- 1 金持ちは人生を楽しんだ。 彼は神に関心がなかった 信仰はなかった
- 2 金持ちの門前に乞食(こじき)のラザロが寝ていた 彼は、救われる信仰があった
- 3 金持ちもラザロも死んだ
- 4 死後、金持ちはハデスで苦しみ、ラザロはパラダイスで慰められた
- 5 金持ちが受けている苦しみは、 彼にとって正しいさばきであることが告げられる
- 6 ハデスとパラダイスの間を行き来することはできない 死後に、さばきの変更は不可能
- 7 自分の救いをあきらめた金持ちは、 兄弟たちがハデスに来ることがないようにと願う
- 8 みことばを聞いて信じない者は、ラザロが行っても信じない
神は金持ちの願いを聞かなかった
- 8.1 考察1 死後の行き先は2つしかない。それは救われる信仰があるかないかで決まる。 いったん決まれば、そこから出ることはできない。だから、イエス・キリストを信じて救われることが、人生において何よりも重要なことである。
- 8.2 考察2 神は、私たちが救われるために十分な備えしてくださっている。救われないなら、信じない人の責任。自分へのさばきについて、神に文句は言えないことを覚えておくべきである。
- 8.3 考察3 この世の宝は、私たちを信仰から遠ざける。 しかし信仰があれば、貧しくても病気でも、信仰の無い金持ちより幸せである。
- 8.4 考察4 私たちも、ラザロのように全てを失ったとき、神がわかることが多い。 だから自分を吟味しよう。自分を苦しめているのは、自分の罪であることを知ろう。 そして神に導かれる新しい人生を始めよう。
金持ちは人生を楽しんだ。
彼は神に関心がなかった 信仰はなかった
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ルカ16:19
- 金持ちはぜいたくな暮らしをしていた。
「紫の衣」=高価な上着。 紫は値段が高い衣装
「細布」=エジプトの亜麻でできた柔らかい下着。高価なもの。 - 金持ちは遊び暮らした。彼は大いに楽しんだ。
金が使いきれないほどあったのだろう。額に汗して働く必要はなかった。
友人と盛大なパーティーをしたり、この世の楽しみを味わいつくした。
自分のためだけに生き、自分のためだけに金を使った。 - 金持ちは満ち足りていた。信仰はなかった。神に頼る必要もなかった。
金持ちの門前に乞食(こじき)のラザロが寝ていた
彼は、救われる信仰があった
ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。ルカ16:20,21
- 「ラザロ」とは「神は助け」という意味。
「ラザロ」=へブル語の「神が助け」をギリシャ語に訳したことば。
ラザロという名前によって、このこじきが信仰を持っていたことが伝えられた。 - ラザロは貧しく病気であったが、本当の信仰を持っていた。
彼は、極度に貧しかった、そのうえ病気を持ちで苦しんでいた。
しかし、彼は罪を悔い改めて本当の信仰を持っていた。 - 彼は1日1日を、神に頼って生きていた。
ラザロは毎日、人からの善意で食べ物を与えられるしかなかった。
彼は、人の心に働きかけて、食べ物を得られるようにしてくださる神に頼って生きていた。
金持ちもラザロも死んだ
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。ルカ16:22
- ラザロは看取る人もなく死んだ。彼の死を悲しむ者はいなかった。
しかし、ラザロは天使たちによってアブラハムのふろころ(パラダイス)に連れて行かれた。 - 金持ちも死んだ。盛大な葬式がなされた。たくさんの友人たちが彼の死を悲しんだ。
死後、金持ちはハデスで苦しみ、ラザロはパラダイスで慰められた
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎 の中で、苦しくてたまりません。』
- 死後、金持ちは苦しみの場所(ハデス)に、ラザロは慰めの場所(パラダイス)にいた。
- ハデスの炎が金持ちを苦しめた。
- ラザロをハデスに来させて、自分を冷やさせてくれと金持ちは頼んだ。
金持ちが受けている苦しみは、
彼にとって正しいさばきであることが告げられる
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここ で彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。ルカ16:25
- 金持ちは神を信じなかった。思う存分楽しみ、罪を重ねた。
