ステパノは議会の前に立たされた。
当時の議会について
- ローマ時代,ユダヤ人の司法・行政・宗務を受け持った最高自治機関。
- 大祭司を長とし、その下に70人の議員から構成された。
議員は2種類の人で構成された。
サドカイ派を代表する貴族祭司(祭司長たち)と長老。
- 裕福な貴族階級に属し、祭司となった人たち。
- 彼らの関心は政治。ローマの支配下で彼らとうまく関わろうとしました。
- 聖書の権威を重んじたが、死後の復活、報酬、さばきを否定しました。
エルサレムが破壊されたとき、彼らも消滅しました。
パリサイ派を代表する律法学者。
- 中級階級の商売人。庶民から支持されました。
民衆の支持を背景に,議会での彼らの勢力はしだいに増大しました。 - 少数派だったが、議会では彼らの意見が通った。民衆に人気があったから。聖書は神の霊感によって書かれたことを認めましたが、自分たちによるモーセ律法の解釈(口述伝統)に聖書以上の価値を置きました。
- 神の摂理(国家や個人)、死者の復活を信じました。
- ユダヤ人が信仰を続けるために重要な書類ミシュナ(口伝律法を集大成し文書化)の編集に力を尽くしました。
ステパノは、ユダヤの国の歴史を語った
これらは旧約聖書に書かれていて、議会の人たちも承知していた
アブラハム
アブラハムに神が現われて言われた。
「あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがたに示す地に行け」3
アブラハムはカルデヤの地を離れ、父が亡くなるまでハランにいた。4
父の死後、神はアブラハムを今の地に移した。4
「この地を彼と彼の子孫に与える」と、子のない彼に神は約束した。5
「彼の子孫は外国に移り住み、400年間、奴隷にされ虐待される。」6
「彼らを奴隷にする国は私がさばく。彼らはのがれ出て、この所で私を礼拝する」と言われた。7
神は、アブラハムに割礼の契約を与えた。(神の民である肉体のしるし)8
イサク
高齢のアブラハムとサラに、神の奇跡によってイサクが生まれた。8
イサクにヤコブが生まれた。8
ヤコブと12人の子供たち、エジプトでの苦難。
兄弟がヨセフをねたんでエジプトに奴隷として売った。9
ヨセフはエジプトで大臣になった。イスラエルで大きなききんがあったとき、ヨセフは父と親族75人をエジプトに呼び寄せ、民は増え広がった。10-16
ヨセフのことを知らない別の王が王位につくと、彼はユダヤ人たちが自分たちよりも数が多くなり、力を持つことを恐れて、彼らを虐待し、幼子を殺させ、苦役で苦しめた。17-19
モーセと出エジプト。
パロの娘に拾われて、エジプトで高等教育を受けた。20-22
同胞を助けるためにエジプト人を殺したが、同胞の反感を買う。王に殺されることを恐れてミデヤンの地に逃げた。(40歳ころ)23-29
それから40年後、民を救い出す召命を受けて、エジプトに下り、不思議なわざをたくさん行って、民をエジプトから導き出した。(80歳ころ)30-36
「わたしはあなたの父祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。」
「わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめきを聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。35
荒野に住んだ父祖たちの罪。 彼らはモーセにさからった。
父祖たちはモーセにさからって金の子牛の偶像を造った。
イスラエルの指導者たちと異邦人との闘い。
父祖たちのためには、あかしの幕屋があった。
幕屋を受け継いだ指導者たちは、異邦人たちを追い払って、この地を占領した。
ダビデ、ソロモンと神殿建築。しかし礼拝は神殿に限定されない。
ダビデが思い立ち、ソロモンが神殿を建てた。しかし、神は人が造った家には住まない。神は1つの場所に限定されない方。
7:49 『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、 どこか。
7:50 わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。』
神に仕える立場のパリサイ人、サドカイ人たちが
神のしもべを迫害し殺してきたことを、ステパノは責めた
あなた方はモーセに聞き従うと言うが、モーセのことばにさからっている。
7:37 このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。』と言ったので す。
7:38 また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。
モーセはイエスの出現を預言していた。
イエスのことを「私のようなひとりの預言者」と言った。37
