入れて、エルサレムでイエスを十字架に掛けて殺した。
このことを、ダビデは預言していました。
王や権力者、異邦人たちがメシヤに敵対する(詩編2章1、2節) - イエスの死は、神の永遠の昔からの計画が成就した出来事だった。28
神は、悪者たちですら、神の計画を実行するために用いる。
彼らがイエスを殺すことで、イエスによる救いの道が完成した。
大祭司たちが使徒たちを迫害することで、福音への関心が広まる。
信者たちは神をあかしていくために、神の助けを祈った。
おびやかしに屈することなく大胆に語る力を与えてください。
イエスを主と知らせるために、奇跡を行わせてください。
彼らの願いは、イエスがあがめられること、イエスを知らせることでした。
自分があがめられるとか、金持ちになるとか、自分の命の安全を願ったのではありませんでした。ここに、私たちが見習うべき祈りの本質があると思われます。
祈った人は1人残らず、聖霊に満たされた。
- そのとき、集まっていた所が揺れた。
(初代教会に見られる、聖霊が力強く信者に臨むときの特徴)
ペンテコステの日に聖霊が初めて信者たちに降ったときは、風のような音がして、地響きが起こり、信徒たちに降りました。このときも、地震のように地面が揺れて、聖霊が信者を満たしました。(信者たちには、すでに聖霊与が与えられています。ですから、この時は「聖霊に満たされた」と表現されています。 - 祈っていた人が、1人残らず聖霊に満たされた。
- 満たされた彼らは、大胆に神の言葉を語った。
★考察2 聖霊を受けることについての考察
★考察3 聖霊の初臨と満たしのちがい
Ⅴ 信者たちは、思いを1つにし、持ち物を共有していた
4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
信者たちは信仰において、完全に一致していた。同じ神観を持っていた。
「心を1つにすること」は、信仰が1つであることによって生じます。
信仰が違えば、心は決して1つになることはありません。
確かに、外側の一致は、ある程度人間の努力によって実現することができます。
しかし、ここではそういうレベルの一致ではなく、内面の一致、つまり信仰の一致から自然と生まれる、助け合いや、互いに対する愛があったということです。
彼らは大胆に神の奥義を語った。世と妥協することはなかった。
彼らは、聖霊から教えらたこと、イエスから教えられた教えにとどまりました。
この世の哲学や常識に妥協して、福音をうすめることはありませんでした。
信者の助け合いは、霊的なことだけではなく、物質的なことにまで及んだ。
全ての人が、自分の財産を金に換えて、使徒たちのところに持ってきました。
そして全てを共有にしていました。富んでいる者の財産は、それぞれの必要に応じて分け与えられました。だから、貧しい者が1人もいなかったと言われています。
この当時、信者になることは、社会から拒絶されることを意味したと思われます。
キリストを信じると、仕事を失う、家族関係を絶たれる、住んでいる場所を追い出されることなどが起きたのでしょう。だからこそ、信者のコミュニティーを作り、助け合って生き延びることが絶対に必要であったと思われます。
<使徒の働き4章 考察>
考察1 弁明が必要なとき、聖霊に満たされる。
聖霊が語るべきことばを与えてくださる。
ペテロが指導者たちに、尋問されたとき。使徒4:8
ペテロの説教を聞いて、彼が無学な者だとわかった祭司長たちは驚きました。
彼の説教に説得力があったからです。
考察2 信仰は、聖霊のバプテスマを受けることではじまる。信じて洗礼を受けていても、聖霊を受けていなことがある。
考察2-1信者は、聖霊を与えらえた人。聖霊を持たない人は信者ではない。
このことを証明する聖句
キリストの御霊を持たない人は、 キリストのものではありません。ローマ8:9
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が 一つの御霊を飲む者とされたからです。1コリント12:13
考察2―2イエスについて聞くことなしに聖霊は降らない。
聖霊を受けた人たちは、神の国について聞いていた。
- ペンテコステの日の弟子たち。
信者たちは神の国についてイエスから教えられていた。聖霊を待つように指示を受けていた。使徒1:5 - ペテロの説教を受け入れた300人。
ペテロの説教を受け入れた300人がバプテスマを受けた。使徒2:41 - ペテロの説教を聞いたコルネリオと集まった人たち。
説教を聞いていた異邦人に聖霊が降った、そこで水の洗礼を施した。使徒10:44
シモンとその家族が話始めると、聖霊があの最初のときのように彼らの上に下った。使徒11:15-16:
考察2-3信じたが聖霊を受けていない人がいた。
だから、聖霊のバプテスマについて知らせなければならない。
アポロの伝道で信じたエペソの人たち
アクラとプリスカは、エペソに来たアポロに神の道を説明した。
彼は、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。アポロはその後アカヤ地方へ行った。使徒18:24-28
アポロがコリントにいた間に、パウロはエペソに来た「信じたとき聖霊を受けましたか」信じた者が聖霊のバプテスマを受けていなかった。ヨハネのバプテスマだけだった。
彼らは、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。そしてパウロが手をおいたとき聖霊が降った。使徒 19:1–6:
彼らが聖霊を受けていなかった理由は、聖霊について聞いていなかったから。
伝道者が「聖霊のバプテスマ」について伝えていなかった。
伝道者アポロは「ヨハネのバプテスマ」しか知らなかった。
