律法学者、パリサイ人たちは
イエスに対して激しく怒り、しつこい質問をするようになった。
イエスは、パリサイ人や律法学者たちの偽善を非難した。
- 彼らは、外側は清めるが心は神をないがしろにしている。ルカ11:39
- 律法を守り、献金はしているが、心の中は罪だらけだ。ルカ11:42,43
人からの尊敬を受ることを好む、彼らの高慢を指摘した。
律法学者たちの迫害が始まった。イエスは言われた「人を恐れるな。
神を恐れて、教えられたことを語れ。」
あなたたちはこれから、律法学者たちに迫害され、ののしられるようになる。
弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。マタイ10:25
パリサイ 人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。ルカ12:1
- 律法学者やパリサイ人たちは、イエスが悪霊「ベルゼベル」の力で「いやし」や「奇跡」を行っていると言った。
- イエスに悪霊付きと言うのであれば、イエスの弟子たちはもっとひどい悪口をいわれるはずである。だから、今から覚悟をしておきなさい。
迫害者を恐れずに語れ。わたしの言葉は真理だから。真理に立つものは必ず勝利するから。
だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。マタイ26:27
おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。ルカ12:2,3
- 真理は、隠されたままにならない。必ず、人々が知り、人々が求めるようになる。
真理は、人々を律法の呪縛から解放する。人々は真理を求めて集まって来る。 - 迫害者を恐れてはならない。真理の側に立つ者たちは、最後には勝利するから。
真理に反抗する者に神の祝福はない。彼らは神を敵に回しているからだ。
迫害者を恐れずに語れ。彼らは体を殺しても、魂まで滅ぼすことはできないから。
そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがた に言います。この方を恐れなさい。ルカ12:4,5
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れ なさい。マタイ10:28
- 迫害者たちを恐れてはならない。
彼らはあなたを殺しても、あなたを地獄に入れることはできないから。
彼らに殺されたとしても、あなたは死の瞬間にパラダイスに移され、永遠の安息に入る。
あなたにとって、何の損害もない。 - 迫害者たちを恐れて信仰を捨ててはならない。魂が永遠に滅びることになる。
迫害を避けて、信仰を捨てるならこの世で生き延びることはできるだろう。しかし死後、あなたは神にさばかれる。ゲヘナに投げ込まれて永遠に苦しむことになる。 - 律法学者たちに逆らうことではなく、神に逆らうことを恐れるべきである。
神に逆らうなら永遠に滅びることになる。律法学者たちを敵にすることを恐れず、
イエスの教えの側に立つべきである。
神は信者をこまやかに守っている。だから安心せよ。
五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。ルカ12:6,7 / マタイ10:29-31
- 神は、信者のことを特別に保護している。信者は神の御手の中にある。
神の許し無しには何事も起きない。だから人を恐れるな。
野のスズメですら、神の保護のうちにある。神の許可なしには死ぬことがない。(マタイ6)
キリスト者はスズメよりも優れた者、キリストの血にあずかる「神の民」である。
神は信者を特別に守っていてくださっている。だから、迫害者を恐れずに御心を行え。 - 神は、あなたのことを詳細にご存じである。
神はあなたの神の毛の数すらご存じだ。あなたの全てを知っておられる。
あなたの悩み、あなたの必要を全てご存じである。 - 信者は神の摂理の内に生かされている。信者にとって偶然はない。
全ては、神の許し、神の計画によって起きる。
だから、信者は迫害を受けても、神の許し無しに死ぬことはない。
たとえ、迫害があったとしても、信者は神が定めた時までは死ぬことがないと言える。
そして、神が定めた時に死ぬことが、信者にとって一番幸いである。
人前で信仰を否定する者は、私の弟子ではない
そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。ルカ8,9/ マタイ10:32,33
- 人々の前で、自分は信じていないという者は天国に入れない。
- そのような者のために、イエスは罪の仲裁者にはならない。
天のさばきの座で、イエスはその者とは関係がないと言われる。