「モーセはこの方に聞き従いなさい」と言った。 ( )
しかし、あなた方議員たち(サドカイ人たち、パリサイ人たち)は、イエスを殺し、モーセのことばにさからった。
荒野でモーセに反抗して偶像を造った父祖たちと同じ罪を犯した。
あなた方(議員の方々)は、神に逆らう人たち。51
7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
あなた方は、体に割礼を受けていても、心に割礼を受けていない。
神に聞き従わない、かたくなな人たち。あなたがたは神にさばかれる。
あなた方はメシヤを裏切る、殺す人たち。52
7:52 あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがた が、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
あなたがたの父祖たちは(祭司たち、律法が学者たちの先祖たち、ユダヤ教で権威を持つ人たち)に迫害されなかった預言者はいない。預言者たちは皆あなた方の父祖たちに迫害された。52
あなた方の父祖たち正しい方(イエス)が来られることを前もって語った人たち(預言者たち)を殺した。
今は、あなた方、議員の方々が、正しい方(イエス=メシヤ)を裏切る者、殺す者となったのです。
あなた方は厳格に律法を守っていると言うが、律法に違反して人殺しをする。
あなたがたは律法を守ったことはない。53
7:53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。
議員はねたみにかられて正しい人イエスを殺した。彼らの祖先たちも、神が遣わした預言者たちを殺してきた。だから、彼らは律法を守ることを人々に教えるが、自分たちは律法を守っていない人たちなのです。
これらの言葉を聞いた人々は、はらわたが煮えくり返る思いで
ステパノに怒りを燃やした
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
議員たちは自分たちの罪を示されて悔い改めるどころか、自分たちの罪を指摘するステパノに怒りを燃やしました。そして、ステパノの口をふさぐこと、つまり彼を殺すことを求めました。
ステパノは、イエスが神の右の座にいるのを見た
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
神は、殺されようとしているステパノを勇気づけてくださいました。
ご自身が、天で神の右に座しておられる姿を彼に見せてくださったのです。
それを見たステパノは、イエスによる救いのわざが完成したことを知りました。今や、イエスは自分たちの魂の仲介者として、神にとりなしてくださる。だから、自分は天国に入る確信を持って死ぬことができる。イエスのもとで永遠にいこうことができる喜びに満たされたのでした。
人々はステパノを町の外に追い出して、石打ちにして殺した
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。
一方、人々はステパノのことばを否定し、耳をふさいでかれに殺到しました。
彼を町の外に出して、そこで石打にしました。
ステパノは主を呼んで眠りについた
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
石打にする人への「神のゆるし」を願った
自分は救われた。死んでも天国に行ける。しかし、自分を石打する人々はそうではない。彼らはクリスチャンを殺すという罪を加えている。イエスを信じない彼らが、将来に受けるさばきの重さをステパノは知っていました。自分の死よりも、彼らに下る神のさばきの恐ろしさを心配したのです。そして迫害する者のためにとりなしの祈りをしました。
魂の平安な最後 眠りについた
自分の魂の行先を知っている人の死にざま。
ステパノは、この世の労苦から解放されて、イエスのもとに行きました。
キリスト者の死は、人生の最後でも、ただ悲しいものでもありません。
それは、神のもとに帰ること、そこで永遠に生きることを意味します。
ですから、「石打ちにされる」という恐ろしい死に方でしたが、彼の心は安らかでした。
キリスト者は、罪のゆるしが与えられ、もはや神にさばかれることなく、死後御国において復活します。ですからキリスト者には「死のとげ」は、完全に抜き去られているのです。
ステパノの死を、聖書は「眠り」と表現しました。
眠りはさめる時が来ます。ステパノは、この世で眠った後、次の世で目覚めるからです。
使徒の働き7章 考察
考察1 神のしもべを殺した人は、祭司や律法学者たちだった。彼らは教師たちのことばを聖書よりも重んじ、先祖から続けられたユダヤ教の慣習や制度を大切にした人たちだった。