そのために、エペソの信者たちは、イエスを信じていたけれども、聖霊について聞いていなかった。
ヨハネのバプテスマとは、
「ヨハネのバプテスマ」は、律法によっては決して義とされていないことに同意した「しるし」として受けるもの。この心の状態が、行いではなく信仰による救いを待ち望ませることになります。罪を完全にゆるすことができる「メシヤ=救い主」を受け入れる心の準備のためのもの。
イエスの御名によるバプテスマとは、
イエスを救い主と信じ、イエスの流された血と裂かれた肉体による罪のゆるしに預かる信仰の「しるし」として受けるもの。聖霊のバプテスマによって、キリストと1体とされたこと、キリストの支配の中に入れられたこと、キリストの内住が与えらえ、心が新しくされたことを、人々に知らせるための儀式。
考察3 信仰告白と、聖霊を受けることに関する誤解について。
考察3-1信仰を告白して洗礼を受けることで、聖霊が与えられるのではない。
私たちは聖霊を受けなければ、救われる信仰告白することはできない。
洗礼を受けたら、その後に聖霊を受けるとか、洗礼と同時に聖霊がくだると言う教会があります。
洗礼が聖霊を招くという考えですが、聖書はそのようには語っていません。
聖霊を受けて、誠の信仰告白をした人が、イエスが信者に施すように言い残した洗礼を信者に施す。
そして、信仰告白と聖霊を受けることとは切り離せない関係にあり、聖霊によらなければ私たちは救われる信仰告白をすることができないのです。
考察3-2信じること、聖霊を受けることについて誤解がある。
「信じる」とは、聖書に書かれた「神の奥義」を心から愛する信仰の告白をすること。
自分中心、自分に都合よくアレンジした信仰の告白ではない。
「聖霊を受ける」とは、心が全く新しくされること、その結果、聖書の全ての個所においてアーメンと言えるようになること。自分の罪の現実を知って、愕然とすること。そして神のさばきに恐れおののくこと。
異言が出たとか、体が暖かくなった、涙が出たなどの、身体的、感情的なしるしがあったことで、聖霊を受けたと判断することは間違っている。。
内的な心の劇的変化があったこと。これが聖霊を受けたことの一番の「しるし」。
この「しるし」を人は見ることはできない。しかし受けた人は、はっきりとそれを知っている。聖霊を受けるとはそのようなことです。
考察4 教会は、信じることを勧めるときに、聖霊のバプテスマを受けることについて正しく伝えていないのではないだろうか。だから、信仰を途中で止める人、自分勝手に信じる人、正しく信じる人を攻撃する人がたくさんいるのではないか。
異言が出れば、聖霊のバプテスマを受けたのだとか、それは、教職者から按手をで受けた時に与えられるものだとか、水の洗礼を受けたとき、その瞬間に聖霊が自動的に与えられているのだとか、教会によってさまざまな判断があります。しかし、このようなことで、聖霊を受けたとは言えません。聖書はそう言っていません。
「心の割礼」を受けていない信仰告白で、上記のようなことを行っても、聖霊を受けてはいません。洗礼や異言は、聖霊によって心が新しくされた人が、「しるし」として受けるものだからです。
考察5 私たちは、どのようにして聖霊が与えられたことを知るのか。
考察5-1救いの確信が与えられること。聖霊は救いの内的確信を与える。
なぜなら聖霊は、神からの救いの保証として与えらえるものだからです。
<このことを証明する聖句>
救いの福音を聞き、信じたことにより聖霊の証印を押された。エペソ人への手紙 1:13
1:21 私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。
1:22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。IIコリント1:21,22
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。エペソ4:30
考察5-2真理がわかるようになる。聖書の全てのことばを受け入れる。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。ヨハネ16:8
罪についてとは、
自分が、罪びとだということがわかる。さばかれる運命にあることがわかる。
良い行いの中にも、良くない動機がひそんでいること、思いの中で罪を犯していることを悲しむようになる。
義についてとは、
イエスが義であって、自分には義はないことがわかる。
イエスの仲裁が無ければ、自分は天国に入れないことがわかる。
さばきについてとは、
神のさばきが正しいこと。人はさばかれて当然だということがわかる。
今の時代が正しいとすることは、間違っていることがあるとわかる。
考察5-3 信仰を保持する力、伝道する力が与えられる。
力の付与出て行って「伝える者」になる。
反対や迫害、信仰によって貧しくなることがあっても、信仰を持ち続ける。
考察6 聖霊によってバプテスマされた人は、力が必要なとき、聖霊に満たされた。私たちも同じことを期待していい。
ペテロが神殿で群衆に説教したとき、長老たちの前で、尋問を受けたとき、
彼は聖霊に満たされて、大胆にみことばを語ることができました。
4章では、信者たちが、おびやかしに負けることなく語ることを願ったときも、聖霊がア彼らを満たして力を与えました。このことから、信者は必要なとき、聖霊の満たしを受けることがわかります。
ですから、私たちも同じことを期待していいのです。
自分たちの信仰について弁明しなければならないとき、迫害を受けるとき、伝道のとき、聖霊の満たしを受けて力が与えられると期待していいのです。この真理は、私たちを大いに励ましてくれます。