第1篇7章 いかにして聖書の権威を認めることができるか
- 「聖書の権威を判定するのは教会である。教会が認める限りにおいて真実である」と言われているのは誤りである。
- 教会の基礎は予言者と使徒の教えである。(エペソ2:20)
教会ができる前から、この教えは存在していた。
この教えを承認した所に教会が作られた。
だから、教会には聖書について判定を下す権威はない。
- 教会の基礎は予言者と使徒の教えである。(エペソ2:20)
- 聖書の権威を論議によって証明することもできるが、それをしたところが人を信仰に導くには至らない。
- これは理論的根拠を必要としない信念である。神の御霊が私たちの心に封印するものである。
- 聖書の権威は「御霊」が証しする。御霊によって照らされないうちは権威に確信を持つことができない。
御霊を受けてはじめて、聖書が神からのものだと信じることができる。
神はこの特権を全人類に与えず、選民だけに与えておられる。
- 聖書の権威は「御霊」が証しする。御霊によって照らされないうちは権威に確信を持つことができない。
- それで信仰する者が少ないと意気消沈する時は、
反対側から考えて、神の奥義はそれを与えられた人以外は誰も理解できないことを思い出そう。
第1篇8章 聖書の信憑性(正しさ)は、理性で十分証明が可能である
- モーセ書に書かれた多くの奇跡が「ウソ」だと言う人に対しての反論。
- これらは、モーセが預言者であることを神が認めていることの証拠として語られている。
モーセはこれらの奇跡を会衆に公布したのだから、実際に起きた事でないなら、会衆はモーセに反論していたであろう。
しかし、彼らは反論どころか、モーセに説得されている。
これらのことから、モーセが語った奇跡が本当は起こらなかったと考える方がおかしいことになる。 - モーセが奇跡について語る時は、いつも民が反論したであろう彼らの罪と関連して語られた。
民は、モーセの話を聞いて、彼に服従するように導かれたのであるから、モーセの話をもっともだと民は受け入れたことを意味する。 - モーセが魔術師であったと言う者がいる。しかし、彼は魔術、占いを忌み嫌った人である。(レビ20:6)また、マナが降るような奇跡を誰ができるか?魔術を使っても無理である。
- これらは、モーセが預言者であることを神が認めていることの証拠として語られている。
- 預言者の言葉が成就していることから、聖書の信憑性は照明できる。
- イザヤはユダ王国が平和であり、カルデヤからの援助が得られると思われたその時、都の破滅と捕囚を預言した。当時、作り話にしか見えなかった。クロス王の名を挙げ、この者がカルデヤを占領し、民が解放されると預言した。これはクロスが生まれる100年以上前の預言であった。
- エレミヤは捕囚の期間を70年と言い当てた。
- ダニエルはバビロンに、エレミヤはユダヤにいて2人は隔たっていたのに、同時期語り、預言が一致する。
- ダニエルは、600年後に起こる出来事を、歴史のように記した。
これらは、彼らが神の啓示を受けて聖書を書いたことの十分な証拠である。
- 聖書は徹底的な迫害を受けて焼かれた。「今私たちが持つ聖書は”にせもの”だ」という人への反論
- アンティオコスがBC150年頃、「全ての聖書を灰にせよ」と命令したのだから、今我々が持つ聖書はにせものであるという人がいる。しかし、聖書を無きものにしようとした努力は失敗した。聖書は迫害に耐えて生き残った。
これは、神の介入による。神がある人々を奮い立たせて、命をかけて聖書を守らせたから、また反対者たちの捜索を失敗させたからである。旧約聖書の保存のためには、皮肉にもキリスト教を迫害するユダヤ人が用いられた。彼らが書き残した。
- アンティオコスがBC150年頃、「全ての聖書を灰にせよ」と命令したのだから、今我々が持つ聖書はにせものであるという人がいる。しかし、聖書を無きものにしようとした努力は失敗した。聖書は迫害に耐えて生き残った。
- 聖書が神のことばであると信頼できるその他の証拠
- 使徒たちの変化。使徒たちは無学であったが、突然に神の奥義を語り出した。
パウロは迫害者であったが、突然、自分が迫害していた信仰を述べ伝えるようになった。
これは、彼に聖霊が注がれて新しい人にされた証拠である。 - さまざまな民族、共通点のない人々が、聖書への従順において一致していた。
- 多くの聖徒たちが、勇敢に恐れなく、大いなる喜びをもって信仰のために死んでいった。
- 使徒たちの変化。使徒たちは無学であったが、突然に神の奥義を語り出した。
しかし聖霊が与える確信を持ることなしに、神を信じることはできない。
第1篇9章 聖書を退け直接啓示に走る者は、大いに真理からそれる
- 聖書によらず、直接啓示によって信仰しようとする者達がいる。
彼らは「聖書」は人を死なせる文字だとあざ笑う。- 使徒たち、初代教会の信者たちは皆、神のことばを尊ぶように聖霊から教えられた。
- パウロもテモテも「聖書は教えと戒め、矯正、神の僕を導くために有益である」と告白し、聖書を用いるように勧めている。
- 神の直接啓示に頼る者らは狂気にかられている。彼らが受ける霊は、聖霊ではない。
別の霊である。なぜなら、聖書を軽んじさせる霊だからである。- 聖霊は、福音の教理を我々の精神に印銘(福音が正しいこと証明する確信させる)をする霊である。
- 聖霊が聖書の著者である。
だから、聖霊によって益を得たければ、聖書を読み聖書に聞くことを熱心に精進しなければならない。 - 聖霊は、みことばを理解させるために働く
- 「御霊を消すな」「預言を軽んじるな」(第1テサロニケ5;19、20)というみことばは、御霊を消さないために、聖書を重んじよという勧めである。
みことばは主が御霊の照明を信者に分け与えるための器である。 - 「聖書が人を殺すことばだ」と思う者は、キリストぬきで律法の話を聞くからそう思う。キリストが示されて、律法を聞くなら魂は元気づき、愚かな者は賢くなる。