1人の男が、遺産相続の問題を解決してほしいとイエスに願った
群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。
ルカ12:13
おそらく、長男が父の財産を全部もらって、兄弟たちに何も渡さなかったのだろう。
旧約聖書 申命記21章16-17節には、以下のように書かれてある。
その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利 は、彼のものである。
長子は、他の兄弟たちよりも2倍を相続することになっている。しかし、神は、長子でない兄弟たちにも相続する権利を認めており、この男の兄弟は律法に違反していることになる。
イエスは男の頼みに応じず、「貪欲」に注意せよと人々を教えた
- 自分は、この世のもめごとを解決するために遣わされたのではないと男を戒めた。
すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」ルカ12:14
男は頼むべき相手を間違えた。イエスは、この世の裁判官ではないからだ。
イエスは、この世の魂を救うために、あの世で魂をさばくために来られたからだ。 - 訴えに来た男はイエスの話から悟っていなかった。この男は天の父に願うべきだった。
男の兄弟は律法に従って兄弟たちに分けるべきだった。これは貪欲の結果生じた罪である。
訴えに来た男は、この直前に話されたイエスの説教を聞いていたはずだった。人を恐れず真理に立つこと、神が必要を満たしてくださることを聞いていた。ところが、彼はイエスに相続財産の供給を期待した。彼は神に全ての解決と供給を願うべきであった。この男の兄弟もまた、律法に違反してまで、自分の財産を増やそうとする貪欲に犯されていた。 - そして、イエスは「貪欲」に注意するように、人々を教えられた。
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」ルカ12:15- 「貪欲」(どんよく)とは、財産、地位、才能などに、決して満足せず際限なく欲しがること。不正をしたり、罪を犯すことまでして、それらを得ようとすることである。
- イエスは、このような「貪欲の罪」に陥らないようにと人々に警告した。
- 人の「魂」の安全は、持ち物や才能によって守られるのではない。
「いのち」とは「魂」のこと。
「いのちは財産にあるのでない」とは、魂の安全を守るものは財産ではないという意味。 - 「魂」を神のさばきからのがれさせ、天国で安息できるようにするのは、財産ではない。
この世で財産を貯めこんでも天国に入る保証は得られない。イエスによる救いを受け入れることでしか天国に入れない。だから、財産を貯めこむことよりも、イエスを神と信じること、イエスの救いを受け取ることが、今すぐしなければならないことだ。なぜなら、誰もいつ死ぬかわからないから。今日にでも死ぬかもしれないから。 - 聖書は、全ての人の魂は、死後も永遠に生き続けると言っている。
そして、不信仰の魂は、苦しみの場所に送られて、その罪を永遠に裁かれるという。
「地上の持ち物は、永遠の刑罰から魂を守ることはできない。だから、この世で貪欲になって持ち物を増やすことに熱心になるのではなく(貪欲は自分の罪を増加させて、自分へのさばきを厳しいものにしてしまう)、イエスへの信仰に立った正しい生き方をしなければならないとイエスは言われたのだった。
イエスは「愚かな金持ち」のたとえを使って、貪欲について教えられた
それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。ルカ12:13
金持ちは、豊作だったのは自分の努力、自分の知恵のおかげと考えた。
彼に豊作を与えたのは神だということを知らなかった。
- 収穫は、人間の努力を超えた要因によって大きく変わる。
- 天候の異常:台風、日照り、多雨、冷夏などにより収穫は減る。
- 人為的な要因:戦地になる。土地の開発などで自然環境が変わるなどが収穫に影響する。
- 収穫は、神の恵みによって与えらたものである。
- 収穫を左右しておられるのは神
天候、人々の行動を支配しておられるのは神だから。 - 収穫は、神からの恵みとして与えられているものである。
- 収穫を左右しておられるのは神
そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』ルカ12:14-19
金持ちは、収穫を自分のためだけに貯えた。
- 収穫は、自分のためだけに使った。
他者のために使うことを惜しんだ。まして神のために使うことはなかった。 - 収穫は、神のため、人のために使うべきだった。
事実は、神が恵みによって、その年豊作を与えてくださったのだった。
豊かな収穫は、神が人々を養うようために金持ちにゆだねたものである。
金持ちは、収穫を人々と分かち合うべきであった。しかし、彼はそれをしなかった。
金持ちは、自分がぜいたくに暮らして、楽しめれば幸せだった。
死後のことについては全く無関心だった。
- 金持ちにとって、この世が全てだった。彼は、死んでからのことについては無関心だった。
- 金持ちは、「神はいない」「人間は死んだら終わり」「死後の世界はない」「罪のさばきはない」と思っていた。
- 生きている間に、できる限りぜいたくすること、楽しむことが彼の人生哲学だった。
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるの か。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」ルカ12:20,21
彼の命は神によって取り去られた。彼は、貯えた物を楽しむことなく死んだ。
- 金持ちが与えた物を正しく用いないのを見て、神は、彼をこの世から取り去ると決めた。
