- 1 神からの報酬は人間の功績が生み出すという考えに反論する
- 2 信仰にとどまる、信仰を捨てることも神による
- 3 人間に善をなす能力がないのなら、戒めは無駄だという考えに反論する
- 4 勧告は何のためにあるのか 従わないなら勧告は無駄ではないかという意見に反論する
- 5 人間は律法の要求を完全に守ることができない
- 6 人間の内に律法を守る能力があるとするのは誤りである
- 7 なぜ、神は人間が守れない戒め(律法)を神が与えたのか
- 8 律法を守れない人間をさばく、神は不当だという考えに反論する
- 9 反対者が引用する聖句について反証する
- 10 善を選び実行することにおいて、 神が主体的に人に働きかけ、人は受動的であることを証拠づける聖句
- 11 人間の義が善を行うとする考えに反論する
- 12 結論:生まれつきの人間は自ら善を欲することも行うこともできない。善い行いをしたとしても、それも偽善と虚偽をまとっている。人間は、神の御霊を受けてはじめて、神を愛し、神に良しとされる善を行うように支えられる
神からの報酬は人間の功績が生み出すという考えに反論する
人間の功績(努力や成果)が、神の恩寵を来たらせるのではない。神は功績を生み出すために、まず人間に賜物を与える。神の恩寵(恵み)が人間の功績を生み出しているのだ。
- ローマ書8:29、30は、私たちの救いと完成は、すべて神が成されたことだと言っている。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となら れるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
なぜ信仰者は「天国で完全になる栄光」を与えられるのか。それは、かれらが努力したからではなく、主が彼らをあらかじめ救いに定め、さらに召し、召した者を義としたからである。 - 第一コリント4:7は、人間の功績をいっさい否定している。
いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらってい ないかのように誇るのですか。
パウロは、自分たちの信仰、行いすべては神が与えてくださったものである。自分たちの功績として誇るのは間違っていると言っている
-
第1コリント15:9、10で、自分の働きは神の恵みであったとパウロは告白している。
私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きま した。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
パウロは、自分が救われたもの、自分が他の使徒たちよりも多く働いたことも、神の恵みによるものだったと告白している。なぜなら、自分は神の教会を迫害し、神から恵みを受ける資格がない者だったからだ。
信仰にとどまる、信仰を捨てることも神による
- 報酬は、神の恩寵が与えられるか与えられないかによる。
信仰に留まる人、信仰を途中で捨てる人がいるのは、神の賜物として信仰にとどまる忍耐が与えられたか、そうでないかの違いによる。信仰を続けることは、神の支えなしにはできない。
人間に善をなす能力がないのなら、戒めは無駄だという考えに反論する
- パウロもキリストも、人間の無力を知っていたが、戒めをないがしろにしなかった。
キリストは「彼から離れては、私たちは何ひとつすることができない」ことを証しした。しかし、各人が善きわざに専念するようにすすめることをないがしろにしなかった。
パウロは愛をないがしろにしたコリント人をきびしく避難した。ローマの手紙では「ただ神の憐れみによる」と証ししたそのあとで、かれは勧告し、激励し、またはげしく避難した。 - 預言者たちは、民が「かたくな」なことを知っていたが、警告を止めなかった。
預言者たちは、神によって「心に割礼」を与えられた人しか、彼らの警告に反応しないことを知っていた。
しかし彼らは人々に警告を与えることを止めなかった。
勧告は何のためにあるのか
従わないなら勧告は無駄ではないかという意見に反論する
勧告は必要である。救われる者が起こされるため、救われた者が進歩するために必要である。
- 神は、救われる者を『御霊』によって新しい被造物とし、『御言葉』によって、新しく創造されることを期待させ追及させ、ついには達成させる。だから、勧告を与えることは必要である。
- キリストは、人間の無力を知っておられたが、教えることをなおざりにされなかった。
キリストは、「御父が引きたもうのでないならば、だれもわたしに来ることはできない」とも、
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。ヨハネ6:44
「選ばれたものは、御父から聞き、また学んだのちでなければ、来ることができない」とも言われた。
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
