- 1 ゴルゴタの丘を登る、 イエスの十字架を負ったクレネ人シモンが救われた
- 2 エルサレムの女たちがイエスのことを悲しんでついて来た イエスは彼女たちの不幸を預言した
- 3 「されこうべ」と呼ばれるところで十字架につけた
- 4 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、 イエスは飲まなかった
- 5 兵士はくじを引いてイエスの服を分け合った 衣を裂くことはなかった
- 6 イエスは午前9時に十字架につけられた
- 7 イエスの罪状書は「ユダヤの王」とピラトが書いた
- 8 人々はイエスをあざ笑った 「自分を救え、十字架から降りてこい」
- 9 イエスと一緒に十字架につけられた強盗の1人が回心する
- 10 イエスの死
- 11 安息日が始まろうとしていた ユダヤ人たちは早く殺して 死体を十字架から降ろすように願った
- 12 兵士たちはイエスが死んだことを確かめた
- 13 アリマタヤのヨセフが、イエスの死体の取り下げを申し出た
- 14 イエスの体を、誰も使っていない墓に納めた
- 15 女たちは墓に納められる様子を見届けた
- 16 ピラトは番兵に命じて、墓の番をさせ、墓石に封印をした
- 16.1 考察1 神が、ご自分を呪う人間のために、自ら「呪われた者」となられた。神は驚くべきあわれみを示された。「十字架の死による罪のあがない」を必要ないとすることは、神のあわれみを退けること。1人1人が、自分にとって「キリストの十字架」は必要か、そうでないのかについて思いめぐらし、結論を出しておくべきである。
- 16.2 考察2 十字架を担いだシモン、イエスをあざわらった民衆、処刑にかかわった兵士たちなど、イエスの死を目撃した人々が救われた。
- 16.3 考察3 イエスは霊を父に渡して死なれた。自分の意志で死なれた。人間に殺されたのではない。ここにイエスが神であること、神としての権威を最後まで保たれた証拠を見る。
- 16.4 考察4 預言が見事に成就している。イエスが神である証拠。
- 16.5 考察5 イエスの死によって、神の救いの御わざが成就した。
ゴルゴタの丘を登る、
イエスの十字架を負ったクレネ人シモンが救われた
彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。ルカ23:26、マルコ15:22 /マタイ27:33 /ヨハネ19:17
- シモンは北アフリカ、リビア地方のクレネ人.。この経験がシモンの回心になった。
- マルコはシモンのことを「アレキサンデルとルポスの父」と呼んでいる。(マルコ15:21)
この2人は初代教会では良く知られていた信者。 - イエスの十字架を運んだ経験がシモンの回心となり、やがて息子たちの回心になったと考えられる。
エルサレムの女たちがイエスのことを悲しんでついて来た
イエスは彼女たちの不幸を預言した
大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのこ とのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。ルカ23:27-29
- この女たちはただ感傷的にイエスの不幸を悲しんでいるエルサレムの女たちだった。
「ガリラヤから来た女たち」のようにイエスへの信仰がある人ではなかった。 - イエスは彼女たちの無知を戒めた。
「あなたがたは私の事で悲しんでいる場合ではない。あなたがは、自分や子供たちにのために泣くようになるから。子たちが生まれなかったら、このような悲惨を経験せずにすんだのにと思う日が来るからだ。」 - このときイエスは、エルサレムの壊滅を預言された。
この預言はAD500年にローマがエルサレムを焼きはらった時に成就した。
たくさんのユダヤ人たち城壁内で死んだ。餓死した者も多かった。
その死に方は悲惨な有様であったとローマ兵たちの証言がある。 - 同時に、このままでは彼女たちや子供たちに、神の審判が下ることを預言された。
そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」ルカ23:30,31
あなた方は私のことで悲しんでいるが、あなたがたこそメシヤを信じなければ、生木も枯れ木も焼き尽くす神の審判の火を、死後に受けることになる。
「されこうべ」と呼ばれるところで十字架につけた
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。ルカ23:33、マルコ15:27/マタイ27:38
- ヘブル語でゴルゴタと言われる所に連れて行かれた。
その意味は「されこうべ」。「どくろ」とも呼ばれていた。 - 2人の犯罪人がイエスの両側につけられた。
没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、
イエスは飲まなかった
彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。マタイ27:34 / 没薬を混ぜたぶどう酒 マルコ15:23、マタイ27:34
- 「没薬を混ぜたぶどう酒」は受刑者の痛みを和らげるためのもの。
