- 1 イエスが去って行くことは益になる 聖霊が信者に与えられるようになるから
- 2 聖霊は「罪」「義」「さばき」について真実をあばき 世に責任を問う
- 3 私は去って行くが、もう一度会う(復活の預言)
- 4 その日には「私の名によって」何でも求めなさい
- 5 弟子たちはイエスが神だと告白した しかしイエスは彼らの弱さを知っていた
- 6 イエスは、神を殺す不信仰な世に勝利した
弟子たちもこの世では困難があるが、最後には勝利する
- 6.1 考察1 イエスは残される弟子たちのためにたくさんの恵みを約束した。聖霊を与え、ご自分の名で祈ることを勧め、彼らの勝利を約束された。イエスが去って行くことにより、信者に神から特権が与えられた。だから恐るれることなくイエスの弟子として生きて行こう。
- 6.2 考察2 イエスは人々の告白や決心が頼りにならないこと見抜いていた。なぜなら、人を堅く信仰にとどまらせるのは御霊だから。人の魂を救うのは人の決心ではなく御霊だから。
- 6.3 考察3 御霊は、罪、義、さばきについて人々の理解が間違っていることを明らかにし、彼らに誤りの責任をせまる。このメッセージは信じない者を怒らせるかもしれない。しかし信じる者たちの心はさされて神に立ち返る。だから伝えなければならない。
イエスが去って行くことは益になる
聖霊が信者に与えられるようになるから
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたが たのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。ヨハネ16:7
- イエスが去って行くことは信者にとって益。聖霊が信者に降るから。
イエスが地上を去る以外に、信者に聖霊を送る方法はない。
イエスがこの世のを去らなければ、聖霊は降らない。
そして、イエスが見える形で弟子たちの前にいて助けてくれるよりも、聖霊が、時と場所を超越して、あらゆる信者に恵みを施してくださるほうが益が大きい。
聖霊は「罪」「義」「さばき」について真実をあばき
世に責任を問う
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。ヨハネ16:8
「世」とは何か。
私たちはみな罪びととして生まれる。そのため、イエスの恵みによって霊的に新しくされるまでは、全ての人は創造主なる神に敵対していると聖書は語る。つまり「世」とは、罪びとたちで構成される私たちの世界をさす。福音を聞いて信じるようになる罪びとたちと、福音を聞いてもかたくなに否定する罪びとたちの両方をさす。
「認めさせる」の意味。
ギリシャ語では「罪を責める、あばく」という意味の動詞
聖霊は、宣教のことばを通して、人々の罪をあばき、罪の責任を迫る。
聖霊が人に誤りを認めさせる。聖霊によって信仰が与えられる。
だから、私たちの信仰は神から与えられたもの。
聖霊が、聞く人の心を新しくすることによって、罪を認めさせ悔い改めさせる。
これが、主が福音を通して人々を悔い改めに導く方法。
何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。2コリント3:5,6
悔い改めは聖霊の働きによる。聖霊が宣教の声を通して人々の心に入り、心を新しくする。その結果、信じる人が起こされる。だから私たちの内に「神の民」の資格を持つ理由はない。それは神からのもの。私たちはこの資格を聖霊によって与えられたからだ。
しかし、福音を聞いても信じる人と信じない人に分かれる。
- 福音を聞いて心から感動させられ、自分の罪を神が断罪していることに同意する人。
これらの人は悔い改めてイエスを信じる。 - 神の断罪を聞いても、それに同意せず、反抗し続ける人。
彼らは神からの警告を聞いて上でそれを退けた。彼らは神からさばきを受けることになる。
しかも、彼らには言い訳の予知はない。
- 聖霊は世の人々に罪があることを「あばき」「責める」。
「聖霊」は人間が全的に堕落している現実をあばき、その堕落の責任を問う。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。ヨハネ16:9
イエスだけが人と神を和解させる方。イエスを信じるまでは、私たちは神から切り離されている。
全ての人は罪びととして生まれる。本性が腐敗しており、神にさばかれる運命にある。
イエスによる罪の赦しにあずかることなくして、私たちに正しさはない。
- イエスによって与えらえる義だけが、私たちを救うと聖霊は知らせる。