金持ちは神や死後のさばきには関心がなかった。彼は神を信じなかったから。
彼にはどのような欲望もかなえることができる金や力があった。
そのため、神のさばきを恐れず自分の欲望を最大限にかなえた。
彼の欲望には、神が罪だとすることも多くあったはずである。
- 金持ちが死後に苦しみの場所にいるのは当然のこと。神の正しいさばきによる。
神は金持ちを正しくさばかれただけである。金持ちは神に文句を言う資格はない。 - ラザロには救われる信仰があった。彼が死後、安息に入るのは正しいさばき。
彼は生きていた間、貧しく病気であった。彼の人生は良いものではなかった。
しかしラザロは苦しみの人生を通して、救われる信仰を持つようになっていた。
神は彼を覚えておられて、彼の死後パラダイスで彼に永遠の安息を与えてくださった。
ハデスとパラダイスの間を行き来することはできない
死後に、さばきの変更は不可能
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもで きないのです。』ルカ16:26
- 死の瞬間に、死後の行き先が決まる。
死の瞬間に、その人がどのような信仰を持っていたかによって行き先が決まる。
そのとき、救われる信仰を持っていた者はパラダイスに入れられ、信仰のない者や、
自分勝手に信じている者や形式だけの信者たちはハデスに入れられる。 - 死後の行先は2つしかない。
人は死後、ハデス(苦しみの場所)か、パラダイス(慰めの場所)のどちらかに行く。 - いったん場所が決まったら変更はできない。
いったん場所が決れば、2つの場所を行き来することはできない。
永遠にそこに留まるしかない。ハデスに入れられたら永遠に苦しむことになる。
自分の救いをあきらめた金持ちは、
兄弟たちがハデスに来ることがないようにと願う
彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』ルカ16:28
- 金持ちは、自分のさばきの決定についてあきらめた。
金持ちは、自分へのさばきを変えることができないことがわかった。
それで、自分の救いについて神に願うのをやめた。 - 生きている兄弟たちが死んでハデスに来ることがないように願った。
自分の救いをあきらめた金持ちは、せめて彼は生きている兄弟たちが、死後のさばきを逃れることができるようにしたいと思った。 - ラザロを生き返らせて彼らに話させれば、彼らは悟ると思った。
ラザロを兄弟たちのところに送って、死後について語らせれば、彼らは悔い改めて神を信じるだとうと思った。
みことばを聞いて信じない者は、ラザロが行っても信じない
神は金持ちの願いを聞かなかった
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」ルカ16:29-31
- しかし、神は金持ちの願いを退けた。
- 兄弟たちには、モーセと預言者のことばが与えられている。
彼らには、十分な神の啓示が与えられている。
- 聖書に聞き従わないなら、ラザロが生き返って彼らに話しても信じない。
神のことばを聞いても信じない人たちは、たとえ死人が生き返って死後について語っても信じない。人は、どんな奇跡を見たとしても神を信じることはない。
考察1 死後の行き先は2つしかない。それは救われる信仰があるかないかで決まる。
いったん決まれば、そこから出ることはできない。だから、イエス・キリストを信じて救われることが、人生において何よりも重要なことである。
死後は、さばきか安息のどちらかしかない。中間の場所はない。
この話は「たとえ」であって実際に起きたことではないと説教する人がいます。
しかし、この話が「たとえ」だったとしても、イエスが伝えておきたかった真理は明らかです。
人は死んだら無になるのではない。死んでも私という意識があり肉体がある。
そして人は死後、苦しみの場所であるハデスに行くか、安息の場所であるパラダイスに行くか、どちらかの場所で永遠に過ごすということです。
この2つ以外の中間の場所、たとえばぬるま湯的なハデスとか、苦しみが中断するハデスはないということです。
その人が救いに至る信仰を持っていたかどうかで、行き先が決定する。
私たちが死ぬ瞬間、その時に救われる信仰があったかどうかによって、死後の場所が決まります。
神は、心をご覧になります。そして神は正しいさばきをなさいます。
生きていた間に教会に貢献したこと、人々から尊敬を受けていたことなどは関係がありません。
ただ、自分の罪を悔い改めて、神への真の信仰を持っていたかどうかが、死後の行き先を決めることになります。