イエスに従うとき、家族、友人と不和が生じることを覚悟せよ
わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。マタイ10:34-36
- イエスを信じたら、家族や友人ともっと仲良くできるのではない。
- イエスに従うとき、家族が勧める生き方に従えないときがある。
そのために、家族、友人と不和が生じるだろう。 - あなたの信仰を、家族や友人は反対し迫害することを覚えておくべき。
家族、友人よりも、イエスを愛する者でなければならない
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。マタイ10:37
- 家族を愛することが勝って、信仰を否定するとか信仰を止める者はイエスの弟子ではない。
そのような者は天国に入れない。 - あなたは父母や息子娘を愛している。しかし、彼らを喜ばせることよりも、イエスが喜ぶことを選び実行することができなければならない。
自分に与えられた重荷を負って、私についてきなさい
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。マタイ10:38,39
- 信仰のために課せられた重荷を負ってイエスに従いなさい。そうすれば永遠の命に至る。
愛する家族や親しい友人から嫌われること、迫害を受けること。イエスへの信仰のために困難な人生を生きること。これらは、あなたに課せられた重荷である。しかし、信仰を捨てて重荷を下ろすのではなく、信仰をつらぬいて、自分に課せられた重荷を負ってイエスについてきなさい。そうすれば、あなたは天国に迎え入れられ、永遠の命を得ることができるから。
もし、キリスト教が日本で禁止されたら、あなたは踏絵を踏みますか、踏みませんか?
江戸時代はキリスト教が禁止されました。信仰する者は拷問にかけられ死刑にされました。幕府はキリシタンを見つけることにやっきになっていました。そこで採用されたのが踏絵でした。
木の板にマリア像が絵が描かれています。これを踏ませることで、信仰者かそうでないかを調べました。
もし、今の日本でキリスト信仰が禁止され、踏絵が復活したら、あなたはどうしますか。
「たとえ踏絵を踏んだとしても神は赦してくださる。私は心でイエス様を信じているから。」と多くの人は考えるのではないでしょうか。
しかし今日の聖句から、私はそうではないと思います。
なぜなら、イエスは次のように言われたからです。
「人の前で私を知らないと言う者を、私も天のみ使いたちの前で知らないという」
「体を殺しても、魂を滅ぼすことができない者たちを恐れるな」「この世の命を失うことよりも、神への信仰を否定することで、あなたの命が永遠に失われて、ゲヘナで苦しむことを恐れなさい」
これらの言葉は、イエスが、殺されることを覚悟して真理を語り、人々に自分が信者であることを明らかにせよとの命令です。このように命がけで私について来る者こそ、私の弟子にふさわしい。その者たちに永遠の命を与えるとイエスは言われています。ですから、私は「踏絵を踏む」ことは恐ろしいことだと思います。
反キリストが現れた時、あなたは刻印を受けますか、受けませんか?
将来、キリストへの信仰が禁止される時代が来ると聖書は預言しています。
イエスもそのことを語りましたし、ヨハネの黙示録にも書かれています。
全世界を一時的に平和にする人が現れ、彼を拝むように強制される時代が来るのです。
その人(黙示録では獣と呼んでいます)を拝み、刻印を受けた者だけが、物を売ったり買ったりできなります。つまり、獣を拝まない者たちは、生きることができなくなるのです。
反キリストが現れた時、あなたはどうしますか。江戸時代の「踏絵」と同じ状況です。
キリストへの信仰を貫いて死ぬか、それとも信仰を否定して生き延びるか。
その選択は、それぞれのクリスチャンに委ねられています。
おそらく多くの人は「獣を拝み、刻印を受けても、心ではイエスを信じているから私は救われる」と考えるのではないでしょうか。しかし、その考えは間違っている可能性が大です。
なぜなら、イエスはそのような者たちはイエスの弟子にふさわしくないと言われているからです。
「自分の命を自分のものとした者はそれを失い。私のために自分の命を失った者はそれを得るのです」
イエスへの信仰を決して軽く考えてはいけません。それは自分の生死をかけて守り通さなければならないものです。時には自分の命をも捨てて従い通さなければならない、いばらの人生を歩むことです。
このような覚悟が、できているでしょうか。イエスは今日の聖句で、このような覚悟をもってわたしについて来る者こそ、わたしの弟子であると言われています。
人から嫌われるのを恐れて、クリスチャンであることを隠したり、
語る機会が与えられているのに、福音を語らなかったりしていませんか?