また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。ヨハネ16:10
聖霊は、キリストによって与えらえる義だけが、私たちを死から命に導くと知らせる。
私たちのうちに義はないと上記で知らされた。私たちには罪とさばきが待っているだけである。
しかし、福音は絶望的状況にある私たちを救う。
キリストが父の所に昇られたことで、キリストの義を私たちが着ることができるようになった。
イエスを信じる者たちが、罪びとでありながら、神に義と見なされる救いの道が用意された。
この恵みのみが、私たちが救われる唯一の道だと聖霊は知らせる。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ローマ4:25
この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――エペソ4:10 - 神が将来サタンをさばき、この世で神の義がなされる時が来ると聖霊は知らせる。
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。ヨハネ16:11
サタンが支配するこの世の状態は混乱である。そのため神の義が完全に行われず、神の秩序が実現しない。しかし将来、イエスがサタンの独裁権を奪われる時が来る。その時には、この世は正しい状態に回復され、神の義がなされる世界になると聖霊は知らせる。これはイエスが再臨された後の状態。この希望が与えられているので、私たちは今の混沌の時代を、忍耐して主のわざに励むことができる。
私は去って行くが、もう一度会う(復活の預言)
あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあな たがたから奪い去る者はありません。ヨハネ16:22
- 弟子たちにご自分の死と復活を預言された。
弟子たちがイエスの復活を目撃するとき、イエスのことばを思い出すため。
イエスはこれから祭司長たちに捕らえられ、翌日には十字架にかけられて死ぬ。
神であるイエスは、これらの出来事が自分に起きることを知っておられた。
その上で弟子たちがイエスの死によってうろたえることがないために
「私は死ぬが生き返る。あなたがたに再び会うだろう」と預言された。 - 復活のイエスに再会した弟子たちの喜びは永遠に続く、もはや失うことはない。
弟子たちをイエスから引き離すものは何もない。イエスは永遠に弟子たちと共にある。
イエスが生きていたとき、弟子たちはイエスに守られていた。
食べ物がないとき、力不足であったとき、イエスに助けていただいた。
すべてにおいて、彼らはイエスに頼っていた。
ところが彼らが頼りにしていたイエスが十字架にかけられて死んでしまった。
残された弟子たちの落胆は大きかっただろう。
しかし、復活されたイエスは永遠に弟子たちと共にある。聖霊として弟子たちの内に宿ってくださる。一時も離れることなく、弟子たちを助けていてくださる。だから、彼らの喜びは永遠に失われることはなくなった。しかもこの喜びは、この世のいかなる出来事によっても、迫害や困難、死によっても奪われることがない喜びである。
その日には「私の名によって」何でも求めなさい
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。ヨハネ16:23,24
- イエスは「ご自分の名によって」祈ることを勧めた。
神の名は神聖過ぎて、口に出すこともためらわれた。弟子たちは神の名で祈ったことがなかった。
神は、ユダヤ人たちに父なる神「ヤハウェイ」の名を知らせた。
アブラハムが神の名を聞いたとき、神は「エゴー・エイミー」「私はある」と答えらえた。
神はご自分の名を隠される。
ユダヤの社会では、神の名はあまりにも神聖なため、口にすることさえ不敬虔とされ、神の名の発音が失われしまうほどであった。完全な神と罪人である人間との隔りはあまりにも大きかった。そのため、人々が直接神に祈りをささげることはなく、祭司がとりなしの祈りをささげた。ところが、イエスは「イエスの名」によって各人が直接神に祈るようにと言った。これは驚くべき変化である。 - 「イエスの御名」による祈りだけが天地を創造された神に届く祈り。
イエスが復活されたことによって、私たちは「イエスの名」によって、各人が直接、神に願いを求めることができるようになった。イエスが私たちの祈りを父なる神にとりなしてくださるからだ。