いったん決まれば変更は不可能。
いったん場所が決れば、そこから出ることはできません。
イエスはアブラハムに言わせました。
私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもで きないのです。
つまり、死後に救われる可能性はないということです。
ハデスからパラダイスに移してもらうことはできないし、パラダイスにいる人がハデスに行って、そこにいる人たちを救うこともできません。
人生において、何を持つよりも、信仰を持つかどうかが一番重要なこと。
私たちは、良い学歴を持ちたい、お金持ちになりたい、仕事で成功したい、美人になりたいと思います。なぜなら、これらを持てばこの世で幸せになれるからです。
ところが、聖書はこれらのものを得たとしても、信仰がなければ、死後、永遠に苦しむことになると警告しています。
成功を目指すことが悪いのではありません。金持ちになることが悪いのではありません。
そうではなくて、あなたの成功や富、楽しみが、あなたが神を信じることを難しくさせているなら、あなたは不幸だと言っているのです。なぜなら、信仰を持てるかどうかに永遠の運命がかかっているからです。ですから、生きていた間楽しんでも、死後、永遠に苦しむことになるなら、その人は不幸です。しかし信仰を持つことができたなら、たとえ不幸が多かったとしても、死後永遠に安らぐことのできるので、その人は幸せだと言えるのです。
ですから、人生において緊急で重要なことは、救われる信仰を持つことです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいで しょう。マタイ16:26
考察2 神は、私たちが救われるために十分な備えしてくださっている。救われないなら、信じない人の責任。自分へのさばきについて、神に文句は言えないことを覚えておくべきである。
神は、私たちが救われるために十分な啓示を与えてくださっている。
- 神はユダヤ人の歴史を通して、ご自分について教えられた。(旧約聖書)
律法を与えて人に罪があることを教えた。
彼らを罪から救う「メシア」を待ち望む長い期間を与えられた。(ユダヤ人の歴史) - イエスや弟子たちよって語った。(新約聖書)
- イエスの十字架の死と復活の事実 (イエスは神である)
これらを示されても信じないなら、救われないのはその人の責任。
死後のさばきについて文句は言えない。
神は私たちの救いのために十分すぎるほどの証拠を残されています。今も、弟子たちを全世界に遣わして、イエスキリストの死と復活を述べ伝えさせています。
ですから、救われないのは「みことば」を聞いても信じない人の責任です。
死後に行き先を変更することはできません。金持ちのように死んで全てを知らされてから、神に願っても手遅れなのです。私たちはいつ死ぬかわらない存在です。若くても突然事故で死ぬことがあります。だからこそ、福音を聞くことができたなら感謝するべきです。そして時を逃さずに信じることが本当に大切です。
考察3 この世の宝は、私たちを信仰から遠ざける。
しかし信仰があれば、貧しくても病気でも、信仰の無い金持ちより幸せである。
金持ちは信仰を持つことができなかった。
この世の宝が、彼が信仰をもつことを困難にした。
お金は、自分を幸せにしてくれます。
お金があれば、やりたいことができます。欲しい物が手に入る、友人もできる。
明日の心配をする必要がない、苦しんで働かなくていいのです。
ですから彼は神を必要としませんでした。お金が彼をささていました。
彼もまた、神様ではなくお金に頼っていました。
彼も時には自分の死後のさばきについて考えたことがあると思います。そして不安に思ったことがあったでしょう。しかし「自分が豊かなのは神に愛されているからだ。このままの自分で天国にいける。」と都合よく考えて、死後のさばきへの恐れを消し去っていたのでしょう。
そして彼は信仰がないまま死に増した。そのため、ハデスで永遠に苦しむことになってしましました。
何も持っていなかったラザロ。
しかし彼には、救われる信仰があった。
金持ちとは対照的に、ラザロは何も持っていませんでした。
お金はもちろんのこと、家も、家族も友人もいませんでした。
彼は罪びとだと見下されていたでしょう。彼を助ける人は少なかったと思われます。
彼は、生まれた時から乞食ではなかったはずです。
私の想像ですが、彼は自己中心に生きた結果、いろいろなものを失っていったのではないかと思います。そして、最後には乞食(こじき)にまで落ちぶれたのかもしれません。
しかし、彼は苦しい人生の途中で、自分の罪に気づいて悔い改めました。