エルサレムの裕福な婦人が用意した。 - 死の杯を苦痛を和らげることなく極限まで味わう決意の現れ。
- 詩篇64編21節の預言が成就した。
彼らは私に食物のかわりに苦味を与え、私が渇いたときに酢を飲ませました。詩編64:21
苦味とは没薬入りの葡萄酒のこと。マタイは「苦味を混ぜたぶどう酒」、マルコは「没薬を混ぜたぶどう酒」と言っている。預言の通り、兵士たちはイエスに苦味を与えました。
「酢を飲ませた」預言は、死の直前にイエスが「渇く」と言われた時、酢いぶどう酒を受けられたことで成就しました。
兵士はくじを引いてイエスの服を分け合った 衣を裂くことはなかった
さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部 一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじ を引いた。」という聖書が成就するためであった。ヨハネ19:23,24/ルカ23:34/マルコ15:24/マタイ27:35
- 受刑者は腰布だけを残して、衣類を取り去られて十字架につけられた。
- 兵士たちはイエスの衣を取り、1人に1つずつあたるように、4つに分けた。
- 下着は裂かないで「くじを引いて」誰がもらうかを決めた。
- 詩篇22:18の預言が成就した。
彼らは私の着物を互いに分け合い、私の1つの着物を、くじ引きにします。詩編22:18
イエスは午前9時に十字架につけられた
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。マルコ15:25
- ヨハネ19章14ー16節には、第6時ごろにピラトが裁判を開きバラバを釈放することを決め、
イエスを十字架にかけるために引き渡したとある。
これはローマの時の計り方に従って書かれたようだ。
ローマは、1日は真夜中から始まとしている。だから第6時とは早朝6時ごろになる。その後、イエスは鞭で打たれ、ゴルゴタの丘を登った。これは「朝9時に十字架につけられた」というマルコの証言とよく一致する。
イエスの罪状書は「ユダヤの王」とピラトが書いた
ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語 で書いてあった。そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」ヨハネ19:19-22、
ルカ23:38/マルコ15:26/マタイ27:37
- 祭司長たちは罪状書きが適切でないと訴えた。
イエスは「ユダヤ人の王」ではない。王だと自分で言っていただけだと彼らは抗議した。 - ピラトのイエスに対する敬意を感じます。
ユダヤ人たちより、異邦人のピラトがイエスを神ではないかと恐れて、殺すことをためらったのです。これは皮肉なことです。
人々はイエスをあざ笑った
「自分を救え、十字架から降りてこい」
民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」ルカ23:35
道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」マタイ27:39,40、ルカ23:35/マルコ15:29,30/ヨハネ27:39,40
- 道を行く民衆は、頭を振りながらイエスをののしった。
「神の子なら、自分を救え。十字架から降りてこい。」
同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」マタイ27:41-43、マルコ15:31,32
- 祭司長たち、律法学者たち、長老たちはイエスをあざけった。
「他人は救ったが自分は救えない。十字架から降りたら私たちは信じる。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」ルカ23:36 ,37
- ローマの兵士たちもイエスをあざ笑った。
「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。マタイ27:44
- イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、イエスをののしった。
- 詩篇22章の預言が成就した
「 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」詩編22:7,8
十字架から降りれば、救いのみわざが達成されないことになる。
イエスは彼らのののしりに対して、反応することはなかった。
イエスと一緒に十字架につけられた強盗の1人が回心する
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。ルカ23:39-43
- イエスといっしょに十字架につけられていた強盗の1人が、
罪を悔い改めてイエスに救いを求めた。 - イエスは彼に救いを宣言した。
- この箇所からわかること
- 信仰によって救われる。行いは救いの条件ではない。行いがなくても救われる。
強盗はイエスのために善行をする時間がなかったが救われた。 - 自分の罪を悔い改めて、ただ神の憐みにすがる者に救いは与えられる。