イエスは「イエスの名で祈る祈り」に答えようと言われた。つまり、父なる神は「他の神々の名」で祈る祈りを聞いていないということ。たとえ、それらの名前で祈ってもただの自己満足にすぎないということ。神にはいっさい届いていないからである。 - イエスは「弟子たちの喜びが満ちるために与えよう」と約束された。
イエスは弟子たちに、彼らの祈りに答え、彼らの必要を満たそうと約束してくださった。神は、イエスに忠実に従う人たちが、生きていくために必要な物を与えることができるし、与えないはずはない。また彼らが伝道するときに助けないはずがない。
私たちは上記のみことばから、神に敵対する人々に囲まれながらも、イエスの約束を確信して信仰をつらぬいていこうではないか。
弟子たちはイエスが神だと告白した
しかしイエスは彼らの弱さを知っていた
弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」ヨハネ16:29,30
- 弟子たちは、イエスにから「たとえ」ではなくはっきりと聞いた。
弟子たちは「イエスがこの世に来られた神だ」と信じる告白をした。
イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありま せん。父がわたしといっしょにおられるからです。ヨハネ16:31,32
- しかしイエスは彼らの告白を信用しなかった。
彼らがもうすぐ自分を捨てて散り散りになることを知っておられたから。
イエスのことば通り、弟子たちはイエスが捕らえられたとき散り散りになって逃げた。イエスが十字架にかかられたときも、イエスのそばにいることはなかった。イエスが復活された日、彼らは迫害を恐れて隠れて集まっていた。
イエスは、神を殺す不信仰な世に勝利した
弟子たちもこの世では困難があるが、最後には勝利する
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇 敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネ16:33
- イエスは、落胆する弟子たちに希望を与えた。
- イエスに従う者は世に勝利する。迫害されても信仰を全うする。宣教を進める。
サタンの策略すら神の計画のために用いられる。
サタンは神のゆるしなしに信者にふれることはできないから。
祭司長たちはイエスを迫害して十字架にかけて殺した。彼らは勝利したように思っただろう。
ところが、イエスは死から復活された。彼らの策略が「イエスの御わざ」を完成させることになってしまった。このように、この世(サタン)は神を嫌う。神に従う人たちを排除しようとする。イエスの弟子たちと同様に、忠実に主に従う信者たちは迫害や困難を経験する。しかし、イエスがサタンの計略を、ご自身の御わざの完成に用いられたように、キリストの弟子たちへの迫害は、最後には神の計画を推し進めることになる。神が信者を守っておられるため、また、サタンは神の許可なしに信者にふれることができないためだ。結局サタンは、信者の信仰を滅ぼす決定的な打撃を加えることができないからだ。
ただし、これは本当に救われた信者、キリストの弟子たちについて言えること。信仰を飾りとか慰めだけのために信じている人たちには適応できない真理であることは知っておく必要がある。だから、私たちは勝利の確信をもって「迫害」や「困難」をものともせず、主のわざを進めていこうではないか。イエスはこのみことばから、そのことを勧めておられるのだから。
考察1 イエスは残される弟子たちのためにたくさんの恵みを約束した。聖霊を与え、ご自分の名で祈ることを勧め、彼らの勝利を約束された。イエスが去って行くことにより、信者に神から特権が与えられた。だから恐るれることなくイエスの弟子として生きて行こう。
イエスはご自分の務めを終えて天に昇られたが、その後のことは弟子たちに任せて去って行かれたのではない。自分は教えを守ること、伝えることは残された弟子たちに任せたと言って去られたのではない。
イエスは聖霊として信者に宿り、この世に残されている弟子たちをを助け続けておられる。
弟子たちの祈りを、父なる神にとりなし、弟子たちの願いをかなえてくださっている。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめ きによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるから です。ローマ8:26,27
イエスの弟子たちは、主に従うこと、主を伝えることで、イエスと敵対する世の人々からされ迫害されたり苦しんだりしたとしても、彼らはの勝利は決定していることを約束してくださっています。
あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネ16:33
このことは、私たちにとって大きな励ましです。
私たちが、困難な中にあっても、主の助けと勝利の確信をもって、主を伝え、主のわざにはげむことができるからです。
考察2 イエスは人々の告白や決心が頼りにならないこと見抜いていた。なぜなら、人を堅く信仰にとどまらせるのは御霊だから。人の魂を救うのは人の決心ではなく御霊だから。
聖書を読むとき、人間の決心や告白が「頼りにならないもの」「変わりやすいもの」であることがわかります。ペテロは「イエスのためなら死ねる」と告白した数時間後に、「イエスを知らない」と3度も否定しました。また今日の聖書個所では、弟子たちはイエスの言葉を聞いて「あなたが神から来られたことを信じます」(ヨハネ16:30)と告白した。ところがイエスは彼らの言葉を信用しませんした。
そして、弟子たちがもうすぐ「イエスを捨てて散り散りなる。」ことを宣告しました。
これらの事から、私たちの誓いや決心は続かない、状況により変わりやすいものだということがわかります。私たちがイエスを信じるという告白もそうだと言えます。その証拠に、信じる決心をして洗礼を受けた多くの人が、いつのまにか教会に来なくなり、信仰を止める人も少なくないからです。
聖書は、聖霊が人の心を開き、イエスのことがわかるようにすると言っています。
イエスキリストへの信仰は、聖霊によって心が一新されたことにより、イエスを主と告白する信仰が与えられて始まります。パウロもこのことに同意していると私は理解します。
テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。使徒16;14(紫商人ルデアの回心)
ですから、真のキリスト者はみな、内に聖霊をいただいています。
パウロも、聖霊を持たない者はキリスト者ではないと言っています。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、 キリストのものではありません。ローマ8:9
人間の決心は変わりやすく、意志が弱いために、この世の困難を耐えきるものではないからこそ、神は聖霊を信者に与えて、彼らの信仰を保持しておられるのです。そうでなければ、私たちの信仰は続かないからです。
たとえ教会生活が続いたとしても、聖霊無しには、私たちは神の真理に心から同意することができません。そのため、自分の考えに合った神観をつくりあげて信仰を続けている人が多くいます。
イエスは信仰を与えるだけでなく、それを正しく保たせ、天国での完成まで養っていてくださるのです。このようにして、自分に与えられた信仰が、驚くべき神の守りによって導かれていることを知るとき、私たちの心は平安に満たされます。そして、将来自分の信仰がどうなるかなんて心配をすることなく、困難な中にあっても安息して神に仕えることを可能にします。
考察3 御霊は、罪、義、さばきについて人々の理解が間違っていることを明らかにし、彼らに誤りの責任をせまる。このメッセージは信じない者を怒らせるかもしれない。しかし信じる者たちの心はさされて神に立ち返る。だから伝えなければならない。
聖霊は罪、義、さばきについて世の誤りを認めさせます。
人間の全的堕落の状態を知らせ、イエスにが与える義にのみ頼ることを知らせます。
神はいっさいの罪を赦すことができない方ですから、このままでは神の裁きが待っていることを警告します。
このメッセージは、イエスを信じるようになる人々には、罪びとである自分の絶望的な状況にがくぜんとし、神への畏れ(おそれ)が生じるきっかけになります。彼らはイエスを信じ、自分たちの罪の重荷を下ろすことになります。
ところが、イエスを信じない人の心には、聖霊が知らせることは何の効力も発揮しません。彼らはそれらを軽蔑するか、否定してはねのけるだけです。また、宣教のことばを忘れてしまうことでしょう。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じ る者を救おうと定められたのです。1コリント1:21
だからこそ、私たちは聖霊が世に認めさせる罪と義、さばきについての話を、それらは世の人々が聞きたくない話かもしれないし、科学や物理など人間の知恵では説明がつかないといわれる愚かな話ですが、これを伝え続けなければならないのです。
なぜなら、宣教の愚かなことばを信じて救われるように、神が定められたからです。
私たちは世の評判、人々に愛されることを優先して真理をおおい隠してしまうことがないようにしたいものです。