アモツの子イザヤによる預言(ウジヤ、アハズ、ヒゼキヤの時代)
1:1 アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。
預言者:イザヤ。彼はは、アモツの子。
預言の対象:エルサレムとその周辺の地域。
預言の時代:ウジヤ、アハズ、ヒゼキヤの時代。
預言の伝達方法:イザヤが見たもの(幻を見る、主からの啓示を聞く)
Ⅰ 神は、霊的に堕落したイスラエルを嘆く
Ⅰ―1創造主に逆らい、主を捨てたイスラエル。
1:2 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
イザヤは、申命記でモーセが民に与えた警告を覚えて語っていました。
そしてイスラエルの民に、「モーセが語った警告を覚えていないのか。」と迫っています。(申命記32:1、31:28、30:19参照)
主が彼らの国を大きくしてくださったのに、彼らは主に逆らって偶像を拝み、偶像に頼っていました。
1:3 牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」
3節 牛やろばのような愚鈍な動物ですら、飼い主の持ち物を知って餌場にくるのに、イスラエルが、自分を選んでくださった主を知らないとはどういうことかと神は嘆いておられます。
Ⅰ―2イスラエルは霊的に堕落してしまった。
1:4 ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。
1:5 あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
1:6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。
イスラエルは、世々代々主に罪をおかし、神に背を向けてきた。
そのために、神の怒りを買い、他国に侵略されて国は荒れ果てている。
それでも、彼らはかたくなで主に悔い改めることをしない。
Ⅰ―3しかし神の恩寵によって救われる者が起こされる。7-9
1:7 あなたがたの国は荒れ果てている。あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。
1:8 しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。
1:9 もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。
彼らはソドムやゴモラのように滅ぼされて当然な者だけれども、それでも神の恩寵によって救われる者が残されている。
・霊的に荒廃して絶望的な状況の中にあっても、神の恩寵によって救われる民が起こることが啓示されています。
Ⅰ―4イスラエルの偽善的信仰を神は嫌う。10-17
1:10 ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ/わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。
1:11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山 羊の血をわたしは喜ばない。
1:12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。
1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
1:14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。
1:15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を
1:16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
彼らは悔い改めることなく、主の儀式だけを行っていました。
神は、外側だけを飾る、彼らの偽善的な信仰をご存じでした。
ですから、彼らが神殿でささげものを忌み嫌う、彼らの祈りを聞かないと神は言われます。
彼らがなすべきことは、礼拝は祭礼ではなく、罪の悔い改めや不正を止めることです。
・私たちも、悔い改めのない心で、外側だけを霊的に装い、儀式や奉仕を忠実に行う信仰を、神は見抜いておられることを知らなければなりません。
そのような者がささげる礼拝や奉仕、祈りを、神は忌み嫌っておられます。
この事実を、私たちは真剣に受け止めて、偽善を取り除くことをしなければなりません。
Ⅱ 堕落したイスラエルに「罪の赦しの福音」が宣言される 18-20
1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
1:19 もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。
1:20 しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。
罪を指摘された人間の魂が神に招かれて聞かされるのは、驚くべきことに、「さばき」の宣言ではなく、一方的な罪のゆるしの宣言であった。
・この神学は、申命記で語られた祝福と呪いの神学を超えたものです。
なぜなら、申命記では祝福とのろいを決定する要因は、律法を守るかどうか、つまり人間の善行にかかっていました。
ところがここでは、善を行えないにもかかわらず与えられる、神の一方的な罪の赦しの宣言(福音)を聞いて、感謝するかどうかにかかっているからです。
・イザヤは、新約時代に使徒たちが宣教した福音を、この時啓示されていました。
Ⅲ 神の働きにより、堕落したイスラエルが聖められる 21-31
Ⅲ―1堕落するイスラエルを嘆く。
1:21 どうして、遊女になってしまったのか/忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに/今では人殺しばかりだ。
1:22 お前の銀は金滓となり/良いぶどう酒は水で薄められている。
神に忠実であったイスラエルの霊的堕落を神は悲しまれた。彼らは主を捨てて偶像の神に頼った。異邦人たちと結婚した。神は、イスラエルを「かなかす」「水で割った良い酒」と表現した。いずれも純粋でないもの、薄められたんもので価値のないものである。
・イザヤの時代も、今の私たちの状況と似た霊的に枯渇した状態にありました。
1:23 おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。
彼らは律法を守らないために、正しいさばきを行わない、盗むもの、金もうけのために不正する者になった。そのため貧しい者や弱い者がもっと苦しむことになった。
・人々は自分の欲望をかなえるために、神のさばきを恐れることなく罪を犯し続けていました。
Ⅲ―2彼らから神に立ち返ることはないが、
神からの一方的な働きかけによって彼らを聖める。
1:24 それゆえに、――万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ。――「ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。
1:25 しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。
1:26 こうして、おまえのさばきつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、忠信な都と呼ばれよう。」
人間は「罪」や「不信仰」を指摘されても、「刑罰」を警告されても、たとえ、「罪のゆるしの福音」を聞いても、神に立ち返らない。人間の側から神に立ち返ることは不可能だからです。しかし、神の側から人間を救うことは可能です。
・ここに、人間の全的堕落の真理が啓示されています。
・そして、人からではなく、神の働きによって救われることが啓示されています。
Ⅲ―3悔い改める者は、神の正義の代価が支払われて救われる。
1:27 シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。
「贖い」とは、欲しいものを、代価を払って手に入れることです。
ここでは、罪びとが聖められて救われるために、神の「公正と義」が支払われること言われます。
ここで言われる「義や公正」は人間が努力して作り出すものではありません。
なぜなら人間はそれを完全に実現する能力がないので、実現しようとしても必ず失敗するからです。
では、ここで言われた「罪のゆるしのために支払われた神の義」とは何のことでしょうか。それは「イエス・キリスト」のことであったと私たちは知っています。
・ここにイエスの身代わりの犠牲がささげられることによる「救いの法則」が啓示されている。
Ⅲ―4福音を拒絶する者たちの最後の状態は滅び。
1:28 そむく者は罪人とともに破滅し、主を捨てる者は、うせ果てる。
1:29 あなたが慕った樫の木で恥を見、あなたがたは、みずから選んだ園によってはずかしめを受けよう。・・
1:31 つわものは麻くずに、そのわざは火花になり、その二つとも燃え立って、これを消す者がいない。
罪のゆるしの福音を聞いても神に立ち返らない者たち、偶像を拝み続ける者は、滅び失せると神は警告しています。
・彼らの滅びの状態が、「火のさばき」の様子を用いて表現されています。
<イザヤ1章を読んで、感想>
イザヤ書に、パウロが明らかにした福音が、すでに啓示されていたことに驚きました。神は、時代を超えて、ご自身について知らせ続けておられました。
旧約時代に預言者イザヤに啓示を与えた神と、新約時代にパウロや使徒たちに啓示を与えた神は同じ神です。ここにその証拠を見ることができます。
このことから、イエス・キリストへの信仰は、偽りのない真実なものであると確信できます。この信仰が約束する恵みの成就を、確かに見ることができるのだと確信を強めることができました。