- 1 わたしの父は天地創造の神 イエスは、人と神をつなぐために遣わされた「救い主」
- 2 父は、イエスにとどまらない者を御国から追い出す
- 3 イエスにとどまる者には、さらに実を結ばせるために訓練する
- 4 イエスにととどまらなければ、実を結ぶことはできない
- 5 イエスにとどまるなら、何でも神に求めなさい あなたの願いをかなえることで神は栄光を受けられるから
- 6 イエスの愛の中にとどまるとは、イエスの戒めを守ること そのとき、信者の喜びとイエスの喜びが一致するようになる
- 7 イエスの戒めは、私たちが互いに愛し合うこと 戒めを守る者は、イエスのしもべではなく友である
- 8 あなたがイエスを選んで信じたのではない イエスがあなたを選んで弟子にした
- 9 あなたがたは迫害されることを覚悟しなさい(予告)
- 10 イエスが死んで復活したからには、 迫害者は自分へのさばきが不当だと言い逃れできなくされた
- 11 聖霊が神についての知識を教えてくれる
- 11.1 考察1 私たちのなすべきことは、イエスにつながることだけ。 そうすれば、イエスから神の賜物が与えられる。その結果、私たちは実を結ぶことになる。
- 11.2 考察2 「あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んで弟子として任命した。」私たちは自分でイエスを選んで弟子になったのではない。イエスに選ばれて弟子としての召命を受けた。神が私を弟子に任命したのなら、私の弟子としての立場はゆるがない。このことが、迫害を受け、失敗を犯しながらもイエスをあかしする力を与えてくれる。
- 11.3 考察4 「わたしを愛する者は、わたしの戒めを守る。」 救いは、行いによらず信仰によって与えられる。そして、真の救いは良い行いを生じさせる。神を愛すると言うだけで従わない信仰は「にせもの」。
わたしの父は天地創造の神
イエスは、人と神をつなぐために遣わされた「救い主」
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。ヨハネ15:1
父なる神はブドウ園の持ち主で、そこから産出するぶどうは彼の所有で自由にできる。ここではブドウ園をこの世界、ブドウの木がイエス、ぶどうがこの世に生かされている人々を比喩している。
- イエスは、神と人とをつなぐ、本当の仲介者、救い主。
ぶどうの木が枝に栄養を与えるように、イエスは、人々に神からの命を与えるために来られた。
イエスは、人と神をとりなすために、この世に来られた「メシヤ=救い主」。 - イエスが父と呼ぶ神こそが、この世界を創造した神。
イエスは父なる神がこの世界の創造主であると宣言する。
この世界に生きる全ての人たち、イエスを信じない人も含めて、父なる神の支配の下にある。
父は、イエスにとどまらない者を御国から追い出す
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。ヨハネ15:2.3
- イエスを信じない者は、天国に入ることがない。
彼らは、死後、罪がさばかれ、完全に神から引き離された世界に入れられる。 - イエスを信じると言っても、本当に信じていなかった者たちも同様なさばきを受ける。
わたしの枝で実を結ばない者
イエスへの信仰を告白していたが、信仰がにせものだった。そのため、イエスの教えを守らず、イエスが望む実を結ぶこともなく、かえって違った実を実らせた者たちのこと。
イエスにとどまる者には、さらに実を結ばせるために訓練する
実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。ヨハネ15:2
- イエスの教えを守る信者たちに試練が与えられ、彼らはさらに実を結ぶようになる。
ぶどうの木がもっと多くの実をつけるために、農夫が刈り込みをするように、イエスに従って実を結んでいる信者たちがさ、らに多くの実を結ぶために、神は彼らに苦難を経験させる。
だから、主に従う信者は苦難に会っても恐れる必要はない。それらは訓練として、彼らを聖めるという良い目的をもって、神から送られて来ているものだから。 - 神は信者が実を結ぶために、彼らを困難な状況に入れて訓練する。
試練にあわなければ、その信仰が本物かどうかを知ることはできない。
そこで神は信者に試練を経験させて、サタンの誘惑に惑わされず、神に従うかどうかを試す。
また試練は、信者に自分の弱さを知る機会を与え、さらに神に頼る者へと信者を成長させる。
イエスにととどまらなければ、実を結ぶことはできない
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあな たがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを 離れては、あなたがたは何もすることができないからです。ヨハネ15:4,5