神に回心した後も、彼は極度に貧しく病気のままでした。
しかし彼は自分の重荷が取り去られないことを神に文句を言うこともなく、自分が負うべき重荷として受け入れて生きていました。
人からの施しを受けて、日々の食べ物を得ていましたが、
神が彼の与え主であることを知っていて、神にに頼り、神に感謝をして生きていました。
ラザロはこじきのまま死んだ。
神はラザロを覚えておられた。彼に、永遠の安息を与えた。
彼は乞食のまま、病気のまま死にましたが、神はラザロを見捨ててはおられませんでした。
「ラザロ」の名前は命の書に書かれていました。その証拠に、金持ちの名前は出てきません。
神は彼の名を知らないからです。金持ちは天国に入ることがなかったからです。
ラザロは、死後天使たちによって、アブラハムのふところに連れていかれました。
彼は死後、永遠に安息する場所に入れられました。
考察4 私たちも、ラザロのように全てを失ったとき、神がわかることが多い。
だから自分を吟味しよう。自分を苦しめているのは、自分の罪であることを知ろう。
そして神に導かれる新しい人生を始めよう。
人生が順調なときに、信仰は持ちにくい。
お金がある、健康である、仕事が順調、友達もたくさんいる、人生が順調に進む時に神を信じる人は少ないのではないでしょうか。なぜなら、神を必要としないからです。
人生が困難なとき、神を恨んで、自己憐憫や自暴自棄になる人が多い。
もしあなたが、ラザロのように、お金はない、家もない、友人も家族もいない状況なら、
あなたはどうしますか? 自己憐憫になって、自分の不幸を誰かのせいにして恨み続けますか。
それとも自暴自棄になって、幸せそうな人を自分と同じように不幸にしてやろうとしますか。
これらの思いは、神が罪だと定めるものです。ですから、不幸によって、さらに自分の罪を増し加える人たちも多いです。
神を信じるなら、自分の重荷を負いながら、天国に希望を持って生きることができる。
しかしラザロは違いました。彼は自分の罪が今の悲惨な状況を作り出したことを認めました。
そして、神に罪を悔い改めて信仰を持ちました。
彼は自己憐憫にも、自暴自棄にもなることなく、神に文句を言うこともなく、自分が蒔いた人生の結果を背負って生きました。それは彼が当然負うべき重荷であったからです。
しかし、神は彼の苦しみを知っいてくださること、彼の重荷を神が共に負ってくださることを知っていました。心配ごとは神に委ねて、1日1日を神に頼って生きていました。
彼は、死後、神のもとで永遠に憩うことができると信じていました。
彼の希望は、この世ではなく、次の世である天国にありました。
だから彼は、この世での苦しみ(こじき、病気)を耐えることができたのです。
人生が順調でも、そうでなくても、神をのろい、人をのろって、
自分の罪を認めない人は救われない。
貧しいから、病気だから、孤独だから、神の国に入るのではありません。
貧しくても、病気でも、思うように行かない自分の人生に腹を立て、やけになり、幸せそうな人を自分と同じように不幸にしようとする人がいます。しかしそれは自分のために罪を増し加え、永遠のさばきを重くしているだけです。
そうではなくて、誰のせいでもなく自分の罪が、今の人生を作り上げたことを認めること、自分の罪が恐ろしいものであることを知る、そして罪の誘惑に従うのではなく、神に導いていただく人生を生きたいと願うこと、これが救われる信仰です。
不幸、困難な時に、神がわかるようになる人が多い。
このようなときは、自分を吟味して神に立ち返るチャンスかもしれない。
ですから、人生が順調にいっている人よりも、うまくいかない人のほうが、自分の罪に気づきやすい状況にあると言えるかもしれません。
今、困難を抱えている人、人生が思うように行かない人は、立ち止まって自分を吟味してみようではありませんか。
そのとき、自分の人生を困難にしている、本当の原因が見つかるかもしれません。
そして、それが自分の内に生まれつき宿っている罪だとわかったら、
自分に頼る生き方を止めて、神に頼る生き方を始めようではありませんか。
このまま進めば、あなたは破滅するのですから。
しかし、このような心境に至ることができた人は、幸いです。
なぜなら、生きている間、多少不自由であっても、天国で永遠に安らぐことができるからです。
天国の希望がラザロを支えたように、あなたもこの希望によってささえられるからです。
人生の重荷を負いながらも、人を恨み、世の中の不条理を恨み、自分の不幸を嘆いて生きるのではなく、神に感謝して、確かな希望を持って生きることができるようになるからです。