われわれは、われわれのものでなく主のものである
- 自分自身を主に捧げ、主の意志に従うこと、これこそ「霊的な礼拝」である。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え 物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。ローマ12:1
- この世と迎合してはならない。心を新たにされて、何が良いことであるかを見極めよ。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るた めに、心の一新によって自分を変えなさい。ローマ12:2 - われわれは、神の栄光を求め行うために、救われた。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。1コリント6:19,20 - われわれは神のものである。だからいっさいを神に向かわせなければならない。
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。ローマ14:8
- この世と迎合してはならない。心を新たにされて、何が良いことであるかを見極めよ。
- 自分が自分のものでないことを知る。
自分からは何も知ろうとせず、ただ主の指導に従うことができる人が進歩した人。
なぜなら、自分の意志に従うなら、滅びに至るからである。 - キリスト者生活で一番重要なことは、自分の知恵を傾けて、神の御心に従うことである。
- このような神への従順は、新しくされた心によってはじめて実行が可能になる。
ここでいう「神への服従」は、理性を働かせて、神の命令に従うというものではない。
それは、御霊によって新しくされた心が、理性に命じて行わせることである。
- このような神への従順は、新しくされた心によってはじめて実行が可能になる。
いっさいをあげて主の意志と栄光を求めるべきこと
- 第2のキリスト者生活で重要なことは、キリスト者は自分の栄光を求めず、ただ神の御心にかなうことを求め、神の栄光が増し加わるために努力することである。
自分の利害を無視して、神の命令に従うことは、単に所有欲や人からの好意を得ようとする思いを消し去ることだけではない。野心や栄誉など隠れた心の欲望一切を失くすことを意味する。
- 「神の決定と計画に従う」これが自己否定。キリストが弟子達に入門のはじめに求めたもの。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。マタイ16:24 - 自己否定が生活に与える影響
- むさぼり、うぬぼれ、自慢、享楽の思いが消えていく
これが心を占めると、倣慢・うぬぼれ・自慢する気持ちがなくなり、肉欲・ぜいたく・享楽をしたいと思わなくなる。しかしこのような自己否定がない人は、悪徳をむさぼり、自分の栄誉を求めて結果破滅する。 - 本当の意味での善行へと人を導く
自己否定がないかぎり、本当の意味での善行を行うことはできない。
神の命令によってしたのでなければ、価なしの善行はできない。自分への称賛を博するために行っているからである。 - 救いを達成させる
「自分を否定し自分の利益を放棄して、神の喜ばれることを求める」これのみが救いの道である。
- むさぼり、うぬぼれ、自慢、享楽の思いが消えていく
地位、財産や人に頼らず、主のみを頼りとする
- 自分の才能や勤勉さ、人の好意や富・名誉に信頼するのではなく、ただ主に信頼して、主が私に備えた定めに導かれて生きることが、私たちのつとめ。
- 「主のみを頼りにする」ことが生活に与える影響
- 第1に、不正な手段で富・栄誉を求めようとしなくなる。
不正な富によっては、神の祝福を得ることができないから。
不正をしなくても、主は必要なものを与えてくださると信じるから。 - 第2に、抑制のない富や名誉の貪欲に陥らないようにされる。
神の御心に反して行ったことについて、神からの助けを求めることはできないから。
- 第3に、祈りが聞かれなくても、その状況を受け入れることができる。
その状況は、神から自分に配分されたことだから。
- 第1に、不正な手段で富・栄誉を求めようとしなくなる。
たとえ、成功したとしても、自分の功績にせず、いっさいを神の功績に帰する。他者が栄えて自分のすることが失敗しても落ちても冷静でいられる なぜなら、すべての出来事は、自分の救いの益のために、神が整えておられることだと知っているからである。
自己否定は逆境に耐える支えとなる
- 本当の自己否定とは、主の意志のままに導いていただくことを、良しとすること。
自己を全く主に明け渡して、自分の人生のすべてを、主の意志のままに支配させることを良しとしないならば、正しく自己を否定してはいないことになる。 - 自己否定は信者が逆境に耐える支えとなる
- 悪いことが起こっても、自分をみじめと思わない。神をうらまず、神に信頼して堪え忍ぶ。
なぜなら、その出来事は神から自分にご計画をもって送られてきたことだからである。
そして、神は自分の永遠の益のためにそのことをしておられるからである。
(そのとき、神の計画を知ることができなくても、信者は神の自分に対する慈愛を信じる) - 何が起きても、感謝の気持ちをもってこれを受け取る その状況を与えられた神のご意志に服従する。
何が起こっても、これが主の御手によって来たことを知っているから、静かな・感謝の気持ちをもってこれを受ける。そしてこれを与えた神に対して不信になったり、うらんだりすることはない。
- 悪いことが起こっても、自分をみじめと思わない。神をうらまず、神に信頼して堪え忍ぶ。
- 不幸な出来事に対する信者と未信者の違い
- 未信者は運命としてあきらめる。
神を信じない者は、運命のせいにしてあきらめる。人生の出来事は、いいことも悪いことも運命によるとする。運命には考えも計画もない。ただ運命に翻弄されるしかない。人生とはこのようなものとあきらめるしかない。 - 信者は不幸な出来事の中にも神の幸いな計画を見る。
キリスト者は、人生のあらゆる出来事は、いいことも・悪いことも、神から自分に送られてきたと考える。その出来事には、ただ自分を苦しめるだけに与えられたのではなく、神の深い思慮と計画によって、神の慈愛により、自分に対する永遠の益のために与えられたと考える。
- 未信者は運命としてあきらめる。