- イエスにつながっていなければ、私たちは実を結ぶことはできない。
イエスにつながるとは、聖霊を受けてイエスに属する者になること。 - 「実を結ぶ」とは、内なる聖霊の働きにより、生活や人格、その人の働きの上に、キリストの御心が現わされていくこと。
- イエスを通して神の命が私たちに流れ来る。私たちは生きる者とされ実を結ぶ。
イエスから離れるなら、私たちは霊的に枯れて永遠の滅びに至る。
イエスが木で私たちが枝。枝は木から養分を与えられて実を結ぶ。そのように、人はイエスにつながることで、イエスから恵みを受け、霊的に生きた者とされ聖霊の実を結ぶ。
枝が木から離れれば養分が与えられず枯れる。それと同じように、私たちがイエスを信じることなく、イエスと関係なく生きるとき、永遠の滅びに至る。
- イエスに聞き、イエスに従って行う者は多くの実を結ぶ。
キリスト者であっても、イエスに従わない者は、イエスの御心を現わすことができない。
イエスに聞き従う者たちは、彼らの人格や仕事、生活の上にイエスの御心を多く表すようになる。
イエスにとどまるなら、何でも神に求めなさい
あなたの願いをかなえることで神は栄光を受けられるから
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのために それがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。ヨハネ15:7,8
- イエスを愛して戒めを守る者たちに、必要なものを神に願いなさいと言われている。
「何でもほしいものを」とは「神の栄光のために必要なもの」という意味。誤解してはいけない。 - イエスにとどまる者の願いは、神が栄光を受けられること。神があがめられること。
イエスに真に従う信者たちの願いは、自分の栄光ではなく、神がすばらしいと誉められること。
だから、彼らは神が栄光を取られるために必要なことを神に願う。 - 彼らの祈りがかなえられることによって、神が栄光を受けられることになる。
これは神にとっては喜ばしいこと。だから信者に「何でもほしいものを求めなさい、そうすればかなえてあげよう」と言われている。
イエスの愛の中にとどまるとは、イエスの戒めを守ること
そのとき、信者の喜びとイエスの喜びが一致するようになる
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中に とどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。ヨハネ15:9-11
- 「イエスを愛の中にとどまる」とは、「イエスの戒めを守る」こと。
- イエスを愛すると口で告白しても、イエスの戒めを守らない者は、イエスの愛の中にいない。そのような信仰はむなしい。
- イエスを愛し、イエスの戒めを守る者の喜びと、神の喜びは1つである。
神が喜ぶことを信者が願い、信者の願うことをを神が喜んでかなえる。
神の愛の中にとどまる信者の喜びは、神の喜びと一致している。
イエスの戒めは、私たちが互いに愛し合うこと
戒めを守る者は、イエスのしもべではなく友である
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞 いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。ヨハネ15:12-15
- イエスは、弟子たち信者たちを愛して、彼らの罪をゆるすために死なれた。
イエスが示された愛ほど大きなものはない。これは人間には真似できるものではない。 - 救われた者たちはイエスを愛している。
イエスが自分たちに身に余る恵みを与えてくださったから。神にさばかれて当然だった自分、神に敵対していた自分を、神があわれんで救ってくださったから。 - イエスを愛する人はイエスの教えを守る。
なぜなら、神の戒めを破ることはイエスを悲しませることになるから。
イエスからいただいた恵みを感謝する者にとって、神を悲しませることが一番つらいこと。
だから信者は、さばきが怖いからではなく、神に従いたいから神の戒めを守る。 - イエスは信者が愛し合うようにと言われた。
「信者は助け合い、励まし合うように」これがイエスの戒め。
イエスを愛する信者は、イエスへの愛から同じ信仰を持つ者を愛する。
同じ御霊を持ち、同じ信仰を持つ者は、自然に愛し合い助け合う。
これをしないほうが違和感がある。 - イエスと信者たちの関係は「主人とむちを恐れるしもべ」「主人の命令に強制的に従わせられるしもべ」ではない。それは、感謝と愛で結ばれた友の関係。
信者はイエスの教えを知っており、それを強制的ではなく自発的に守ることを喜びにしているから。
あなたがイエスを選んで信じたのではない
イエスがあなたを選んで弟子にした
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。ヨハネ16:16
