イエスはエリコからエルサレムに向かわれた
これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。ルカ19:28
- イエスはザアカイがいたエリコを出て、エルサレムに向かわれた。
ろばの子を連れてこさせて、それに乗られた
オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて 来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」
使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。
彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。弟子たちは、「主がお入用なのです。」と言った。そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。ルカ19:29-35
- イエスはべタニアに来られた。オリーブ山のすそ野にある町。エルサレムはすぐそこ。
ここにマリヤ、アルタ、ラザロが住んでいた。
ヨハネ11:38 ラザロを生き返らせる
ヨハネ14:3 葬りのための香油を塗られる話がある - 誰も乗ったことのないろばの子を連れてくるように弟子に命令した。
- イエスは、行っていないのに、ロバの子がいる場所を知っておられた。
イエスの超自然的能力が現われている。 - 誰も乗ったことのないロバは、王が乗るのにふさわしい。
- ろばの持ち主が何と言うか、どのように言えば貸してもらえるか全て言い当てた。
このようなことは、人間にはできない。神しかできない。 - 「主がお入り用なのです」
イエスはもはやご自身が神であることを隠しておられない。
持ち主は、イエスが町を通られることをうわさで聞いていたはず。弟子たちが「主」と言った時、それがイエスだとわかった。それで、ろばをすぐに貸してくれた。
マルコ11:3には、「またすぐにここに送り返されます」と弟子が言ったとある。
- イエスは、行っていないのに、ロバの子がいる場所を知っておられた。
- イエスは、ろばの子に乗られた。これは聖書の預言が成就するためだった。
預言:ゼカリヤ9:9
シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
- ろばの子に乗って入城されることは、イエス柔和で謙遜な王であることを現わしている。
イエスが、ローマを倒してイスラエルの国を再建する王ではなく、人々の魂に救いと平和をもたらす王であることを象徴している。しかし、人々はこのことを理解しなかった。
人々は、イエスのエルサレム入りを大歓迎した
イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。
イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言った。イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」ルカ19:36-40
- エルサレムの人々はイエスを大歓迎した。
- 道に自分たちの上着をしいた。人々はイエスをイスラエルの王として迎えた。
シュロの枝を切ってきて、道に敷いた。
これは、王を迎えるときの作法であった。2列王9:13 - 人々は神を賛美し、イエスをメシヤとして迎えた。
人々はイエスに「ホサナ 主の御名によって来られた方」と叫んだ。
「ホサナ」とは、へブル語で「どうか救ってください」という意味。
神から遣わされたイエスよ、どうか私たちを救ってくださいと人々は叫んだ。
ヨハネ12:3「ホサナ・・イスラエルの王に」、マルコ11:10「ダビデの国にホサナ」
マタイ21:8「ダビデの子にホサナ」これらはイエスを「メシヤ」と認めたことば。 - ラザロも同行していた。ラザロの復活を見た人々もいて証言した。
人々は、復活したラザロを見るためにも集まって来た。ヨハネ12:9-10 - 預言の言葉が成就した。
主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。詩編118:26,27
メシヤを祝う行列が、枝をもって宮のところまで続くことが預言されていた。
人々はこの通りにイエスにした。 - このとき弟子たちには、これらの出来事の意味が全く理解できなかった。