しかし、キリストは教師としての職務をなおざりにされず、みことばを聞くことによって進歩をするために、聖霊によって教えられる必要のある者らを、その御声によって熱心に招いた。 - 受け入れない者に対する勧告も無駄ではない
「御言葉」は救われない者たちに対して信仰に導く効果はない。しかし、「御言葉」は、それを聞く彼らに良心に呵責を味わわせ苦しくさせ、さばきの日には言いのがれできなくさせるという別の効果を発揮する。
人間は律法の要求を完全に守ることができない
戒め(律法)は私たちが守ることができるために与えられたのではない。律法はそれを守れない自分の罪を自覚するために与えられた。律法に服従する力は、神から来る御霊による。自分自身としては無力である。
- 律法は私たちが守ることができるためではなく、守れない自分の罪を自覚するために与えられた。
聖句は「律法は違反の大きさを増すために与えられた」「律法によって罪は認識される」
「律法は罪を実現する」「これは罪の意識を増し加えるためにはいって来た」という。- 律法はキリストが到来するまで民を導く働きをした
では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介 者の手で定められたのです。ガラテヤ3:19 - 律法によっては義と認められない。律法は人に罪を自覚させるもの。
なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。ローマ3:20 - 律法に違反するという判定がなければ、さばきもないことになる
律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。ローマ4:15 - 律法は良いもの。律法がなければ私たちには罪が何かがわからない。
それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったで しょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。ローマ7:7 - 律法よって全ての人が罪人と判定された。これはキリストによる罪の赦しを求めさせるために役立った。
しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。ガラテヤ3:22
- 律法はキリストが到来するまで民を導く働きをした
- 律法は恩寵の約束を含む(不可能な命令に信仰によって守ることができる約束がともなっている)
神は、律法を守る命令を下すとともに、守ることができるため「神の力」を与える約束を与えている。
私たちは「約束」がなければ失格となるしかない。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。ガラテヤ3:24-26
- 守ることができないのに律法の戒めを与えることは無駄ではない。
律法によって無力を知った者は、神の恩寵にすがるからである。- アウグスチヌスのことば
「神はわれわれに、われわれの能力の及ばないことを命じる。それはわれわれが、祈り求めるべきものが何であるかを知るためである。」「信仰は律法の命じるところを完成するのである。」「まことに律法が命じるのはこのためである。すなわち、信仰が、律法によって命じられたところを、完成するためである。」「まことに、神はわれわれから信仰そのものを要求したもう。しかし、神は、発見すべきものをそこに与えたまわぬ限り、その要求するものを発見したまわない。」
- アウグスチヌスのことば
- 人間には律法を完全にまもることは不可能。律法は信仰によって完成されるものである。
神は人間に実行不可能な命令を与えた。それは人間に神を求めさせ、神によって律法を守らせるためであった。
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。マタイ5:17 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。へブル12:2
人間の内に律法を守る能力があるとするのは誤りである
- 人間の内に神の律法を守る能力があると考えるのは間違いである。
人間が律法を完全に守るためには、神の恩寵が必要である。聖書には、全ての戒めを守るためには、神の恩寵が必要であること、その恩寵を神が信者に与えると約束されている。このことを支持するエレミヤの言葉(エレミヤ31:31-34)
エレミヤは、人は律法を守る能力がない。御霊がなければ人には律法を守る能力がないことを預言した。
旧約は、律法に書かれたことに従えば、神に愛され天国に入ることというものであった。しかし、人々は律法を守ることができなかった。そのためこの契約では人を救うことができないことがわかった。
人の心を神への服従へと向ける御霊が与えられるのでなければ、律法を守ることができないからだ。
そこで神は民との間に新しい契約を結ばれた。信じる者は聖霊を受けるという約束である。