日本人は、人との関係を大切にする国民だと思います。
誰にも嫌われたくない、誰とでも仲良くしたいと多くの人が考えています。
しかし、キリスト教は日本人の心の拠り所である神道や仏教と対立する宗教です。
ですから、自分がクリスチャンだと知らせることで、友人たちから距離を置かれる危険があります。そのため、クリスチャンであることを隠したり、信仰について全く話さない人もいます。
しかし今日の聖句から、イエスは人を恐れて真理を語ることを止めてはならないこと、
神を恐れて真理を語ること、自分の信仰を明らかにすることを求めておられます。
ですから、友人や知人に少なくとも、自分はクリスチャンであることを知ってもらうべきです。
そして、自然な会話の流れで、神様が信仰について話す機会を与えてくださるときには、
自分が信じていることについて、短く、わかりやすく、しかも本質を伝えることが重要です。
そのためには、あらかじめ話すことばを用意しておくと良いかもしれません。
家族や友人に嫌われても、あなたはイエスに従うことができますか?
信仰を守り続けることは、そう簡単ではありません。
家族は、あなたが信仰を持つことを喜ばないでしょう。
そのため、ある人は「家族の反対があるから信じることはできません」と言います。
また別の人は「信じたいけれど、家族が亡くなって、自分が死ぬ間際になった時に信じることにします」と言います。
しかし、どちらもおろかな選択です。命はいつ終わるか誰も知ることができないからです。ある日突然、亡くなることもあるのです。そのときに、信じたいと思ってももう遅いのです。
今日の聖句でイエスが言われたように、自分の家族よりもイエスを愛する者でなければ、弟子としてふさわしくありません。イエスよりも家族を愛する人は、いつか信仰を捨てることになります。
家族の反対されても、それらに耐えて信仰にとどまる人がイエスに従うためには絶対に必要です。そして、そのような人でなければ、最後まで信仰を保つことも、永遠の命にあづかることもできません。
あなたには、家族の反対に会っても信仰を貫く覚悟がありますか。
イエスに従うことは、イエスを誰よりも愛することです。このことを信仰のはじめから知っておくことは重要です。それと同時に、イエスはあなたの「決して楽ではない信仰の歩み」を知っていてくださること、そして、あなたが天国に入ったとき、あなたの想像をはるかに超えて豊かに、また永遠に、報いを与えてくださることを覚えておくことも重要です。
キリストへの信仰は、子供のおままごとのようなものではない。
それは、命を犠牲にしてまでも守り通す覚悟を要求するものだから。
「迫害にあっても、命を落とすことを恐れず福音を語れ」とイエスは命じました。ルカ12:4
「迫害者に殺されて命を失うことよりも、死んでから、永遠に自分の魂がゲヘナで苦しまなければならないことを恐れよ」とイエスは言われました。ルカ12:5
キリスト教信仰は、この世で心に慰めを与えてくれるだけの教えでは決してありません。
また、人の作り話から始まったものでもありません。イスラエルの長い歴史の中で証明され、預言者たちによって語られ、そしてイエスが来て、300以上もの預言を見事に成就して十字架にかかり、死んで、復活した事実に基づく信仰です。復活を目撃した人たちがたくさん存在しました。
ですから、私たちはこの信仰を守り通すために、命をも犠牲にする価値があります。
なぜなら、この信仰は確かなものだからです。神が約束してくださる「永遠の命」は、確かに存在するからです。信者は死んでも、イエスと同じように復活します。
信じない者は、死後、神のさばきを永遠に受けることになります。
あなたは、激しい迫害に会ったとき、信仰のために命を捨てる覚悟はありますか?
イエスは、そこまでの覚悟を求めておられます。
このことについて、自分の心を吟味し、心の備えをしておくことは重要です。
なぜなら、そのような状況に直面したときに、動じなくて済むからです。