しかし後になって、人々が預言の通りイエスにしたことを思い出した。ヨハネ12:16
- 道に自分たちの上着をしいた。人々はイエスをイスラエルの王として迎えた。
- パリサイ人たちはイエスに嫉妬し、イエスを殺そうと計画する。
参考)イスラエルの祭り 「枝の主日」Palm Sunday イエスの入城を記念する祭り
過ぎ越しの祭りの日は、ユダヤ歴:ニサンの月の15日 3~4月ごろ
過ぎ越しの1つ前の週の日曜日に、シュロの枝を家の壁や祭壇に飾る。
枝は後で焼いて灰にする。(灰の水曜日)
参考)イエスを信じるユダヤ人たちは、過ぎ越しの祭りに加えて次の祭儀をする。
- 過ぎ越しの前の週の木曜日の夕方から夜:主の晩餐の夕べのミサ
最後の晩餐を記念して。 - 過ぎ越しの前の週が終わる金曜日の夕方から:主の受難の祭儀
イエスが捕まって裁判にかけられたことを覚えて。 - 土曜日は安息日なので休む
- 過ぎ越しの週の1日目の日曜日:復活の聖なる徹夜祭
主の復活を記念して。
エルサレムを見て、イエスは泣かれた
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえ が、神の訪れの時を知らなかったからだ。」ルカ19:41-44
- エルサレムが敵に包囲されて滅亡することをイエスは知っておられた。
その破壊は悲惨で、この町は廃墟となることをイエスは知っていた。 - この預言は、ローマとの闘いで実現した。(AD70年、ローマ帝国により破壊される)
- エルサレムが、イエスを受け入れないことを預言した。
事実、彼らは、この数日後、イエスを十字架にかけて殺すことになる。
エルサレムに入られたイエスは、宮で商売する者を追い出した
宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め、こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。ルカ19;45-48
- 宮の商売人たちを追い出した。
これらの商売は、「異邦人の庭」で行われていた。- イエスは主の宮を「わたしの家」と言った。ご自分を神と告白した。
主の宮は、祈りの場所である。金儲けをすることは宮を汚すことである。 - イエスが宮に入られて、まず宮での不正行為を止めさせたことは神として当然の行為。
両替をする者=イスラエルの貨幣に両替する人
宮での献金はシェケルと決められていた。そのため両替をする必要があった。両替商たちは、1/10~1/6もの手数料を取って金儲けをしていた。
鳩を売る者=動物の捧げものを売る人たち
動物のささげものは傷のないものでなければならなかった。そのため動物を持ってきても、祭司に検査してもらわなければならなかった。そこで、検査積みの動物が宮で売られていた。多くの人は、これらの動物を飼って宮にささげていた。大祭司の家族がこの商売をする権利を独占していた。
- イエスは主の宮を「わたしの家」と言った。ご自分を神と告白した。
- イエスは毎日、宮で教えられた。民衆は熱心にイエスの話を聞いた。
- 祭司長、律法学者、民の偉い人たちはイエスを殺そうとねらっていた。
- 宮の商売人たちを追い出したことは、祭司長たちへの挑戦と思われた。
自分たちが許可していることを、イエスが否定したから。 - 祭司たちは、宮の商売によって金儲けしていたから。
宮で動物を売る権利は大祭司アンナスの家族が所有していた。 - イエスの教えによって、人々が真の礼拝について目覚めるなら、彼らが自分たちを非難するようになることは明らかだったから。
- 宮の商売人たちを追い出したことは、祭司長たちへの挑戦と思われた。
考察1 イエスの名は預言たちが語った「イスラエルが礼拝すべき新しい神の名。永遠に絶えることのない御名」この御名を呼び求めなければ救われない。
イエスは、ロバの子を借りるとき持ち主に対して「主がお入り用なのです」と弟子たちに言わせました。イエスはご自身を主=神であるとはっきりと言っておられます。
イエスは人々の罪の刑罰から救い出すことができる「救い主」なる神です。
ですから、イエス・キリスト=救い主イエスと呼ばれます。
彼らは神を「ヤハウェイ」と呼んで拝んできました。
しかし、「イエス・キリスト」こそが、預言者たちが前もって語っていた、イスラエルが礼拝するべき「新しい神の名」であったのです。この名は永遠に続き絶えることがない名前なのです。
