- 1 イエスを信仰する家族の1人、ラザロが死にそうになっていた
- 2 姉妹はイエスに来てくれるよう頼んだ しかしイエスはわざと出発を遅らせた
- 3 弟子たちはラザロの病気は大丈夫なのだ だからイエスはすぐに行かないのだと思った
- 4 イエスはラザロの死を知っておられ、 彼を復活させるためにベタニヤに行った
- 5 ラザロは死んで4日もたっていた
- 6 マルタがイエスを迎えに来た マルタはイエスにうらみごとをいった
- 7 イエスはラザロを生き返らせると言ったが、 マリヤには信じられなかった
- 8 マルタやユダヤ人たちがイエスのもとに来た
- 9 イエスはマルタや人々が泣くのを見て、霊の憤りを覚え、 ラザロの墓の前で涙を流された
- 10 無知な人々のイエスに対する悪口を、心の内で怒られた
- 11 イエスはラザロを生き返らせる
- 11.1 考察1 永遠の命は将来与えられるのではない。 信者にすでに与えられている。その命は決して死ぬことはない。 信者にとって肉体の死は、永遠の命がこの世から次の世に移るポイントにすぎない。
- 11.2 考察2 ラザロの死と復活の事実は、 イエスが復活されること、私たちも復活することを証明する。
- 11.3 考察3イエスは人の側に立たれ、涙を流される神。 イエスは信者を救うために、命を捨てる方。その方に愛される信者は本当に幸い。
- 11.4 考察4 イエスが語る「栄光」の意味とは、神の御心が成就すること。 私たちが考える人間的な栄光とは違う。
- 11.5 考察5 イエスの十字架への道のりにとって、ラザロの復活は重要な出来事だった。 パリサイ人たちが、イエスを殺すことを決める決定的な出来事だった。
イエスを信仰する家族の1人、ラザロが死にそうになっていた
さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。ヨハネ11;1,2
- 彼らはベタニヤに住んでいた。ベタニヤはエルサレムから3kmほどのところにあった。
- マリヤは、ルカ10:38-42に出てくる女性と同一人物。
彼女は罪深い女であったが、罪を赦されたことを心から感謝してイエスの足に香油を塗り、髪でぬぐったのだった。
姉妹はイエスに来てくれるよう頼んだ
しかしイエスはわざと出発を遅らせた
そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。ヨハネ11:3-6
- 姉妹は、ラザロが死にかけていることをイエスに知らせた。
一刻も早くイエスに来ていただいて治してもらう必要があった。 - イエスはヨルダン川の向こう側、ヨハネが洗礼をほどこしていた所にいた。
(宮で石打されそうになり、エルサレムから退いておられた)
マリアたちのいたベタニヤから、近いところにおられた。 - ところが、イエスはわざと彼らのところに行くのを遅らせた。
おられた所になお2日とどまっていた。 - イエスは、ラザロを死から復活させようと考えておられた。
ラザロが仮死状態にあったのではなく、完全に死んでからよみがえったことを誰もが認めざるおえなくするために、彼らのところに行くのを遅らせておられたのである。 - イエスの言葉の意味 ヨハネ11:4
- ラザロをよみがえらせるのは神の栄光のため
ラザロがよみがえることによって、イエスも死から復活することが本当に起こることの証拠になるから。神のことばは1つもたがわず実現することを人々が知ることになるから。
- ラザロをよみがえらせるのは神の子(イエス)が栄光を受けるため
ラザロを復活させることが、パリサイ人たちにイエスを殺すことを決めさせる決定的な要因になることを、イエスは知っておられた。
イエスが十字架で栄光を現わされる時が近づくことになるから。
- ラザロをよみがえらせるのは神の栄光のため
弟子たちはラザロの病気は大丈夫なのだ
だからイエスはすぐに行かないのだと思った
その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」ヨハネ11:7-10
- イエスはもう一度、エルサレムの方に行こうと言われた。
- 夜ではなく、昼堂々と旅をしようではないか。私たちには神の光がある。真理の側に立つ者。神が道中を守ってくださるからと言われた。
イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くので す。」そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。ヨハネ11:11-13
- 「眠っている」とは死んだという意味、「眠りからさます」とは生き返らせることを意味したが、弟子たちはラザロがただ眠っているのだと思った。
イエスはラザロの死を知っておられ、
彼を復活させるためにベタニヤに行った
そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。ヨハネ11:14-16
- イエスは「ラザロは死んだ」とはっきり告げた。
- 死んだラザロを生き返らせるために、彼らのところへ行こうと言われた。
ラザロは死んで4日もたっていた
それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。ヨハネ11:17
マルタがイエスを迎えに来た マルタはイエスにうらみごとをいった
ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」ヨハネ18-22