- イエスがあなたを選んで弟子にした。あなたがイエスを選んで弟子になったのではない。
- 神は、なぜこのような召しの方法をとられるのか。
それは、神が選んで任命した弟子たちが世界に出て行って多くの人々を救うため。
弟子たちの働きに大きな成果をあげさせるため。たくさんの信仰者を起こすため。
キリストが再臨する時まで、信者が起こされ続けるため。 - 弟子たちが「イエスの名によって」求める祈りに父なる神は答える。
他の神々の名で祈っても父は聞かない。
このときから、「イエスの御名によって祈る」ことが始まった。
イエスの名を通して祈る祈りだけが天に届く。
この方以外の神の名で祈っても父なる神は聞いてくださらない。
あなたがたは迫害されることを覚悟しなさい(予告)
もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがた を選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。ヨハネ15:18,19
- イエスも激しい迫害を受けた。弟子の同じように迫害されるだろう。
しかし、あわてたり、落胆して信仰を捨ててはならない。
このことは、必ず起こることだから。 - あなたがたはイエスの戒めを守って生きる。神に属する者になった。
世(未信者)と同じように罪を犯すことができなくされた。
だから、信じない者たちにとって、信者たちの存在は「じゃま」でしかない。
なぜなら、自分たちの罪を意識させられるから、自分たちの生き方が神の怒りを買うことを自覚させられるから。だから世はあなたがたを憎んで排除しようとする。 - イエスがあなたを選んで、ご自分の民とした。だからあなたの立場は変わることはない。
あなたがたは神との平和得て、心に安息をいただいた。
未信者にはこの平安がない。だから彼らはあなたがたを迫害する。
不信仰な世(人々)は、あなたがたを嫌って当然。
彼らには、あなたがたが持っているような神との平安が与えられていないから。
彼らは、人がうらやむ名声や富を所有していたとしても、心はいつも不安で恐れに満たされているから。なぜなら、富や名声があれば、それを失うことを恐れるし、貧しく低い立場にあるなら、不安や怒りをおぼえるので、どのような立場であっても彼らの心に平安がないから。
だから、あなたがたの心が平安で、神の守りを信じていつも喜んでいることがおもしろくなくて憎む。
しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害し ます。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。ヨハネ15:20
- 人々はイエスを迫害し、殺した。
弟子は師匠と同じ扱いを受けることを覚悟しておきなさい。
しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。ヨハネ15;21
- 人々は「本当の神」「この天地を創造され、自分たちを造った神の名」を嫌う。
なぜなら、この世に本当に神がおられるなら、自分たちにとって大変都合が悪いから。 - 自分たちが隠れて犯している罪がさばかれるから。
そして、死後に罪の刑罰を受けることになってしまうから。
イエスが死んで復活したからには、
迫害者は自分へのさばきが不当だと言い逃れできなくされた
もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。ヨハネ15:22
もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。ヨハネ15:24
- 今からは、イエスを信じなかったことの言い訳はゆるされない。
イエスの十字架と復活によって、神がはっきりとご自分の存在を人間に知らせたのだから。
もし、イエスがこの世に来られず、教えもしなかったら、イエスを信じなくても罪はない。
しかし、神はイエスとなられて「この世」に生まれ、十字架の死と復活を実現された。ご自分が確かに神である証拠をこの世に残された。このことが成就した今、イエスを信じない人は、信じなかった理由を神に言い逃れできなくされた。神が「ご自分が存在すること」を明らかな証拠を示して、私たちに知らされたから。
わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。ヨハネ15:23
- イエスを憎むことは、天地を創造された神を憎むこと。
自分を守ってくれている本当の神を憎むこと。
イエスは「ご自分と父なる神は1つです」と証言された。だから、イエスを嫌って憎む人は、この世界を造った神を嫌って憎む人といえる。イエスを信じない人でも、何らかの信仰心があって「神はいる」「神に守られる」と信じる人は多い。ここでは、イエスが神であることを否定することは、自分の創造主で、自分を守ってくれている本当の神を憎んでいることになると言っている。
これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。ヨハネ15:25
- イエスを「天地創造の神」と信じることのほうが理屈が通る。
イエスが神であるという証拠は復活だけではない。
イエスの生涯を通して、旧約聖書の預言が300以上も成就していること。
異なる時代、異なる身分の人々が書いた聖書66巻の見事な調和。
聖霊が降る前と後の弟子たちの劇的な変化。などなど。
イエスを神と認めるほうが納得がいく。 - イエスを「神と信じない」ことほうが理屈が通らない。
彼らは証拠とは関係なく、信じたくないから信じないだけ。
しかし、人々はイエスを神と認めない。
それは、彼らがイエスを神と認めたくないからです。
証拠があっても、イエスが神であってはならないから認めない。
だから、彼らは「理由なくわたしを憎んだ」とこの聖句は言っている。
聖霊が神についての知識を教えてくれる
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。ヨハネ15:26
- 御霊が神のことば(聖書)を解き明かしてくれる。
私たちが聖書を読むとき、聖霊がその意味をわからせてくれる。 - 聖霊はイエスについて証言する。
イエス(神)がどのような方なのか、神について正しい理解を与えてくれる。
あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。ヨハネ15:27
- 聖霊がイエスについてあかしするように、使徒たちもイエスについて証言する。
使徒とは、イエスから直接教えられた人、イエスの死と復活を見た人。
彼らが伝えるイエスについてのあかしほど重要な知らせはない。 - 使徒たちの証言が、後に続く信者たちの信仰の土台になり、引き続き信者が起こされ続ける。
考察1 私たちのなすべきことは、イエスにつながることだけ。
そうすれば、イエスから神の賜物が与えられる。その結果、私たちは実を結ぶことになる。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを 離れては、あなたがたは何もすることができないからです。ヨハネ15:4,5
実を実らせるのは神のわざ。 信者のわざではない。
驚かれるかもしれませんが、私たちが実を結ぶために、自分たちの側でできることはありません。
イエスは、神が喜ばれる実を結ぶために、神とつながり、神の賜物を受けなさいと言われたからです。
イエスはその秘訣を短いことばで「ご自分につながることだ」だと言われました。
また「ご自分を離れては何もできないと」言われました。
よく考えてみると、私たちの内(心)に良いものを見つけることはできません。なぜなら私たちの心に罪の影響を受けていない領域はないからです。また、私たち生まれつき備わるものを、神が満足なさる100%完全なレベルにまで聖めることも不可能だからです。
ですから、私たちは実を結ぶために、全ての良い賜物(愛、平安、寛容、親切、柔和、自制など)を、神から受ける必要があるのです。
私たちは、イエスを信じ、イエスに従うとき、これらの善き賜物を神から受けると上記の聖句は語っています。イエスにつながる信者に、聖霊がこれらの良き賜物を実らせてくださるからです。
ですから、実を結ばせることは神のわざです。私たちはいっさい誇ることができません。
自分の内を見る、人と比べる人が多い。このことを聖書は勧めていない。
霊的成長は神のわざ。自分から目を離し、イエスにつながることだけに心を向けるべき。
自分の内を見て、実を数える。自分の実を見て誇る。実が実っていないと焦る。
また、人の実と比べて落ち込む。これらはみな「まとはずれ」な歩みです。
聖書は「自分の内を見なさい」「兄弟姉妹を見なさい」とはすすめていません。
そうではなく、「イエスにつながりなさい」「イエスの教えを守りなさい」と言っています。
自分を見るのではなく、神を見る。自分の内を探るのではなく、神をもっと深く探り、それによって知らされた神の真理によって生きる。このことだけに心を向けることが重要です。
イエスが実らせる実は、これらのことの結果として実るものだからです。
考察2 「あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んで弟子として任命した。」私たちは自分でイエスを選んで弟子になったのではない。イエスに選ばれて弟子としての召命を受けた。神が私を弟子に任命したのなら、私の弟子としての立場はゆるがない。このことが、迫害を受け、失敗を犯しながらもイエスをあかしする力を与えてくれる。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。ヨハネ16:16