残念ながら、当時のユダヤ人たちはこの真理を理解できませんでした。
そして、イエスを殺してしまいました。今も、彼らの多くはイエスを神として認めていません。
私たち日本人はなおさらです。日本にはたくさんの神の名があり、たくさんの信仰があります。
しかし、異邦人である私たちにとっても、本当に拝むべき御名、永遠に絶えることのない神の名は「イエス・キリスト」です。このことを悟るまでは、私たちの魂に本当の救いはありません。
そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。イザヤ62:2
救い主が来るとき、人々に新しい神の名が与えられるという預言
わたしの安息日を守り、私の喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。イザヤ56:4,5
真実に神に従う者たちには、永遠に続く神の名を与えるという約束。
あなたがたは自分の名を、わたしの選んだ者たちののろいとして残す。それで神である主は、あなたがたを殺される。ご自分のしもべたちを、ほかの名で呼ばれ るようにされる。イザヤ65:15
イエスラエルの形式だけの信仰を嫌う神。彼らは神の名(ヤハウェイ)で呼ばれるが、神は彼らを滅ぼす。しかし、真のしもべたちには、他の名(イエスの名)で呼ばれるようにされると言う意味。
考察2 イエスはロバの子に乗って入城されたので弱い神、と思うのは間違い。
イエスは本当の姿を隠される神。この方忍耐の下に生かされていることを知って、かえって主を恐れるべき。
ある人々は、強くて自分の現状を変えてくれる神なら、拝む価値があると考えます。
キリストは弱い。ロバの子に乗って来た。しかも、殺された。だから信じてもご利益がないと言います。
確かに、キリストは謙遜な姿で入城され、十字架で死なれました。
しかしこれは、ご自身に対して人々が誤解することを避けるためでした。
イエスは、この世に強固な国を確立するために来たのではなく、天国にご自身の王国を建てるために来られたからです。ですから、イエスの姿や十字架の死だけを見て、弱い神とか、拝んでも無駄とか言うのは間違っています。
この方は、あえてご自身の強い姿を隠される神です。
イエスは力ある神で、この天地や私たちを造られた方です。
私たちの不信仰を忍耐をもって見守っておられますが、その忍耐にも終わり来ると聖書は語っています。1人でも多くの人が、ご自身を隠される神、自分たちの造り主なる神に出会うことができるようにと祈ります。
考察3 イエスは、まず第一に宮を聖められた。
私たちも、教会を建て上げるとき、聖書に反する信仰や慣習を聖めることから始めなければならない。
イエスは宮に入られたとき、宮が霊的に汚されていることに気づかれました。
宮を利用して金もうけする者たちがいたからです。両替人たちは高額な手数料を取っていました。動物のいけにえを売る権利は大祭司の家族が独占していました。
また、人々は宮を軽く扱っていました。近道をするために神殿の庭を通って器具を運ぶ者たちがいました。このような神に対する不敬虔な行為がゆるされていました。
祭司たちは、これらの不正を野放しにしていました。彼らにとっても利益があったからでしょう。
イエスは神ですから、ご自身の宮が汚されることを怒られました。
「私の家は祈りの家」であるとイエスは言われました。
本来、神の宮は祈りをささげるところ、神を礼拝するところだからです。
ですから、イエスがまず第一に、宮で商売する者たちを追い出し、宮での不敬虔なふるまいを止めさせたことは、宮の主として非常に納得がいくことです。
今日、私たちにとって、神の宮とは教会のことです。
果たして、今日、イエスが私たちの教会に来られたなら、教会をどうご覧になるでしょうか。
教会が金もうけの場所になってはいないでしょうか。教会で、聖書が禁止していることが行われていないでしょうか。神が忌み嫌う信仰が広められていないでしょうか。
立派な建物があったり、たくさんの人が集まっていても、霊的に汚れた教えが信じられ、行われているなら神に喜ばれることはありません。
「霊と誠をもって礼拝する教会」を、神は喜ばれるからです。
イエスが宮聖めをされたことから、このことは明らかです。
私たちの宮が、霊的に聖められ、主の再臨のとき、主に喜ばれる礼拝が行われているのを、見ていただくことができるようにと心から願います。