強盗は、自分は十字架刑で殺されて当然な罪びとだと告白した。
神の裁きを受けて当然な罪びとですが、どうかあなたの憐みによって私を天国に入れてくださいと、彼はイエスに願った。 - 信者は死後、一瞬にしてパラダイスに入る。死んでも私たちの意識はありつづける。
イエスは強盗に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。十字架で死ぬ、今日、あなたは私とパラダイスにいる。このことから死の瞬間に信者の意識は無になるのではなく、意識をもって死後の世界に入ることがわかる。死によって肉体は滅びても、意識はあり続けることがわかる。
- 信仰によって救われる。行いは救いの条件ではない。行いがなくても救われる。
イエスの死
時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。ルカ23:44-46
- 昼の12時から3時まで、全地は真っ暗になった。(超自然現象)ルカ23:44/マルコ15;33/マタイ27:45
- イエスが十字架で語られたことば
- 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
3時ごろイエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。
これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と いう意味である。マタイ27:46/マルコ15:34
ある人々はエリヤを呼んでいると思った。 - 「わたしは渇く」 詩編64章21節の預言が成就した。
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。ヨハネ19:28
そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差 し出したイエスは、酸いぶどう酒を受けられると、ヨハネ19:29,30
「彼らは私が渇いたときに酢を飲ませた」との詩篇64:21の預言が見事に成就した。 - 「完了した」 すべてのことが完了したのを知って言われた。
「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。ヨハネ19:30
全てのわざを終えられたことを知られたイエスは、自ら霊を渡して息を引き取った。
- 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
- イエスはご自分の霊を父に渡して死なれた。自分から死んでいった。殺されたのではない。
「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。ルカ23:46
「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。ルカ19:30
イエスは霊を自分から父なる神に渡すことによって、死なれている。
このことから、イエスの死は殺されたのではなく、自ら死を選ばれて死なれたことがわかる。 - 聖所の幕が真ん中から避けた。
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。マタイ27:51、ルカ23:34/マルコ15:38
神殿の聖所と至聖所の間を隔てていた幕が、真二つに裂けた。 - 聖徒たちが墓から生き返って、人々に現れた。
また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。27:53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。マタイ27:52
イエスが復活する、予兆として、死んだ聖徒たちのからだが生き返った。彼らはエルサレムの町にはいって人々に現れた。おそらくイエスがメシヤであることを証言したのではないか。 - イエスの処刑に立ち会った百人隊長は、全ての出来事を見て、イエスを信じた。
人々も胸を打ち悲しみなら帰って行った。
百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。23:48 この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。ルカ23:47/マルコ15:39/マタイ27:54
人々はこれらの出来事を見て恐れた。イエスは本当に「神の子」だったのかもしれない。自分たちは「神の子」を殺してしまったのではないかと不安になった。イエスの処刑を喜び、をあざ笑っていた人々は、自分たちがしたことを後悔し、胸をたたいて帰って行った。しかし多くの者は、後悔しただけで、悔い改めてイエスを信じるようにはならなかった。
しかし、彼らの中には、百人隊長やイエスの見張りをしていた人々のように、「イエスが罪がないのに自分から刑罰を受けて死なれた」ことを知って、イエスを信じる者も現れた。 - がリラやから来た婦人たちが遠くから見守っていた。
