目次
1キリスト者が持つ自由について正しく知ることは重要
- キリスト者の自由を間違って理解している人がいる。
彼らは、「自由」とは神に対してのいっさいの服従を捨てて、自分の思い通りに生きることだと考える。しかし、これはキリスト者の自由ではない。 - 本当の自由を得ていなけれ、たましいの安息はない。
2キリスト者の自由とは何か。第1に律法のさばきからの自由
- 第1に、キリスト者は律法によってさばかれない立場にある。
彼らはもはや律法によるさばきを恐れる必要がない。キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれ たものである。」と書いてあるからです。ガラテヤ3:13 - 律法の命令は彼らを恐れさせるのではなく、彼らを教えはげまし善に向かわせる。
なぜなら、キリスト者は聖潔へと召されているから。
彼らが聖潔に歩むことで、彼らに恵みを与えた神が誉めたたえられるからである。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ たのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。エペソ1:4
神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。1テサロニケ4:3
神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。
1テサロニケ4:7,8
4キリスト者の自由 第2に、神に自発的服従ができるようになること
- 聖霊を受けて心が変えられるまでは、私たちは律法の命令に奴隷的に服従することしかできない。
なぜなら、生まれながらの心は神の命令に反抗するから。命令に従うのは、刑罰が下ることを恐れるから。そこには、従う喜びはない。 - 私たちは完全に神の命令を実行できない。そのため、良心はいつも神を怒らせることを恐れている。
- しかし、キリスト者は違う。キリスト者にとって神は父のような存在である。
自分の行いの不完全さを神に知られても、自分は神に受け入れられていると確信している。
子の不完全さを見ても、父がその子を認めるように、キリスト者は、自分の奉仕が不完全であっても、神は認めてくださることを確信できる。 - このことから、恐れからではなく、義務だからではなく、自発的に神に従う熱心が起こされる。
8各人の良心に照らして、神からの賜物を用いるように
- 神が備えてくださるのものは、すべて聖い。(食べ物、飲み物など)
主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。ローマ14:14 - 信者が、それを神から与えられたものであることを確信し、与えられたことを感謝できるとき、その賜物を用いるという自由がある。
- 言い換えると、信者が、その賜物を用いることを、神に感謝できないのであれば、信者はそれを用いない自由があるとも言える。
(例:豚肉 信仰のある人(完全にキリスト者の基準で生活できる人)は、豚肉を食べることができるようになったことを神に感謝できる。
しかし、信仰の弱い人(ユダヤ教の生活様式を重んじる思いから完全に開放されていない人)は、豚肉を食べるなら、良心に呵責を覚えて、神に感謝をささげて食べることができない。そうであるならその人は、豚肉は食べなくてもよい。
つまり、豚肉は食べてもいいし、食べなくてもいい。食べる判断基準は、神に対して罪を犯しているという思いを持つかどうか、神にそのことを感謝できるかどうかである。
キリスト者の自由から、コロナワクチンに関しての私の意見
- 上に書かれた、神が備えてくださったものを、各人の良心に照らして用いるということは、
コロナのワクチンに関しても言えることかもしれない。なぜなら、ワクチンは、全世界が感染に犯されるという危機的状況のために、神が備えてくださった賜物であるといえないだろうか。
この賜物に関して、キリスト者は、各人の良心に照らして、用いるか用いないかを選択する自由がある。 - 豚肉の場合、食べる人は食べない人をさばくべきではないし、食べない人は食べる人をさばいてはいけない。「ワクチンを打つ人」は「打たない人」をさばくべきではなく、「打たない人」は「打つ人」をさばくべきではない。ワクチンを打つことも、打たないことも、キリスト者はどちらでも選択できる自由があるからだ。
ただ、各人が自分の信仰の良心(神および隣人愛に照らしてうしろめたさがないか)、および自分の良心(社会に対して責任を負うことに対してうしろめたさがないか)に照らし合わせて決めることだ。そして、大切なことは、各人の決断を尊重することである。 - ワクチンを打つことを国は奨励した。ある国は打たないことに対して、重いペナルティーを課した。打たない人は、このことに大いに反発した。そして、国に対し、打っている人に対して憎しみを抱いた。しかし、これは公衆衛生上、多くの人の命を守るために出された政策であることを忘れてはいないか。個人の自由をはく奪するための国のエゴではない。
- 安全性の心配があるのでとか、終わりの日の刻印だと思って打たない人がいた。
打たない選択をすることは、打たない人(信仰の弱い人)が打つ人(信仰のある人)を非難したり、フェイクニュースでも何でも、とにかく打つことを止めさせようとして、情報を拡散することにつながってはならない。
ワクチンを打った人や、コロナにかかった人が多くなったので、集団免疫が獲得され、デルタ株が変異せざるおえなくなり、弱毒化したのは事実だ。もし、ワクチンがなかったら、もっとひどいことになっていたはずである。つまり、ワクチンを打たなかった人は、打った人の恩恵を大いに受けているからだ。
自由を行使するとき、人につまづきをあたえないように注意する
- 神の好意を得ようとして、神の御心でないことまでして、隣人に迷惑をかけ、
隣人をつまづかせてはならない。 - 隣人の好意を得ようとして、神の大切な戒めを破るようなことをしてはならない。
- 上記の2つを正しく制御して、信仰することが大切である。