キリスト教綱要3篇8章「十字架を耐え忍ぶことについて」

3篇8章1:主とともに十字架を負うことの必要

  1. キリストは神であったが、彼の生涯には苦しみが満ちていた。
    キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。へブル5:8-10

  2. 弟子である私たちも当然苦しみを受ける定め。
    私たちは苦しみを通してキリストと同じようにして栄光に入る。

    キリストが多くの苦しみを受けられたなら、彼の弟子である私たちがどうして苦難を免れることができるか。キリストは地上で苦しみを受けた後、天の栄光に入られた。同様に、私たちもさまざまな患難を経て、キリストと同じ栄光へと導かれるのである。
    弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、
    「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。使徒14:22

  3. 苦難によってキリストとの交わりが固くされ、救いが前進させられ、栄光の復活への備えができる。
    これらの祝福が、苦難に際して、私たちの苦しみをやわらげる。
    私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
    ピリピ3:10,11

3篇8章2:十字架によって自分の無力を知って神に寄り頼む

  1. 神の恵みなしでも自分の力だけで十分であるとの自信を打ち砕くために、神は苦難を与えられる。
    私たちは、恥じ、貧困、死別、病により苦しめられる。これは、私たちが己の無力を悟って、神に寄り頼むようになるためである。
  2. 私たちは逆境の時に学ぶ。
    平穏であれば気づかない、自分の高慢や偽善を、逆境の時に知るようになる。
  3. の助けにより逆境を克服する経験を通して、自分の無力と神の力を知るようになる。
    十字架を通して、私たちは自分の内に神の力が満ちており、神の御力は苦難を克服するのに十分な力があることを悟る。

3篇8章3:十字架は希望を養う

  1. 神に助けられた経験は、将来も助けてくださるという希望を確信させる。
    患難に会って忍耐する時、聖徒たちは神の助けが必要に応じて示されることを経験する。この経験は、「将来も神は助けてくださる」と信じる聖徒たちの希望を固くさせる。
  2. 十字架による修練は、私たちが自分の弱さを学び、神に頼るために必要である。

3篇8章4:十字架は忍耐と服従を修練する

  1. 十字架が与えられる目的 
    1. 聖徒たちの忍耐をさぐるため。
    2. 聖徒たちを服従させるため。
  2. 聖徒たちに与えられる十字架は、彼らの内に、神への服従が宿ることを証明する機会になる。
    聖徒の内に、神が与えた服従が宿ることをさぐるために、聖徒たちに患難が与えられる。
  3. 十字架は、聖徒たちに神への服従を学ばせる。
    聖徒たちは、十字架が与えられることによって、自分の思い通りに生きるのではなく、神の意志のままに生きることを学ぶ。

3篇8章5、6:父のこらしめとしての十字架

  1. 1人1人が違った病に侵されているので、神はそれぞれを聖めるために違った扱いをされる。
    あるものをよりやさしく扱い、あるものをもっと手荒い治療によってきよめる。
  2. 苦しみのとき、自分の過去に犯した罪を思い起こすことは良いことである。
    そうすれば、自分に今与えられている苦しみが、受けて当然であることを知るであろう。
  3. 十字架は滅ぼすためではなく、罪に定められることから解放するために与えられる。
    だから、私たちは苦しみの中にあっても主の慈愛を認めていなければならない。
    主の愛を疑ってはならない。

    しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。第1コリント11:32

    わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。箴言3:11
  4. 十字架は矯正のため、滅びに至らないための神の杖である。私たちはそれを負うべきである。
    わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。箴言3:11

    もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。へブル12:8

3篇8章7:義のために受ける迫害

  1. 義のために迫害される」とは、
    福音宣教のためばかりではなく、何らかの意味で義を守るためになされるいっさいの労苦を意味する。
    義を守るために、受ける苦しみは聖書では幸いだと言われている。だから、その労苦をつらい・厄介だと思ったり、自分をみじめだと考えてはならない。
  2. 義のため苦しむに価する者とされたことを喜べ。
    この世で義のために苦しむなら、天国での宝を増し加えることになる。この世の宝を、天国での宝よりも高く評価するようなことがあってはならない。

3篇10:キリスト者が示す、主の意志への積極的服従

  1. キリスト者も、苦難に際して悲しみ、恐れる。しかし彼らは苦しみに倒されず、忍耐を働かせる。
  2. 忍耐を簡単に放棄してはならない。それは天での報いつながっている。
    聖徒たちが悩まされながらも、非常な不安の中にありながらも、神の慰めによって元気を取り戻すことを、聖書は誉めているからである。
  3. どのような逆境にあっても、「主が自分に送られた。だから主に従おう」とこころよく忍ぶべき。
    私たちは病気になると、嘆き、いら立ち、健康を求める。貧しいと、不安と悲しみに震える。不名誉や恥を受けると怒る。親たちの死の際には涙を流す。このように逆境そのものは、苦しくつらい。しかし、どのような逆境にあろうとも、それらは「神が意志されて、自分に送られたこと、だから自分は主の意志に従おう」との結論に至らなければならない。そして、こころよく耐え忍ぶべきである。

3篇11:キリスト者が忍耐する秘訣

  1. 「どのような困難も主の指令と摂理によらなければ起こらない」
    聖徒たちは、このことを知って困難に耐える。

    あらゆる困難は、われわれの欲望を抑制するために神が意図して与えたものである。
    神の正しい判断によって自分に与えられたことを知っていなければならない。
  2. 聖徒たちは、義のための十字架を、積極的に耐え忍ぶ。彼らは苦しむとき霊的な慰めを受ける。
    聖徒たちは、義のために与えられる十字架を、なすすべがないから、神に反抗できないから、いやいや耐えるのではない。彼らは、自ら服従する心をもって積極的に耐える。なぜなら、その苦しみが自分たちの救いのためになることを知っているからである。聖徒たちは、義のために苦しめられれば苦しめられるほど、霊的な喜びに満たされる。この喜びが聖徒たちの苦しみをやわらげ、耐える力を与える。
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