- 金持ちは、貯えた物を楽しむ前に死んでしまった。
- 人の命は神の御手の中にある。人は神が決められた時に死ぬ。
彼が貯えたものは、何の労苦もしなかった人が受け取って楽しむことになった。
- 金持ちが貯えた物は、そのために労苦しなかった人に与えられた。
労苦しなかった者が、富を楽しんだ。
しかも、金持ちは死んでゲヘナに行き、神に永遠にさばかれた。
だから、この世で貪欲になる者たち、神について無関心な者たちは愚かだとイエスは言われた。
- この金持ちのように、金に頼って「貪欲」になる者は、愚かである。
- 彼らは、神の恵みを知らず、財産や知恵、地位を与えられても神に感謝しない。
神から与えられたものを、神の御心に従って用いることがない。自分のためだけに使う。 - 彼らの持ち物は、神が定めた時に、一瞬にして、彼らから奪い取られる。
- そして彼らの魂は、死後永遠に苦しむことになる。
「愚かな生き方」とは、自分の持ち物に頼る生き方。財産や才能、地位に頼る生き方。神の恵み、保護を勘定に入れない生き方。
愚かな生き方とは、神の恵みや神からの供給を無視して生きる生き方です。この生き方は、神を頼りにしないため、自分の財産や才能、高い地位によって、自分の安全や幸せを確保する生き方です。
「この生き方のどこが悪いの?」と思う方も多いのではないでしょうか。
なぜなら、ほとんどの人がこのように考えて生きているからです。
しかし、この生き方は多くの問題を引き起こします。例として、イエスは「貪欲」をあげました。
人間は、何かを得たとしても、それで満足できない傾向があります。
もっと得よう、もっと得れば安心できると考えます。それがお金であれば、お金をもっと貯めよう、そうすれば人生は安泰だ、幸せになれると考えます。その結果、貪欲になり、他者の権利を侵害してまでも、自分のために得ようとしてしまいます。貪欲のために、家族や友人と争う例は限りがありません。
その最も典型的な例が、今日の聖書個所に出て来る「相続争い」です。
そして、このようにして貯えられたものは、他者と分け合われることはありません。
なぜなら、人に与えると減るからです。安心感がなくなってしまうからです。
本来は、お金が他者に流れて行き、多くの人が幸せになることができるはずなのに、お金はその人のところで使われることなくとどまることになります。このようなことを神が喜ばれないのは明らかです。
そして、神に喜ばれない生き方は、この世においても幸せになれません。
たとえ、財産はあっても、そのように生きる人は孤独になることでしょう。
「神から与えられた」ことを自覚できていれば、得た物を皆のために賢く使うことができたはずです。「自分の必要は神が与えてくださる」と知っていれば、「貪欲」得ようすることはなかったでしょう。つまり、神の恵みを知らず、自分の持ち物によって自分を守ろうとする生き方は、その人を破滅に導くものであることがわかります。そのような生き方は愚かな生き方なのです。
「愚かな生き方」とは、死ぬことを想定しない生き方。死後のさばきを恐れない生き方。
金持ちは「自分の死」を想定していませんでした。少なくとも、長く生きられると考えていました。
だから、彼は新しい倉を建てて、財産をそこにしまっておいたのです。
しかし、彼の想定は神によってひっくり返されました。彼は、倉に貯えたその日に死んだからです。
この金持ちのように「死」を想定に入れない生き方は愚かです。
「死」は、誰にも必ずやってきます。そして、私たちの持ち物すべてを奪い去ります。
私たちは死ぬ時、天に何も持っていくことができません。
そして、天国での永遠の命は、地上での貯金で買い取ることはできません。
「死」と「死後のさばき」を念頭におかない生き方は愚かです。
死を迎えた時に、その人は神に裁かれるからです。神は、人が知らない、隠れた罪まで全てをご存じだからです。イエスによる罪の赦しを着ることなく、神の前に出ることは恐ろしいことだからです。
その人は、死んで後、必ず、お金に貪欲になっていたことを後悔するでしょう。
そして、イエスを信じていれば良かったと歯ぎしりするでしょう。
「賢い生き方」とは、神の恵みを知って神に感謝し、神を礼拝する生き方。
では、「賢い生き方」=「神に富む」生き方とはどのようなものでしょうか。
それは、自分の持っているものが、神によって与えられていることを知る生き方です。
そして、与えてくださった神に感謝し、神を礼拝する生き方です。
自分が持っているもの、仕事、家族、友人などは、自分が得たのではなく、あわれみによって、神から与えられたものです。自分の命ですら、そうです。
神から与えらたということは、神が目的をもって自分に預けたということを意味します。
ですから、私たちは自分に与えらえたものを、神の御心に従って用いる責任があります。
そうしないなら、それらの賜物を取り上げられても、あなたは文句を言う資格はありません。
また、もともと自分のものではなく神のものですから、いつでもお返しする心の用意があります。
命も神のものですから、神が終わりを宣告されたときにお返しするのです。
そしてその日が、その人にとって、天国での永遠の命の始まりの日なのです。
「賢い生き方」とは、全ての供給を神に頼り、神に信頼する生き方。
「賢い生き方」とは、神から供給されることを知っている生き方です。
神は、クリスチャンを特別に配慮してくださいます。神は、信者の全ての必要をご存じです。
そして、時にかなって与えてくださいます。このことを知る信者は幸いです。
たとえ貧しくても、神からの供給に信頼して思い煩うことはありません。
もし誰かが不正をして、自分のものを奪っても、神に任せて奪い合いをすることはありません。
このように、神からの供給に信頼して生きることは幸いです。
その人は、多くの争いから自分を守ることができるでしょう。
そして、最後には天国に迎え入れられて豊かになることでしょう。