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律法の約束について間違った見解がある
- 律法を守ることにより義とされると考える人たちがいる
行ないを前提として祝福が与えられる聖書の記述から、彼らは報いを受けることは、信仰のみでなく、行ないにもよると言う。 - 律法を完全に守ることで天国に入るなら、誰一人入れない。
神は律法を完全に守る者しか義と認めない。だから律法の行ないによって、報いを受けることができる人はいない。律法によっては、私たちは神の呪いと怒りからのがれられない。 - 私たちは神の呪いの下にある。私たちは「律法から自由」にされなければならない。
そこから解放されるために、私たちは律法によるさばきから自由にされなければならない。 - 「律法からの自由」とは、私たちを好き勝手に振る舞わせる自由ではない。
神の呪いと断罪から私たちを解放する自由である。 - 律法によるさばきから自由になるためには、キリストによる罪の赦しを受けるしかない。
律法から自由になるためには、キリストによる罪のゆるしを受け取るしかない。この信仰により、私たちは罪の赦しの確信を得ることができる。
律法の約束は、行いの功績によってではなく、神の恩寵によって与えられる
- 「行うなら報いを受ける」との聖句は、行ないによるのではなく、神の恩寵による報いである。
律法を行うことによる祝福は、聖徒たちですら全く難しい。しかし、福音の約束は価なしの罪の赦しを与え、私たちを神に受け入れさせるだけでなく、私たちの行ないをも神に受け入れさせ、さらに行ないに対して契約に従って祝福すら与えるのである。
あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。レビ18:5
わたしのおきてを彼らに与え、それを実行すれば生きることのできるそのわたしの定めを彼らに教えた。エゼキエル20:11 - 信仰者の行ないに報いがあることを信ずるが、それは人間の行ないの内にある正しさによるのではない。
神の寛大さのゆえに、神は信者の行ないに価値を与えている。 - 私たちの行いは律法が要求する義からは、ほど遠い。
行いはそれ自体の正しさによって報いを与えられるのではない。私たちの行いは良いと思っても、律法の要求からほど遠い。神か前もって約束してくださった「義認」と「赦し」なしには、神に受け入れられるものではない。 - 神の憐れみによって、信者の行ないに報いが与えられる
生まれながらの状態にある限り、神に喜ばれる奉仕をすることはできない。だから、人間の功績によって報いが与えられるというむなしい空想は捨てるべきである。
神が新生させ、善を行わせる。しかも、ご自分が行わせた善に報いを与える
- 神が新しく生まれ変わらせ、良い行いをさせた。しかもご自分が成させた良い行いに報いを与える。
主が、滅んで当然である人間を聖別し新しくし生まれ変わらせ新しい被造物にした。さらに、神は彼らの行ないにすら報いを与えておられるのである。 - 信者の行いは不完全。しかし神は寛容に受け入れてくださる。
われわれの行ないが神に受け入れられるのは、不完全なわれわれの行ないを神が寛大に受け入れるから。
罪の赦しの前提があって、はじめて良い行いとして神に評価される
- 罪の赦しが前提としてあるとき、行ないがそれ自体以上の評価を得る。
罪人は神から罪の赦しを得ている。かれらの救われた後の行ないは、キリストの血により汚れが覆われる。神は裁きの日に、もはや彼らの行ないの汚点を責めることはない。かえって彼らは実際の功績以上の報いを受けることになる。 - キリストの義を着ることにより、信者の行いも義とみなされる。
人間が神に良しとされる行ないができないでいた原因である、行ないに潜む違反の攻めは無くなった。
信者の行ないの不完全さは神の目からは消滅し、義とみなされるようになる。
ヤコブ書簡とパウロの福音に矛盾はない
- ヤコブ書簡とパウロの主張は矛盾しない。
ヤコブは信仰に甘んじて良い行いに怠惰にならないようにと戒めているだけである。反対者は彼のことばを義認の定義とした。ここに過ちがある。 - ヤコブが言いたかった2つの点
- 「見せかけの信仰は義を得られない」
- 「真の信者は行いで自分が義とされたことを実証する」この2点を言いたかったのだ。
- 行いが義に貢献すると間違って受け取られやすい聖書個所について
- ダビデが自分の行いの義を神に訴え、悪者を懲らしめてほしいと祈っている個所について
旧約の聖徒が神に自分の義を認め、邪悪な者に報復を願っているのは、自分が神の前に正しいと思っているからではなく、邪悪な者と比較して自分が善であることを神に主張しているのである。ここから、行ないによる義認を結論することはできない。 - パウロが自分の忠実さを主張しているように思われる聖書箇所
パウロも「自分は正しく、また真実をもって働いた」との良心にやましさがないことを証言している。
これは神の前にこのような誇りを持って立とうとしたのではない。彼は自分の使徒としての召しや自分が語る福音をウソだと言い張る反対者たちに対して、自分が神に対して真実であること、自分の証言にはウソがないことを彼らに訴える必要があったからである。
- ダビデが自分の行いの義を神に訴え、悪者を懲らしめてほしいと祈っている個所について