- マリヤはイエスを非難した。
もう少し早く来てくだされば弟は死ななくても済んだから。 - イエスは、ベタニヤからそお遠くない所におられた。
それなのにイエスは来てくださらなかったからである。 - それと同時に、マリヤはイエスに対する信仰を失っていないとも言った。
イエスが神に願えばどんなことでもかなうと信じていると言った。
イエスはラザロを生き返らせると言ったが、
マリヤには信じられなかった
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」ヨハネ11:23,24
- マリヤは、信者が死後、天国で永遠の命によみがえることを信じていると言った。
彼女には、イエスが今、ラザロを生き返らせることができるとは信じられなかった。
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」ヨハネ11:25,26
- 永遠の命は、死んでから与えられるのではない。それは今すでに始まっている。
今、信者は永遠の命を持っていることを教えた。信者の命は絶えることなく生き続ける。
肉体の死は次の世界への通過点に過ぎない。
彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」ヨハネ11:27
- マリヤはイエスを「神の子キリスト」と告白した。
しかし、この告白は失いやすい確信のないものだったろうと思われる。
マルタやユダヤ人たちがイエスのもとに来た
こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女に ついて行った。ヨハネ11:28-31
- マリヤから知らされたマルタも出て来た。彼女もイエスにうらみごとを言った。
- 葬儀に来ていた人々も一緒にやって来た。
イエスはマルタや人々が泣くのを見て、霊の憤りを覚え、
ラザロの墓の前で涙を流された
マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったで しょうに。」 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。
「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。ヨハネ11:32-35
- マリヤもマルタと同じことをイエスに言う。
- イエスはマルタや人々が泣くのを見て、霊の憤りを感じられた。
- イエスの憤りは、人を支配し苦しめる「死」に対する怒り。
イエスは、人間の側に立って死とた戦う方である。
「死」は全ての人におとづれ、「死」は全ての人を苦しめる。死による離別は人を悲しませる。イエスの憤りは、人を不幸にする死に対する怒り、挑戦であった。 - イエスは、ラザロの苦しみに対して深い同情を現わし、涙を流された。
イエスは人の苦しみを理解し、あわれみに満ちた神であることがわかる。
涙を流す=ギリシャ語でユダクッリュセン・ホ・イエ―スス 涙を落とすと言う意味
この涙は、自分が十字架で死ぬことによって、「死」の力をなきものにするという思いが込められた涙であった。
無知な人々のイエスに対する悪口を、心の内で怒られた
そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。ヨハネ11:36-38
- ラザロをいやせなかったことで、ユダヤ人たちはイエスを疑った。
ユダヤ人たちは、盲人をいやすことができるのに、愛していたラザロの病気はさ治せなかったのかと、イエスの能力を疑った。 - イエスは、このことに対して心の内で怒りを感じた。
イエスは、ご自分を疑って信じない者に対しては怒られる神。
イエスはラザロを生き返らせる
イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」ヨハネ11:39,40
- やはりマルタはイエスを信じ切れていなかった。
「今もイエスが願えばどんなことでも叶う」とか「あなたは神の子キリスト」と告白していたが、イエスが死人を生き返らせることができるとは思っていなかった。
そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしを お遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせな さい。」ヨハネ11:41-44
- イエスはラザロが生き返ったので、神に感謝の祈りをした。
死んだラザロが生き返ると確信して先に感謝したから、ラザロが生き返ったのではない。
イエスは祈りが答えられたから感謝したので、与えられる前に与えられたと感謝したから祈りが答えられたのではない。この違いは重要。必要が与えらえたと確信して祈れば、与えられるのではない。そのように勧めるミニストりィーは間違っている。 - ラザロは生き返って墓から出て来た。
当時、埋葬のとき没薬や香油を体に塗ってから布でくるんで墓に納めた。洞窟に台座があってそこに安置した。ラザロは手と足を布に巻かれたまま墓から出て来た。おそらくピョンピョンと跳ねて出てきたのであろう。彼は完全にいやされて健康体で出て来たと思われる。
考察1 永遠の命は将来与えられるのではない。
信者にすでに与えられている。その命は決して死ぬことはない。
信者にとって肉体の死は、永遠の命がこの世から次の世に移るポイントにすぎない。
