イエスは救いを完成する時、場所、方法を知っていた。
この時、まっすぐにエルサレムに向かって行かれた。
イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。ルカ13:22
さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。ルカ9:51-53
- イエスの贖い(あがない=信じる人の罪を赦すために死ぬこと)の時が近づいていた。
- そこで、イエスはまっすぐにエルサレムに向かわれた。
救い主は、エルサレムで死ぬことが、神の永遠の昔からの定めだったからである。
預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。ルカ13:33
エルサレムに行く途中、ユダヤの町や村に立ち寄って教えた
- イエスは、エルサレムに向かう途中、ユダヤ人の人々に神の国について教えられた。
そこで、ある人が「救われる者は少ないのですか」とイエスに尋ねた
すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。ルカ13:23
- ユダヤ人たちの多くがイエスを拒絶し、信じる者が少なかったからだと思われる。
イエスを信じて従うことは困難が多い
でも、イエスを通してしか天国に入ることはできないと答えられた。
天国への門は狭い。しかしここから入らなければ救いはない。
努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。 ルカ13:24
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。マタイ7:13,14
- 救いの門は狭い。イエスを信じ、イエスに従う人生は楽ではない。この道を行く人はまれ。
この道を選ぶ者は少ない。救われる者は少ない。 - 多くの人が広い門を選ぶ。イエスを信じない人生は生きやすい。この道を行く人が多い。
イエスを主と信じない人生は生きやすい。この世を大いに楽しんで、自分の欲望を満たして生きることができる。イエスに従うための葛藤も苦労もしなくていい。
しかし、彼らは死後に永遠の刑罰を受けることになると聖書は言う。
そして天国への門は、閉ざされるときが来ることを教えた
天国に入る門が閉ざされる時が来る
家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、 『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。ルカ13:24,25
- 救いの門が閉じる時が来る。
今は、誰にでも信じるチャンスが与えられている。イエスを信じるなら救われる。
しかし、救いの門はいつまでも開いたままではない。
キリストが再臨される時、神は、救いの門を閉じられる。
その時、信仰を持っていない人は、天国に入ることはできなくなる。 - 神が門を閉じた後は、誰も天国に入れなくなる。
人が死ぬ時、その人の救いの門は閉じられる。
死ぬ時に、信仰があったのか、なかったのかによって、
その人が死後の行き先が決められる。
偽りの信仰者は、天国に入れてもらえない
すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
- クリスチャンとしての外側の姿は、天国に入る保証にはならない。
神は、その人の心をご覧になる。
「教会で洗礼を受けた」「聖餐を受けた」「礼拝に集った」「教会で奉仕をした」「聖書の学びをした」などの外的なしるしがあれば、天国に入ることができるのではない。
神は、その人の心がキリストを王としているか、正しく信じているかをご覧になる。
クリスチャンと言いながら、新生していない人、聖霊を宿していない人
信仰と言いながら、自分に都合の良いキリストに似た偶像を造り上げて拝んでいる人たちは、
このとき明らかになる。
福音を聞いていたのに信じなかった人たち、メシヤを待っていたのに救われなかったユダヤ人たちは、いっそう悔しがることになる
神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯 ぎしりしたりするのです。ルカ13:26-28
- イエスを信じなかったユダヤ人たちは、ほんとうに悔しがる。