神に選ばれたから、自分はイエスの弟子になった。
自分がイエスを選んだのではなく、イエスが私を選んで「弟子」に任命したのです。
この違いは大きいです。自分の選択でキリスト者になったのではなく、神の選びによってキリスト者にされたのであれば、自分に与えられた救いの立場は確実です。
ただし、これは聖霊によって新生した、真実な信仰を持つ信者に当てはまることです。
自分勝手に信じている自称クリスチャンには当てはまりません。
なぜなら、彼らこそ自分で選んでイエスを信じている人たちだからです。
神は選んだ者を最後まで見捨てない。イエスは弟子たちに聖霊を送った。
聖霊は彼らと共にあり、彼らが使命を全うできるように助けた。
神は選んで弟子とした信者を決して見捨てることはありません。最後まで彼らを守り導きます。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」へブル13:5
その証拠に、イエスは弟子から去って行く時、聖霊を送ると約束されました。
聖霊が弟子たちに宿り、弟子たちを助けるためでした。
世界に出て行ってイエスを伝えるという、弟子たちの使命は困難を極めました。
しかし、彼らは聖霊の助けを受けて最後まで耐え忍んで、自分の働きを全うしました。
使徒たちのうち11人は、迫害のために殉教し、ヨハネ1人だけは島流しにされました。
イエスへの愛とか、自分の使命への熱意などの人間的な動機ではこのようなことは不可能です。
やはり、聖霊の助けがあったからこそ、彼らは死に至るまで宣教ができたのでした。
私たちも同様です。キリスト者として生きるとき、多くの困難を経験します。しかし、私たちは世に勝った者です。最後には勝利の街宣に加えられます。聖霊がたちを励まし、力づけて、私たちに与えられた使命が全うできるようにしてくださるからです。
弟子たちは、神からの召しによって宣教をしている自覚をもっていた。
彼らは、天国に入る確信をもって任務を果たしていた。
弟子たちは、イエスに選ばれて弟子に任命され、世界宣教の使命を与えられました。
彼らは、自分たちの「救いの確信」をもって伝道をすることができました。
彼らは、自分の救いについて疑う必要などありませんでした。
私たちも「救いの確信」をもって、イエスを伝え、キリスト者として生きることができます。
困難もあるでしょう、失敗もするかもしれません、しかし「弟子としての立場」「救いの確信」はゆるぎません。このことは、私たちに困難に耐える力を与えてくれます。また、失敗しても立ち上がる勇気を与えてくれます。
そして、聖徒たちの失敗ですら、神は益になるように働せてくださると聖書は語っています。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28
考察4 「わたしを愛する者は、わたしの戒めを守る。」
救いは、行いによらず信仰によって与えられる。そして、真の救いは良い行いを生じさせる。神を愛すると言うだけで従わない信仰は「にせもの」。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。
イエスを「信じる」「愛する」と告白する人は多いが、イエスに「従う」人は少ない
集会で、「イエスを信じます」「愛します」告白し、涙を流す人は多くいます。
しかし、そのような人たちが教会の外では、この世と変わらない価値観、人生観で暮らしていることを目にします。
彼らにとって、イエスへの信仰は霊的なエクスタシーを感じる機会でしかないかもしれません。
また、別の人々は、教会で友人たちと楽しくおしゃべりをするために教会に通っている人もいます。
彼らに共通することは、口ではイエスを愛するといいながら、イエスの教えに従わないということです。
本当の信仰は、イエスを愛することに、イエスに従うことがともなう。
しかし、本当にイエスを愛する人は、イエスの教えを守ります。(みことば)
彼らはイエスの教えをもっと知りたいという願いを持っています。そのために、聖書を読みます。説教を聞きます。彼らは霊的な栄養を欲しているからです。
そして、神を知ることによって教えられた「神の戒め」を実行します。
イエスを愛すること、イエスの教えを守ることが、本当の信者の特徴です。
そしてイエスは、このような信者が実を実らせることを喜ばれます。
そして「わたしに求めなさい。あなたがたのためにそれがかなえられる」と語られています。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのために それがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。ヨハネ15:7,8
「にせもの」「口さきだけ」の信仰では、天国に入れない。
ですから、口だけの信仰はむなしいものです。そのような信仰は最後には天国に入ることができないと、今日の聖句は警告しています。