真理に従って神への礼拝や奉仕を変えるより、たとえ真理ではなくても今までの宗教的伝統や慣習を変えないことを望んだ。
彼らにとって一番心地よいのは、以前と変わらずに人々が信じ、行うことでした。彼らは真理が自分たちに何を要求しているかなどどうでもよかったのです。彼らは、ただ変化を嫌いました。
伝統のもとで確立された、宗教者としての地位を手放せなかった。
祭司たち教師たちは、教師としての立場を使徒たちに取って代わられることがゆるせなかった。真理が彼の立場やプライドを捨てるように示していても、彼らは従えなかった。
彼らは厳格に律法を守っていた。自分たちは聖いと思っていた。
だから、彼らはイエスによる罪のゆるしの必要を感じませんでした。
彼らはイエスなしで天国にいけると確信していました。
彼らは真理を聞くことを拒絶した。耳をふさいだ。
真理を聞けば、悩まなければならない。悔い改めを迫る思いが来る。
だから彼らははじめから聞かないことを選んだ。
彼らは語る者の口を閉じさせた。語る者を殺した。
語る者がいなければ、聞かなくて済みます。そのため、真理を語る多く神のしもべが殺されました。
考察2 上記のことは、伝統宗教に関わる祭司たちや信者たちすべてに当てはまる。彼らにとって真理はどうでもいい。ただ慣習を変えたくないだけ。
たとえ真理が知らされても、彼らは耳をふさぎます。自分たちが慣れ親しんだ神への礼拝を続けたいからです。自分たちに与えられた宗教的な役割を失いたくないのです。それが彼らの本音です。
このような人に、真理を解き明かしても時間の無駄です。
伝統宗教で役割が与えられている人は難しい。
イエスへの信仰が与えられたのは、ユダヤ教での宗教的立場を持っていなかった、漁師たちや民衆たちでした。どちらかといえば、彼らは日々の暮らしに忙しくしていて、律法には無関心で、厳格には守っていませんでした。だから、彼らには、伝統宗教へのしがらみはありませんでした。ですから真理に出会ったとき、すぐについていくことができたのでした。
伝統宗教の慣習を守れる人。自分は聖いと思う人は難しい。
その宗教が決めた役割を果たすことができ、良い行いができていると満足している人ほど、イエスを信じることは難しいでしょう。彼らはイエスによる罪のゆるしの必要性を感じないからです。
しかし、どのように困難と思える人でも、神には救うことがおできになります。私たちはこの前提に立って、福音を語り続けなければなりません。
考察3 議員たちが自分を殺す権威を持つことを恐れることはなく、彼らの罪を指摘したステパノ。迫害に会うときの模範を彼のうちに見ます。
あなたは、ステパノのように、イエスへの信仰を保つために死ぬ覚悟があるでしょうか。それとも、危機的な状況では、福音を偽って命を得ようとするでしょうか。
ステパノもパウロも、神のしもべはみな、前者でした。
あなたは天国の存在を本当に信じているでしょうか。
天国は人間の想像の世界で実在しないけれども、死に際して、落ち着いて、安らかにに死を迎えるために、役にたつものだと思っているのではないでしょうか。
使徒たちは、イエスの復活を見、本当に次の世があることを確信していました。ですから死を恐れませんでした。
あなたは、イエスの十字架と復活の事実に基づくものだということを忘れてはいないでしょうか。
他の宗教の神や来世は人間が考え出した産物です。しかし、キリスト教は違います。イエスが復活した事実が、この信仰の土台です。ですから、聖書に書かれた「罪のゆるし」「永遠の命」の約束は本当に実現すると確信できるのです。
救われた者は、さばきの座で、イエスが神にとりなしてくださる。
あなたは救われていますか。天国に入れてくださる神の約束を確信できますか。
天国は、私たちの想像をはるかに超えて素晴らしい世界。
この世は天国に行きつくまでの旅路。天国こそ私たちのゴール。
この世が全てではない。この世の宝を得ることだけに生きてはならない。
長生きしたい人は多くいます。おいしい食べ物があり、たくさんの楽しみがあるからです。しかし天国は、この世をはるかに超えてすばらしい世界です。死も病も罪もない所です。私たちはこの世のすばらしさに魅せられて、天国を待ち望むことを忘れがちです。天国こそ、クリスチャンが生きるにふさわしい場所です。この世での暮らしはその途上に過ぎません。だからこそ、天国にあこがれつつ、神に喜ばれる歩みをしていきたいものです。神の国を第一とする生き方を貫きたいものです。
終末の時代を生きる私たちは、これらのことを心にとめておかなければなりません。なぜなら、いつ世の情勢が変わって、クリスチャンへの迫害が起きるかもしれないからです。花婿が来た時、灯を絶やした乙女たちは、婚宴の席に着くことをゆるされませんでした。
私たちは、この乙女たちのようになってはいけません。たとえ悪い時代であっても、神の約束を信じて疑わず、最後には神の安息に入る者となるためです。