ユダヤ人たちは異邦人たちより先に主を知らされていた。しかし、彼らは待ち望んでいたメシヤが来て彼らを教えたのに、イエスを認めることができなかった。
自分たちの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブが天国に入っているのに、自分たちは入れない。
自分たちの信仰が、父祖たちの信仰と違っていたことに愕然とする。この苦しみは深い。 - 教会に集っていたのに救われなかった人々、福音を聞いていたのに信じなかった人々は、いっそう悔しがる。
・教会に集っていながら救われなかった人の悔しさはいっそう強い。
一緒に礼拝していたあの人、この人は天国に入っているのに、自分は入れないから。
・家族や友人にクリスチャンがいて福音を聞いていたが信じなかった人の苦悩も激しい。
救いのチャンスが与えられていたのに、拒絶したからだ。
イエスは、多くの異邦人たちが救われると預言した
多くの異邦人たち(ユダヤ人以外の人たち)が救われる 世界中から信者が起こされる
人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」ルカ13:29,30
- 全世界から信者が起こされる。
- 神の啓示は、はじめユダヤ人に与えられ、異邦人は除外されていた。
しかし、十字架以降、ユダヤ人よりも多くの異邦人がイエスを信じて救われた。
今しんがりの者(最後の人=異邦人)が、あとで先頭になり(先に救われて)天国に入る。
いま先頭の者(ユダヤ人)がしんがりになる(最後になる)最後に救われることになる。
考察1「狭き門」とはどのようなものか。
天国に続く道の「門」(入口)は狭い。それは「自分の罪に愕然(がくぜん)として、神により頼むという心の痛み」を通して入る門だからです。
天国への門は狭い。なぜなら、「痛み」を通してしか、その門をくぐることができないからです。
この門は、自分の罪を覆い隠すことなく見つめることを要求します。
人は、この門の前に立つとき、自分が罪にまみれた存在であることを、まざまざと見せられます。そのため、多くの人々はこの門から離れます。
さらにこの門は、「自分の努力では罪を除くことができない、天国に入れない」と宣言します。
だからこそ「罪を赦すために神が身代わりに死なれた、イエスの十字架のわざ」に頼れ、
そうすれば天国が約束されると呼びかけます。
多くの人は、この呼びかけにつまづいて門から離れます。
なぜなら、彼らは自分の努力で罪を聖めることができる、天国に入ることができると信じているからです。また、そうすることにこそ価値があると考えているからです。
彼らは、自分の罪がいかに深く根を下ろしたものかを理解していません。たとえ罪の衝動を止めることができても、少しのきっかけで沸き上がり問題を起こすことを悟っていません。
イエスは、殺人や盗みという実際に犯す罪だけでなく、「ねたみ」「殺したいと思うこと」、「思いの中で犯す姦淫」など、罪の思いも神にさばかれると言われました。
しかし一方で、自分ではどうしようもできない罪の力が、内に宿ることに気がついて愕然(がくぜん)とする人たちがいます。彼らは、この門に心から感謝して入っていきます。
人々は天国に通じる門から入ることを嫌がるために、「狭い門」といわれるのです。
この門から入る者を神が守る。そして天国まで連れて行く。
この門を通るなら、そのあとの道は神が天国まで導いてくださいます。
神は「私はあなたを決して見放さず見捨てない」と約束してくださっています。
この道の途中にも、多くの危険があり、獣たちが襲ってくることがあるかもしれません。
でも、神が守っていてくださるので、あなたは勇気を失うことなく、神に信頼して前進し続けることができます。そして、神はあなたを天国に迎え入れてくれます。
この門は「天国」への入り口。この門から入らなければ救われない。
この門を通らなければ救われることも、天国に入ることもできません。
イエス・キリスト以外の聖者たちに頼っても、彼らは私たちを天国に連れて行くことはできまません。私たちは、キリストが建てた「門」を通らなければなりません。その「門」だけが天国に通じているからです。
考察2 生まれつきの心は、狭い門を嫌って入ろうとしない。
聖霊によって新しくされた心だけが、狭い門から入ることを可能にさせる。
新生していない心では「狭い門」から入ることができない。
狭い門から入る(天国に通じる入り口から入る)ためには、自己の罪を知ってがくぜんとなり、