また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た 婦人たちが大勢いた。マルコ15:40-41 / ルカ23:49
ガリラヤから大勢の女たちがイエスとともにエルサレムに来ていた。彼女たちはイエスが処刑される様子を遠くから見守っていた。
安息日が始まろうとしていた ユダヤ人たちは早く殺して
死体を十字架から降ろすように願った
その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそ れを取りのける処置をピラトに願った。ヨハネ19:31
- ユダヤでは1日は夕方6時から始まると考えられていた。
この日の翌日は安息日であった、しかも過ぎ越しの週の1日目でユダヤ人にとって重要な日だった。 - このとき午後3時を過ぎていた。安息日がもうすぐ始まろうとしていた。
- ユダヤ人たちは、十字架上に犯罪人をかけたままで、過ぎ越しの週を迎えたくなかった。
ユダヤの法律では、死刑にされたものの死体を翌日まで木の上にかけておくことができなかった。(申21:22,23)
- そこで犯罪人たちを早く殺して、彼らの死体を処理させてほしいと願った。
兵士たちはイエスが死んだことを確かめた
それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。ヨハネ19:32-34
ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。15:45 そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。マルコ15:44
- イエスの両側につけられていた犯罪人のすねを折ってすぐに死なせた。
すねを折ることで呼吸ができなくなり、すぐに死ぬ。兵士は強盗たちの死を早めた。 - イエスはすでに死んでおられたので、すねを折らなかった。
旧約の預言が成就した。
過ぎ越しの犠牲としてほふられる小羊の骨を折ってはならない。出12:46(民9:12、詩編34:20)
過ぎ越しのいけいえのためには、傷のないいけにえのをささげる。イエスは罪のない方、すねの骨を折られなかった。内面も外面も完全ないけにえをささげられた。 - 兵士の1人がイエスの脇腹を刺した。血と水が出て来た。
しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。ヨハネ19:34
ゼカリヤの預言が成就した。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、 その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」ゼカリヤ12:10
- ピラトはイエスが思ったより早く死んだので驚いた。
それで、百人隊長に確かめさせてからヨセフに体を与えた。
アリマタヤのヨセフが、イエスの死体の取り下げを申し出た
そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。 それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。ヨハネ19:38、ルカ23:50-52/マルコ15:42,43/
- アリマタヤのヨセフは議員で金持ちだった。
- 彼は神の国を待ち望んでいた。イエスを殺すことに同意していなかった。
- 彼はイエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していた。
- ヨセフは勇気を出して、イエスの体の下げ渡しを願い出た。
イエスの体を、誰も使っていない墓に納めた
それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。ルカ23:53
前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。ヨハネ19:39-42
そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。マルコ15:46
ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。マタイ27:59,60
- 十字架につけられた場所に園があって、そこにヨセフが所有する墓があった。
- その墓には、誰も納められていなかった。
- 律法学者のニコデモがイエスを信じるようになっていた。
香料(没薬とアロエ)およそ30キロをもって来た。 - ヨセフは亜麻布を買い(マルコ15:46)、ユダヤの埋葬の習慣に従って、
イエスの体を香料と一緒に巻いた。イエスは手厚く葬ら得た。
- 彼らはイエスの体を墓におさめ、墓の入り口に大きな石をころがしかけて帰った。
- イザヤの預言が成就した。
彼は富む者とともに葬られた イザヤ53:9
イエスは金持ちのヨセフの墓に葬られた。
女たちは墓に納められる様子を見届けた
この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。 ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。そして、戻って来て、香料と香油を用意した。安息日には戒めに従って休んだ。ルカ12:54-56、マルコ15:47/マタイ27:55,61
