取税人たち、罪びとたちがイエスの話を聞こうと集まっていた
さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。ルカ15:1
「取税人」とはどういう人か
ローマ政府のために税金を集めるユダヤ人のこと。この仕事は落札で与えらえた。
より高額な金で落札できる者が取税人になった。彼らは、定められた額をローマ政府に支払う義務があった。税率についての定めがなかったため、取税人たちは必要以上に集めてもうけていた。また、彼らはユダヤ人でありながらローマ政府のために働いていたため、人々から嫌われていた。
「罪びと」とはどういう人か
律法を守らない人、律法が汚れているとする仕事についている人。
羊飼いのように安息日を守れない人、死体を処理する仕事(肉屋)をする人。
重い病気にかかった人や生まれつき障害を持つ人。
(病気は、本人か家族、もしくは先祖が罪を犯した結果と考えられた。それで彼らも「罪びと」とみなされた。)
- 取税人や罪びとたちは、イエスの話により慰めらえた。
天国に入る希望を持った。
だから、彼らはイエスの話を聞きに集まって来た。
律法学者たちは「罪びと」を教えることは無駄だと思った
すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。
「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」ルカ15:2
- 当時、取税人や罪びとたちは地獄に行くと思われていた。彼らは罪深いから。
- 重要ポイント1!
律法学者たちは、取税人や罪びとに教えることはなかった。
罪びとたちの救いのために、彼らがができることはなかったから。
なぜなら、彼らは律法を守ることでしか救われないと教えていたから。
律法を守れない罪びとに救いの道はなかったから。 - 重要ポイント2!
律法学者たちは、救われる道が閉ざされている人たちに、話をするのは無駄だとイエスを非難した。
パリサイ人、律法学者とはどういう人たちか
律法学者は、モーセが定めた律法、その後の人々が定めた生活のきまりを厳格に守る人々。
彼らは、生活のきまりを守ることで、天国に入ることができると教えた。
パリサイ人は、律法は守るけれども、天国での復活、奇跡を信じない人々。
イエスは「神は罪びとを捜し出して救う」ことを教えた
「いなくなった羊のたとえ」を話をされた
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩 かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。ルカ15:4-7
- いなくなった1匹の羊とは、飼い主から離れて死を待つしかない羊。
律法によっては救われることができない1人の罪びと。
罪びととして永遠の滅びを待つしかない人を、いなくなった羊にたとえた。 - 99匹の羊とは、飼い主がいなくても安全な羊。
イエスを必要としない人々。律法を守っているから天国に入れると自信をもっている人々。
特に、律法学者やパリサイ人たちを99匹の羊にとたえた。 - 羊飼いにとって、いなくなった羊を見つけた喜びは特別。
それと同様に、神は、1人の罪びとが悔い改めることを大いに喜ばれる。
だから、罪びとに説教をすることは無駄ではない。
神は罪びとを捜しておられ、罪びとを救おうとしておられるからだ。
医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。ルカ5:31,32
考察1 イエスは「罪びと」こそ救われると説いた。
そのため、多くの罪びとがイエスの話を聞こうと集まった。
「罪びと」と呼ばれた人たちは、律法を守れなかった。
そのため、救われない人たちとされた。
当時、罪びとと呼ばれた人々は、生まれつき障害があったり、重い病気にかかっていたり(らい病)、律法で汚れているとされる仕事(羊飼いなど)につく人々でした。
彼らは、律法を守りたいと思っていましたが、生活のため、自分たちではどうしようもない事情のために、律法をることができませんでした。そのため、彼らは救われないと思われていました。
イエスは、「罪びと」こそ救われると説いた
ところが、イエスは「罪びとに救いの道がある」ことを知らせました。
律法を守ることで救われるのではない、イエスを信じることで救われるのだと知らせました。
イエス自身も、そのことを証明するために律法に反することを行いました。
安息日に人を助けたり、病気をいやしたりしました。
神は罪びとを捜し出して救うと伝えた。イエスは罪びとたちに希望を与えた。
律法学者たちは「罪びとが悔い改めるなら、神はその人を救う」と教えました。
しかしイエスは、律法学者の教えをさらに一歩進めて「神の側から罪びとに救いの手が差し伸べられる。罪びとが救われることは、正しく行う人が救われるよりも天において大きな喜びがある。」と教えました。
イエスの宣教は、自分は救われる資格がない、救われることは不可能だと思っていた「罪びと」と呼ばれた人々に希望を与えるメッセージでした。
そのため、彼らはイエスの話を聞きに集まったのでした。
考察2 律法学者たちは「罪びと」は救われないと考えた。
そのため、彼らと関わることを避け、彼らを教えることはなかった。
彼らは、律法を守る人は救われ、守らない人は救われないと教えた。
律法学者たちは、律法を守ることが救いにとって絶対必要な条件だと教えました。
神によってモーセをとおして律法が与えましたが、その後、人々によって多くの生活のきまりが付け加えられました。
ところが、重い病気の人や、ある仕事についている人たちは、律法が定めたきまりを守ることができませんでした。そのため、彼らはそのような人たちを「罪びと」と呼んで救われないと考えました。
律法学者たちは、罪びとたちを教えることはありませんでした。
まして、食事を一緒にすることもありませんした。
律法学者たちの考えは、神に反していた。その結果、彼らは人々を苦しめ、イエスに敵対した。彼らこそ、天国に入ることができない者だった。
救いについて、律法学者たちと神との考えは正反対でした。
律法学者たちは、律法を守って、救いに確信を持つ正しい人が神の国に入ると教えました。
イエスは、律法によっては救われないと悟った「罪びと」が神に近い。神は「罪びと」を捜し出して救うと伝えました。
律法学者たちの理解は間違っていました。彼らは誤って人々を判断していました。
そのために、多くの人たちが苦しみ、みじめな思いをしていました。
また彼らは、神であるイエスに敵対するという大きな罪を犯していました。
自分は正しく行っている、自分こそ天国にふさわしいと誇っていたパリサイ人や律法学者たち。「罪びと」たちを見下し、「神の国」から追い出していた彼らこそ、神に嫌われており、永遠の滅びに至る者だったのです。
考察3 私たちにとって「いなくなった羊」の話はどういう意味をもつか。
自分は善行をしている。天国に入って当然だと思う人は神から遠い。
彼らはイエスの話をおろかだと思う。
自分の罪を知って、救いの望みを失っている「罪びと」が神に近い。
「罪びと」はイエスの話によって希望を持つことができるから。
神は、まことの命を失っている「罪びと」を探し求めておられます。
ですから、私たちは自分の罪を知ることを恐れる必要はありません。
ありのままの「罪びと」としての自分を、神の前に差し出すことです。
そして、神によって救い上げていただくことを祈ることです。
自分の罪が、わかればわかるほど、神に近いと言えるからです。
神は、そのような「罪びと」を悔い改めさせてくださる。天国に入れてくださる。
これが罪びとである私たちの唯一の希望です。
罪びとたちを救うために、罪の世に来られたイエスに感謝をおぼえます。
私たちに希望を与えるために、イエスが十字架にかかって究極の苦しみを味わわれたことを思うとき、私に与えらえた救いは、この世のいなかる宝にもまさることがわかります。
イエスという飼い主を見失って、迷子になっている1人の罪びと(羊)が、イエスのもとに帰ることができるようにと祈ります。