自分ではなくキリストに生きていただきたいと願う心境に至らなければなりません。
それは同時に、自分はこのままでは神にさばかれて当然な存在であると認めることです。
その上で、キリストに罪の赦し、神との和解を完全により頼むことです。
このような告白は、生まれたままの「かたくなな心」にはできません。
狭い「門」から入るために、聖霊によって心が新しくされる必要がある
救いの門から入るために、私たちは神の特別な介入を必要としています。
それが、神からの霊である「聖霊」です。
聖霊が降るとき、人の心は新しくされます。真の信仰告白ができるように変えられます。
エレミヤは と預言しました。
イエスは、人は新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」とニコデモに教えました。
聖霊は人格を持つ神、信じる者の内に宿り、父なる神にとりなしをしてくださる方です。
聖霊をパワーと勘違いして、聖霊の力が降り注ぐことを求めているなら、あなたは間違っています。
聖霊が与えらえた、聖霊が降ったことのしるしは、「狭い門」から入ることができる心の状態にされたということではないでしょうか。
真の信仰告白ができるようにされたということではないでしょうか。
これは人間の努力では決してできない心の変化です。神の奇跡が起こすわざなのです。
ですから狭い門から入るためには、聖霊が絶対に必要です。
そして求める者には聖霊が与えられるとイエスは約束されています。
ただし、聖霊を求めて、断食したり、長時間祈ったりしても無駄なことは知っておいてください。
そのように勧める教師はにせものです。
聖霊の風は、自分の罪を知り、その罪をどうしようもできない自分の無力を知って低くされた心に吹く
聖霊は風にたとえられています。風は人間にはコントロールすることはできません。
そのように、人間が、聖霊をこの人、あの人にと吹かせることはできません。
聖霊が、いつどこ吹くのかは、神の御心にかかっているからです。
ただ1つ言えるとすれば、風は、高い所から低い所に吹くということです。
自分の罪の恐ろしさを知り、自分の無力を知って、低くされた心で、聖霊を待ち望む、
この心の状態がなければ、祈っても断食しても聖霊が与えられることはありません。
神は、自分の胸をたたく罪人を憐れんで、恵みとして聖霊の賜物をくださるからです。
考察3 真の信者とそうでない者を見分けることは難しい。
しかし、門が閉じられる日、1人1人の信仰が明らかになる。
この世では、真の信者とそうでない信者が混在しています。
私たちには、両者の区別をつけることはできません。
なぜなら、にせ信者やにせ教師であっても、クリスチャンらしい振る舞いができ、善行に人一倍熱心だったりするからです。正しく教える教師の教会が信者を多く獲得しているとは限らず、にせの教師の方がたくさんの信者を集めていることがあるからです。
しかし、救いの門が閉じられる日、1人1人の信仰が神によって明らかにされます。
にせの信者や教師は、天国に入ることがゆるされず、外に投げ出されることになるからです。
その日、正しい福音を伝えたために苦労してきた真の教師や、にせ信者たちと戦って来た真の信者たちは、神の正しいさなきがなされたことを見て、大いに喜ぶことだろうと思われます。そして自分たちの労苦が無駄ではなかったことを知ると思います。
考察4 将来、真の信者だけの教会が出現する。そのとき、神は1つ、信仰は1つになる。これが、この世で戦っているクリスチャンにとっての究極の希望。
狭い、救いの「門」が閉じられるとき、真の信者たちだけで構成される教会が出現します。
このとき、神は1つ、信仰は1つになるという、エペソ4章のみことばが実現します。
主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。エペソ4:5,6
私たちは、真に親しい兄弟姉妹の信仰の交わりができることでしょう。
信仰の一致から来る、喜びに満ちた交わり、兄弟姉妹と共に神を賛美する恵みを味わうことができるでしょう。
もはや教理のことで分裂したり議論したりする必要はありません。
神が真理を明らかにされ、全ての人が難解であった聖書個所の意味を知るからです。
このような教会が出現すること、自分がその交わりの中に入れられることこそが、この世で信仰の戦いの中にいるクリスチャンたちにとっての究極の希望ではないでしょうか。