- ガリラヤからイエスについてきた女たちが、埋葬の様子を全て見届けた。
女たちの中に、マグダラのマリヤとヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母サロメ(ゼベタイの妻)がいた。 - 彼女たちは、イエスの体に塗る香料と香油を用意した。
ピラトは番兵に命じて、墓の番をさせ、墓石に封印をした
さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、 こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うか もしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」 ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。」と彼らに言った。27:66 そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。マタイ27:62-65
- 祭司長、パリサイ人たちは、イエスが生前3日後によみがえる」と言っていたのを思い出した。
- 弟子たちがイエスの体を盗んで「よみがえった」と言えばやっかいなことになると思った。
イエスが神として崇拝されてしまうから。 - イエスが死んだ翌日、安息日に、ピラトに墓の番をさせてほしいと願い出た。
- ピラトは、番兵に墓の番をさせた。墓石には封印をして、誰かが動かせばわかるようにした。
考察1 神が、ご自分を呪う人間のために、自ら「呪われた者」となられた。神は驚くべきあわれみを示された。「十字架の死による罪のあがない」を必要ないとすることは、神のあわれみを退けること。1人1人が、自分にとって「キリストの十字架」は必要か、そうでないのかについて思いめぐらし、結論を出しておくべきである。
もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あな たの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。申21:22,23
神である方が、人間を救うために「神にのろわれた者」になられました。
「木につるされた者は、神にのろわれた者」である。申命記
イエスは犯罪にとして十字架の木にかけらえました。木にかけられた者は神に呪われた者です。
「父なる神」が人を「罪のさばき」から救うために、ご自分の御子を呪われた者にされたのです。
しかも、この時、人間たちは御子をののしっていたのです。驚くべき神の憐みです。
イエスは「神の怒りの杯」を極限まで受ける覚悟で十字架につかれました。
イエスは、十字架につけられたとき、差し出された没薬入りのぶどう酒を受けられませんでした。これは、十字架での苦しみを和らげるつもりがない決意を現わしています。イエスは人を救うために受けなければならない苦痛を全て受け、人間の罪のあがないを完成させたかったのです。それはイエスを信じる人たちの、完全な罪のいけにえとなるためでした。人間の救いのために、ここまでされる神の愛に驚きを感じるしかありません。
イエスは救いを完成するため「完全に神から引き離される」究極の絶望を経験されました。
「エル エル サバクタニ」神よなぜ私をお見捨てになったのですかと叫ばれた。ルカ
イエスが人間の「罪のゆるし」のために、身代わりに「刑罰」を受けられました。
この叫びは、イエスが神から完全に引き離され「神のさばき」を容赦なく受けられたことを現わしています。人間のために、神がこれほどの苦しみを経験されるとは、信じられない犠牲的な愛です。
イエスの十字架の死は1人1人の人生に大きな意味を持つ。
各人が自分と十字架の関係について考えるべき。
イエスの十字架の死は、イエスを信じていない人であっても、その人の人生に深い関わりがあります。
なぜなら、この事実をどう受け止めるかによって、各人の運命が変わるからです。
ですから自分とイエスとの関わりについて考える、探り求めることが、人生で非常に重要な事です。
ぜひ、イエスについて学び、自分との関係について考えてください。
考察2 十字架を担いだシモン、イエスをあざわらった民衆、処刑にかかわった兵士たちなど、イエスの死を目撃した人々が救われた。
イエスをののしっていた民衆たちは、イエスの死の際に起きた全てのことを見た。そして恐れた。自分たちがののしったイエスは「神の子」であった、自分たちは「神の子」を侮辱して殺した。
彼らは自分たちのしたことを後悔し、胸をたたいて帰って行った。(ルカ23:48)
イエスの十字架を担がされたクレネ人シモンも、この経験を通して信者になった。
その証拠に、彼の2人の息子たちは初代教会で有名な信者であった。(マルコ15:21)
イエスの処刑に同行し、処刑を指揮したローマの百人隊長は「確かにこの方は神の子であった」と信仰を告白した。イエスの衣を分けた兵士たちも同様であった。(マタイ27:54)
イエスは、ご自分の処刑を通して、多くの人々をお救いになりました。
