目次
12章2:神が正しいとする義について考える
- 人間の視点からではなく、神の視点からの義について論じる。
- 「人は神の前に義であることはできない」という結論に達する。主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。詩編130:3
12章2:人には義と見えても、神にはそうではない
- 自分が、他人と比べて優れていると思っても、神から正しいと見られている訳ではない。
- 神は、どのように小さな罪も見逃さない。悪い思いさえも知っている。1コリント4:5
- ヨブも、人が神の前に義であることはできないと言っている。
まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。ヨブ9:2 - だから、なむなしい自信思い上がってに惑わされないようにしなければならない。
- 人間は絶望的な状態であるが、キリスト者は1つの希望を持つ。それは、「キリストのあがない」である。
アウグスチヌス:このような状態にあって、キリスト者は1つの希望を持つ。それはキリストが我々のためにあがないとなられたということである。
12章4:人間の善行は偽善、不純を含む。神はそれを不義とみている
- 外面的な行ないは、何の役にも立たない。行いによって義とされることはない。
神は、それらの内にある偽善や不純な動機全てをご存じである。
神は、人間の善行は以前として汚れており、不義とみなしている。
12章5:神の完全と比較して、打ちのめされことが、
キリストを受け入れる準備になる
- 神の完全と比較し正しい自己認識をしなければならない。
神の完全な尺度から己を直視できなければならない。自己愛に目がくらまされてはいけない。 - 自分が自分を正しいと思う判断は役に立たない。
神はあなたが気づいていない、あなたの不純(罪)を知っておられる。
「人は自分の道が正しいと思う」外面の義は役に立たない。神は隠れた心の不純をさばく。 - 神の完全な基準に照らして、自分の不義を知り、打ちのめされることは良いことである。
この心の状態が、キリストによって義とされたいという渇望を生じさせる。
キリストを受け入れる心の準備を整えることになるからである。
この検討がつのって打ちのめされ、己の罪におののいて神に頼るしかないと悟る時、
はじめてキリストの恵みを受け入れる準備が整う。
12章6:真のへりくだりとは何か
- 「へりくだり」は「慎み」ではない。
「へりくだり」と「慎み」とは違う。「慎み」は自分の権利や欲望の実行をほんの少し神に譲歩することである。そこには、自己の善に対する全くの不信、神に対する徹底した服従はない。
「へりくだり」は自己の悲惨と空虚に恐れおのの、き神に屈服することである。この2つは全く違う。 - 「へりくだる」者とは、自己の貧しさに思い悩んで倒れている者
彼らは神を待ち望むこと以外に希望が残されていない。 - イザヤ書より
「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしの ことばにおののく者だ。」イザヤ66:2いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖とトなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人 とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」イザヤ57:15 - へりくだる者=心砕かれた者とは、打ち倒されて立ち上がれない心の傷を負った者のこと
「心が砕かれる」とは人を打ち倒して立ち上がれなくする心の傷である。
あなたは心傷つき低められなければ、神によって高められることはない。
12章7:キリストは罪人を招いておられる
- パリサイ人は、自分の善行により、神に義とされていると確信したため救われなかった。
パリサイ人は自分が良いことができていることをを神に感謝した。
「かすめも、不正も姦淫もせず、週に2回断食し、十分の一を捧げていること」を神に感謝した。
自分こそ、神に義と認められるにふさわしいと確信していた。
ところが、取税人は、祭壇からはるかに離れて立ち、目を天に向けることもあえてせず、大いになき悲しみながら『主よ、罪人なるわれを憐れみたまえ』と祈った。神に祈りが届いたのは、取税人のほうであった。
パリサイ人は、自分に義があると確信したために、救われなかった。 - 取税人は、自分の不義を知り、神に赦しを求めたために救われた。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでは ないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くす る者は高くされるからです。」ルカ18:10-14
12章8:神の義にあずかるためには、自分の義を捨てなければならない
- 自分に徹底的に絶望していなければ、キリストを十分に信じることも、キリストによって心を高められることも、またキリストによって心から慰められることもない。
- 自己への信頼をいっさい捨てて、キリストの憐れみの確かさにすがるとき、キリストの恵みを受けて救われ、その救いを保持することができる者になる。
われわれは自分自身に対する信頼を徹底的に捨て去って、ただ主のいつくしみの確かさにのみすがるとき、神の恵みをとらえて保つにふさわしいものとされる。 - 自分の義のむなしさ・はかなさを知り尽くしている者が神の憐れみを受けるにふさわしい。
自己の義に固執するものは神の恵みをはばむからである。