神は神の民に御霊を与えて律法を守らせると言われた。見よ。その日が来る。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らは わたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――
わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るから だ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」エレミヤ31:31-14
なぜ、神は人間が守れない戒め(律法)を神が与えたのか
神の「戒め」と「約束」は信仰者だけではなく、不信者に対しても語られている。
神の戒め、双方にとって有効な働きをなす。
- 律法が不信者に語られる目的
- 律法に違反する自分の罪を知るため。
自分が神の恵みを受けるにふさわしくないことを知るため。 - 悪から離れるため。悪い行いを止めるため。
神は、悪から離れ、神に従うなら恵みをを回復すると約束しておられる。 - 死後のさばきの座において、自分が神に裁かれて当然だと納得するため
エレミヤが、聞こうとしない民に預言した。それは、彼らの回心のためではなく、
彼らが真実を知るためであった。自分の罪が裁かれて当然であることを認識するためであった。
- 律法に違反する自分の罪を知るため。
- 律法が信者に語られる目的
- 信者によい実を結ばせる効果のため。
- 信者に聖霊の導きをもっと祈り求めさせるため。
神の戒めは、私たちがどれほど神から隔たっているかを思い知らせる。そして、わたしたちを正しく導く御霊を祈り求めるようにさせる。神はさらに、戒めを守った時に与えられる恵みを約束することで、神の命令を愛するようにされる。
律法を守れない人間をさばく、神は不当だという考えに反論する
- 私たちの内にある悪は、自分ではどうしようもできない。
私たちが生まれ持つ悪を神が責めるのは不当だという考えに反論する。
罪人が罰せられるのは、彼らが悪を犯したからだ。
たとえ、それが生来のものであり、必然的なものであっても、自分の犯した罪を、神の前に言いのがれすることはできない。犯した罪の清算はなされなければならない。
反対者が引用する聖句について反証する
- 「信仰に徳を加えよ」と言うペテロの言葉 第2ペテロ1:5
「信仰に徳を加える」これは、われわれが何かを自分だけでなし得るかのように、第2の役割をわれわれに認めるものではない。そうではなくて、これはただ、肉の怠惰をめざめさせるだけのものである。 - 「御霊を消すな」という言葉 第1テサロニケ5:19
これも怠惰を戒める言葉で、上記と同様である。怠惰はこらしめられることがなければ、たえず信仰者のうちに忍び込んで来るからである。 - 信仰者のうちに与えられた光を育てるかどうかの選択があるという意見
この意見をくつがえすことは簡単だ。パウロが要求しているこの勤勉そのものが神からのものにほかならないからである。 - 神の恩寵は第1に大切だが、人間の行いも第2の地位を占め大切なのではないか。
罪が自分たちから出たものとされるならば、義の行いのある部分も自分たちから出たとされるのではないか。その証拠に、善きわざが「われわれ」のものと呼ばれいるではないか?
この聖句は、善きわざは「われわれのもの」でなかったのに、神のあわれみによって、価なしに「われわれのもの」にされたと言う意味である。この聖句は人間の義が貢献することを支持していない。
善を選び実行することにおいて、
神が主体的に人に働きかけ、人は受動的であることを証拠づける聖句
- モーセ 申命記30章6-11節
民が御霊により心が新しくされて、神の命令を守るようになることを啓示されている。
この箇所は、福音的約束を預言したことばである。つまり、救いは、律法を守ることで獲得するような、つらい、きびしい、不可能なだけのものではない。そうではなくて、救いは、容易な条件のもとに差し出されている。それを容易にするのは信じる者に与えられる御霊である。御霊が与えれ、あなたがたの心が新しくされる時に、あなたにとって主を愛し、主の命令に従うことは難しいことではなくなるからだ。
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生き るようにされる。30:6
あなたは、再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行なうようになる。30:8
まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。30:11 - 使徒パウロ
パウロも信仰者は受動的に神に応答していることを認めている。- 神にふさわしく歩めと命令したすぐ後で、そのような思いを与え、実行さえてくださるのは神だと付け加えている
かれは、信仰者に「恐れおののいておのが救いを全うせよ」と命令したすぐ後で、「それは神が、働いて、その志を立てさせ、それを行わせる」と言う。パウロは彼らが怠惰にならないように、できる限りのことをせよと命じている。しかし同時に、彼らに行うように命じられていることは、神のわざであり、神が成し遂げてくださることを思い起こさせている。
そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成して ください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。ピリピ2:12-13 - 彼は、信仰者は「受動的に働く」と神から教えられていた。
自分の行いを誇ることはできない。それは神がなさったことだから。
全てにおいて神が誉められるべきだとパウロは一貫して主張している。
信仰者は天からの力を与えられて神のわざを成している。
だから自分自身の功績を何ひとつ誇ることがができないと彼は語った。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きま した。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。第1コリント15:9-10
- 神にふさわしく歩めと命令したすぐ後で、そのような思いを与え、実行さえてくださるのは神だと付け加えている
人間の義が善を行うとする考えに反論する
- 信仰者自身が、義を守って、善きわざに励むのだとの意見に反論する。
- このことは、御霊が信者に働く方式を考えれば、正しくないことがわかる。
人間は生まれながら悪に傾いていて、必然的に悪を行う。人間は神に反抗する性質を持って生まれるため、神の特別な恩寵が与えられなければ善に向け変わらない。そうであるなら、たとい良い行いができたとしても、それを自分の内にある善が生み出したものだと言うことはできない。
聖書はこのことが正しいとしている。聖書の中で「善き人」として言われているのは、神の御霊によって善に向けて支えられている人のことで、人間の努力によって善人と呼ばれている人のことではないからだ。 - アウグスチヌスは恩寵がなければ人間は良き行いができないと言った。
彼は、神の恩寵が人間に働きかけて、善き行いに歩ませると言った。
「あなたはわたしに言うであろう。『それゆえわれわれは働きかけられるのであって、われわれが働くのではない』と。そのようなのだ。あなたは働きかけられ、そして働くのだ。そして、善なるものによって働きかけられるならば、そのときあなたはよく働くのである。」 - 恩寵とは、再生した信者に対しての御霊の働きかけのこと。
御霊は、悔い改めて再生した者にのみ与えらえる。
恩寵が信者に働きかけ行わせる。御霊が、私たちに善を行わせる。御霊によって善に向けられるものは、われわれの精神、意志、努力である。御霊を持たない、生まれたままの人(未信者)は、恩寵によって導かれることはない。
- このことは、御霊が信者に働く方式を考えれば、正しくないことがわかる。
- カトリックが「人間には理性と意志が残っている。人間自身に善に向く力がある。」と説明することに反論する。
ルカ10章のサマリヤ人が旅人を助けた個所から、「強盗は旅人を半殺しの状態にした。サマリヤ人は、半分死んだ旅人を生き返らせ健康にした。強盗は悪魔、サマリヤ人は神、旅人は私たちを象徴している。
つまり聖書は、悪魔が人間を完全に無能にしたのではなく、不完全な状態にしただけだった。不完全な人間を神が救って、完全にして天国に入れてくれる。だから、人間には生まれつき善を成す能力が残されているとカトリックは説明した。- この説明は、聖書を拡大解釈した結果生じた、誤った解釈である。
パウロは「死んだものがよみがえる」と言っている。
パウロは、私たちの「あがない」「救い」について語るとき、半分生きた状態から健康になったとは言わない。むしろ「私たちは死んでいたが、よみがえらされた」という。
パウロは、半分死んでいるものに向かって「キリストの照明を受けよ」と叫んでいるのではなく、眠り・そして葬られたものら対して叫んでいるのである。同じように主御自身も「死んだものが、わたしの声を聞いてよみがえる時が来た」と言われた。カトリックは、このように明らかな教理を否定するために、子供だましな聖書解釈を用いて人々を誤って導いているのだ。ルカ10:30-37参照
- この説明は、聖書を拡大解釈した結果生じた、誤った解釈である。
結論:生まれつきの人間は自ら善を欲することも行うこともできない。善い行いをしたとしても、それも偽善と虚偽をまとっている。人間は、神の御霊を受けてはじめて、神を愛し、神に良しとされる善を行うように支えられる
生まれつき人間の精神は、神から離れ去っており、不敬虔で、ねじけており、いじわるで、破廉恥なことを願い、実行する誘惑を抑えることができない。心は、罪の毒があらゆる領域にしみこんでいる。また、たとえ、善の様相を示すことがあるとしても、その精神はいつも偽善と虚偽とにつつまれ、その魂は罪にからみつかれたままなのである。人間は心が新しくされる必要がある。御霊を受けるとき、神の戒めを喜び、守り行うことが容易にされる。人間が自由意志で善を選択して実行するのではない。神の御霊が信者に善を意志させて、行わせているのである。