ヨシュア記23、24章 ヨシュアは民と契約を結んだ
- ヨシュアは全部族をシェケムに集めた。
アブラハムから始まった神とイスラエルの歴史を語った。ヨシュア記23章、24章から- ウル地からカナンに住まわせたこと。24:3
- イサクが生まれ、ヤコブたちはエジプトに住んだこと。24:4
- エジプトから神が彼らを導き上ったこと。不信仰のため荒野をさまよったこと。24:5-7
- エジプト脱出後の戦いについて。24:8-12
- 自分たちの力ではなく、主の憐みによって、敵の手を逃れ、戦いに勝利してきたことを伝えた。
だから占領地に入って後、ほかの神々を拝んではならない、他国の女と結婚してはならないと警告した。
- だから、主のみに仕え、ほかの神々に仕えてはならない。23:3、24:13-14
- 律法の書に記されたことを守りなさい。23:6
- 他国の民と結婚してはならない。23:7
- ヨシュアは民に、神の「祝福」と「のろい」を告げた。民は承知した。
ヨシュアと民は契約を結んだ。23:9-16、24:13-27
- 神に従うなら「祝福」を=敵を退け、国が繁栄する。
神に逆らうなら「のろい」を=わざわいと滅びがくる=戦いに負け、追い出される・・
あなたがたは受けるとヨシュアは民に告げた。 - 民は「主に従います」と告白した。24:21
- 契約を結んだ証拠として大きな石を立てた。24:25
- 神に従うなら「祝福」を=敵を退け、国が繁栄する。
士師記1章:民は約束の地に入ったが、異邦人を取り除かなかった。
- ベニヤミンはエルサレムに入った。エブス人を追い払わなかった。1:21
- マナセの占領した地では、いくつかの村落のカナン人が住みとおした。1:27
カナン人に苦しい労働をさせた。 - エフライムはゲゼルのカナン人を追い払わなかった。1:29
- ゼブルンはナハルの住民を追い払わなかった。彼らに苦役を課した。1:30
- アシュルはアコ、シドン、マハレブ、アクジブ・・の住民を追い払わなかった。1:31-32
アシュルはその土地に住むカナン人の中に住みついた。 - ナフタリは、ベテ・シェメシュやベテ・アナテの住民を追い払わなかった。1:33,34
その土地に住むカナン人の中に住みついた。
ヨシュアとの約束後、間もなくして彼らは契約を破り始めた。他国の民の中に住み始めた。
士師記2章:1:17 主の使いが民を警告した
- 主の使いが、民に警告した。1:1-3
民がこの地の住民と交わり、彼らの神々に仕えたので、神は民の敵となった。それゆえ、今後外国人によって彼らを責めさせる。民は略奪され、売り渡され非常に苦しむことになる。 - 民はヨシュアが生きていた間、また主の大きなみわざを見た長老たちが生きている間は主に仕えた。2:7
- しかし彼らが皆死んで、主がイスラエルになさったわざを知らない世代になると、
彼らは、主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えた。1:10-13
士師記2:18-23 士師「さばきつかさ」の役割
- 民が罪を犯す。偶像を拝む、異邦人と契約を交わす。
- 主は民を怒り、敵の手に渡す。民は苦しみ、主に助けを求める。
- 主は民をあわれみ、「さばきつかさ」を起こす。「
さばきつかさ」は主の仕事を成し遂げ民を敵から解放する。 - 「さばきつかさ」が生きている間は民は主に仕える。
しかし、彼らが死ぬといっそう堕落して他の神々を拝み仕える。
神はヨシュアに約束の地を全て与えなかった。その理由は、占領すべき地に残された異邦人たちによって、ヨシュアの後に起こされる民を試みるためであった。彼らが主の命令を守り通すことができるかどうか。他国の神を慕って拝むかどうか、他国の女たちを妻とするかどうか試すためであった。2:22,23
ヨシュアが死んで後、神は「さばきつかさ」を立てられ、イスラエルを治められた。
さばきつかさが起こされるたび、彼らは主の仕事を成し、民を敵から解放した。
主は民が罪を犯して、神の怒りによって苦しむたびに、彼らをあわれみ、敵から救い出された。
そのために、さばきつかさを起こし、民を敵を倒し、民を解放した。
後になって、民は自分たちの上に王を求め、主の御心を大いにそこなった。
主によって立てられるさばきつかさの場合、確実に彼らは敵から解放された。なぜなら主がさばきつかさらの心を定めて神の御心を実行させるからである。
しかし、王の場合、その王が神の仕事を忠実に果たすかどうか不確かである。そして王が主に背いた場合、民は大いに苦しむことになる。特に王の子供たちが王位を継ぐようになると王の堕落が進む。
民は、主が起こされる「さばきつかさ」を待つべきであった。
ただ、「さばきつかさ」はいつ与えられるか、誰なのか誰も知らない。出現したときにわかる。
しかし、王の場合、いつも王は君臨するし、次は誰が王になるか民にはわかる。
だから人間的には王に治められるほうが、安心感がある。
彼らは主の救いを待ち望むことを、放棄した。
見える王を求めた。これは彼らの不信仰が起こした過ちであった。
民は神のあわれみを受けても罪を犯し続けた。不信仰を止めなかった。
主は、彼らが苦しむとき、彼らをあわれみ助け人を起こされた。
それなのに、民は神に不信仰を続け、助けられる度に、また元に戻って罪を犯した。
最後には、主が与える「さばきつかさ」ではなく、「王」を求めた。本当に不信仰の限りである。