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」ヨハネ11:25
永遠の命は、死んでから始まるものではありません。イエスを信じて救われたとき、私たちは命を受けます。この世の命は、いつか必ず終わりが来ます。しかし信者が受けた神の命は永遠ですから、終わりがありません。ですから、肉体の死を経験しても、私たちは死ぬことがなく生き続けるのです。ただ生きる場所が変わると言うことです。
信者が救いを失うという説があります。しかしイエスのこの言葉から考えると、そのようなことは起こりえないことがわかります。「信じた者は永遠に生きる、生きていて信じる者は死ぬことがない」とは、生きている信者の魂は滅びない、必ず救われて天国に入ると言っているからです。
ですから、信じていたけれど信じることを止めたというなら、初めから救われていなかったと考えるべきです。そして、本当に救われた人、新生した信者は救いの確信を持つことができます。
考察2 ラザロの死と復活の事実は、
イエスが復活されること、私たちも復活することを証明する。
マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。ヨハネ11:21,22
マルタは、イエスが神に願えば、神は何でも与えてくれると信じていると告白した。
この言葉はラザロをいやしてくれなかったイエスを非難したものの、自分はイエスが神の使いだと信じていることを告白することばでした。
しかし、この彼女の告白は本当になりました。
墓に入れられて4日もたったラザロが、イエスが神に願うことによって生き返ったからです。
イエスが死人が生き返ることを祈るなら、神はそのことをかなえてくださいました。
ラザロは完全に死んでいました。誰もそれを否定することはできません。
そのラザロをイエスは生き返らせたのです。
ラザロの復活の事実は、キリストが復活することの証拠になります。
そして、私たち霊的に完全に死んでおり、自分を救うことができない絶望的な状態にある者たちも、イエスが願うなら生きた者にされる、永遠の命が与えられるという証拠です。
イエスもよみがえられて、弟子たちに現れました。新しいからだを持っておられました。
私たちも、死んでもよみがえります。新しいからだで永遠に生きるのです。
考察3イエスは人の側に立たれ、涙を流される神。
イエスは信者を救うために、命を捨てる方。その方に愛される信者は本当に幸い。
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。
「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。ヨハネ11:33-35
イエスは人となられた神です。ここでは、イエスは人間的な感情を現わされています。
マルタやユダヤ人たちがラザロの死を泣いているところを見て、憤りを覚えられました。
これは、人を支配している「死」に対して、怒りを覚えられたからでした。11:33神が人間の死に深く同情して悲しんでおられるからです。
そして、イエスの涙は、「死」を滅ぼすという、強い決意の現れでした。
事実、ラザロを生き返らせました。そしてご自身が死ぬことにより、信じる者の「死」を滅ぼし、永遠に生きるものに変えられたのです。
この聖書個所から、イエス(神)がどのような方かを知って、私は感動しています。
イエスは、私たちの側に立ってくださる方、私たちを苦しめるもの(死)と戦われる方。
私たちの死の苦しみに深く同情される方です。
私たちの死を滅ぼすために、ご自身の命を犠牲にして、私たちに命を与えてくださる方です。
このような神にに守られて生きることは本当に幸いなことだと、私は感動しました。
考察4 イエスが語る「栄光」の意味とは、神の御心が成就すること。
私たちが考える人間的な栄光とは違う。
この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。ヨハネ11:4
ラザロを生き返らせることで、人々はイエスや神を賛美するでしょう。
しかし、人々がイエスをほめたたえるためにラザロを復活させに行ったのではありません。
ラザロを生き返らせる奇跡を起こすことで、自分が十字架上で死ぬ時期を早めるためでした。
十字架のあがないが完成するなら、神の約束が成就します。救い主を信じることで罪が赦される道が完成します。それだからイエスはラザロの復活が神とイエスにとって「栄光」のためであると言われたのです。
私たちは、伝道や事業で成功すること、金持ちになること、健康でいることなどが神に「栄光」を帰すことだと考えます。そして、イエスのために成功者になれと励まされます。信仰が足りない、すでに受けたと信じよ、確信をもって祈れと言われます。しかしこれは「栄光」の意味を取り違えたための間違った生き方です。神は私たちが幸せになることを望んでおられますが、いつもこの世の成功者であれとは願っておられません。
イエスが求めた「栄光」は、神の御心が成就すること、自分がそのために用いられることでした。私たちは人間的なレベルで「栄光」を理解していないでしょうか。聖書に書かれた本当の意味での神の「栄光」を求めて行きたいものです。
考察5 イエスの十字架への道のりにとって、ラザロの復活は重要な出来事だった。
パリサイ人たちが、イエスを殺すことを決める決定的な出来事だった。
ラザロの復活の後、長老たち、パリサイ人たちは議会を開き、イエスを殺すことを決めた。
ラザロの出来事は、イエスの十字架を実現させる決定的な理由になりました。