考察3 イエスは霊を父に渡して死なれた。自分の意志で死なれた。人間に殺されたのではない。ここにイエスが神であること、神としての権威を最後まで保たれた証拠を見る。
「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。ルカ23:46
「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。ルカ19:30
イエスは、自分から父なる神に、ご自分の霊を渡すことによって死なれました。
このことから、イエスは殺されたのではなく、死を選ばれて死なれたことがわかります。
神であるイエスが、人間に殺されたなら、神の権威は無に帰することになります。
それは、父なる神にとって耐えがたい屈辱です。
イエスは、ご自分が死ぬ時刻や場所、方法など全てに渡って神の計画通りに行われました。
そして、神が定めた時に、自らの意思で死なれました。
人間は自分の意志で自分の霊を渡して死ぬことはできません。
自分の死の時をコントロールすることはできません。なぜなら、たとえ自殺をしたとしても、致命傷を負わないことがあって、自分で決めた時間に死ぬとは限らないからです。
イエスは神であったからこのことができたのです。
イエスがまことに「肉体を取った神であった」ことの証拠であると私は思います。
そして、最後の瞬間まで、「神の子」としての、ご自分の権威を保たれたことを知ることができます。
考察4 預言が見事に成就している。イエスが神である証拠。
人々は知らず知らずのうちに預言を成就させた。
預言を全く知らない異邦人たちによっても預言が成就した。
聖書が預言した通り彼らはイエスをののしった。
「 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」詩編22:7,8
「神の子なら自分を救え。十字架から降りてこい」と、民衆も祭司も兵士たちも頭をふってののしりました。
兵士はイエスに没薬入りの苦いぶどう酒を与え、
死の直前にイエスが「渇いた」と言われたとき酸っぱいぶどう酒を飲ませた。
彼らは私に食物のかわりに苦味を与え、私が渇いたときに酢を飲ませました。詩編64:21
この預言の通りに兵士たちはイエスにしました。
兵士たちはイエスの着物を4人で分けたが、下着だけはくじびきにした。
彼らは私の着物を互いに分け合い、私の1つの着物を、くじ引きにします。詩編22:18
「私の1つの着物がくじ引きにされた」下着1枚だけはくじ引きにされました。ここまで詳細に預言通りになるとは驚きです。しかも兵士たちはローマ人で、預言について無知だったのです。
彼らは無意識に預言を実現していました。
イエスの骨は折られなかった。
過ぎ越しの犠牲としてほふられる小羊の骨を折ってはならない。出12:46(民9:12、詩編34:20)
預言通り、イエスの骨は1本も折られることはありませんでした。
兵士の1人がイエスの腹を突き刺した。
彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、 その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」ゼカリヤ12:10
イエスは金持ちで議員であったアリマタヤのヨセフの墓に葬られた。
彼は富む者とともに葬られた イザヤ53:9
これは神にしかできない御わざ。やはりイエスは神であった。
さまざまな人が、その場の思い付きでした結果、神の預言を成就した。
預言の成就を、あらかじめ預言を学んだ上で、実行したんだと言う人がいます。
しかし今日の聖書個所から、それが間違った考えであることが明らかになりました。
イエスは十字架にかかっていて「ひん死」の状態でした。
それなのに、イエスをののしる人々によって、次々と預言が成就したのです。
このようなことは、人間には不可能です。やはり、イエスは神です。
神だからこそ、預言を見事に成就することができたのです。
考察5 イエスの死によって、神の救いの御わざが成就した。
イエスは、過ぎ越しの週が始まる1日前に十字架にかから死なれました。
大祭司や長老たちはこのような時に、十字架刑をしたくなかったはずです。
イエスの処刑は、彼らがイエスに急がされて行ったようなものです。
その結果、「罪のための完全ないけにえ」が過ぎ越しの祭りの前日に、備えられたのです。
これは完璧なタイミングではありませんか!このようなことは人間にできることではありません。
ですから、イエスは神であり、永遠の昔からの神の計画に従って死なれたことを確信できます。
今や、イエスは地上でのすべての務めを終えられました。「神の救いの御わざ」が完了したのです。
これが、神が人のために行われたことです。このことを「感謝する」か「必要ない」とするかは、各人の判断に任されています。ただ1つ言えることは、このわざを「無駄だ」とすることは、神を冒涜(ぼうとく=ばかにする)することだということです。
そして、その判断の責任を、死後、神に問われることになるということです。
願わくば、あなたに神の恩寵が与えられて「イエスがなさったわざ」の素晴らしさを知ることができますようにとお祈りします。