弟子たちは神殿のすばらしさに驚いた
しかしイエスは神殿が崩壊する時が来ると預言した
宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」ルカ21:5,6
- 弟子たちは神殿の造りの豪華さに感心した。イスラエルの信仰は素晴らしいと思った。
- このような神殿は永遠に存続するものと思われた。
- しかし、イエスは神殿がこなごなに破壊される日が来ると預言した。
- 弟子たちには、信じられないような預言だった。
弟子たちはイエスに「いつ」「どのような前兆で」
この世の終わりが起こるのかを聞いた
彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょ う。」ルカ21:7
- 弟子たちは神殿の破壊についてではなく、神殿が破壊されるとき、つまりこの世の終わりがどのようにしてくるのかを質問した。
- これらのことはいつ起こるの・・これらのことが起こるときには・・(ルカ21:7)
- いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」マルコ13:4
弟子たちは「これら」「それらがみな」と複数の出来事について聞いている。
つまり、神殿の破壊という1つの出来事について質問したのではなく、神殿が破壊される時、つまり世の終わりの日について質問していた。 - いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」マタイ24:3
このことばによると、彼らが世の終わりについて質問していたことは明らかだ。
イエスは「世の終わりの前兆」について話された
- 偽預言者が起こる
「自分が再臨のイエスだ」とか「再臨の日を預言して」人々を惑わす。
わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そ んな人々のあとについて行ってはなりません。ルカ21:8 - 戦争が起きる、「大戦争が始まるのではないか」とうわさされる。
国家戦争、民族戦争が起きる。
大きな戦争が始まるのではないかとのうわさされるようになる。
戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり・・ルカ21:9,10 - 大地震、疫病、ききん、自然災害が起きる。
大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。ルカ21:11
世界規模の疫病や、天候の異常によるききんが方々で起きる。
気候の異常による自然の変化、動物の絶滅など、大災害の前兆が現われる。 - 迫害が起こる。クリスチャンは捕らえられ裁判にかけられる。
しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう.。ルカ21:12- クリスチャンは捕まえられ牢屋に入れられる。
- 裁判にかけられ、刑罰が決められる。死刑になる。
- 裁判で信者が弁明することを通して、福音が全世界で知られるようになる。
- 信者が裁判で弁明することで、全世界の人々が福音を聞くことになる。
それはあなたがたのあかしをする機会となります。ルカ12:13 - 弁明の言葉を、聖霊が教えてくれる。だから信者は心配しなくていい。
それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。ルカ21:14,15
- 信者が裁判で弁明することで、全世界の人々が福音を聞くことになる。
- 教会の中に背教・堕落が起きる。
- しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。ルカ21:16,17
キリストを信じることを止めれば、命は助かる。しかし、真の信者は決して迫害に屈しない。たとえ命が失われることがあっても、彼らは信仰を捨てない。 - また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
マタイ24:10
多くのクリスチャンが信仰につまづくことが預言されている。
それだけではなく、背教した信者が裏切って、信仰にとどまる人を捕まえる助けをする。 - また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。マルコ13:12
信者の間で、親族の間でも裏切りがある。
- しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。ルカ21:16,17
- エルサレムがイスラエルの所有になる。(艱難期に入る直前のしるし)
人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。ルカ21:24- ユダヤ人の時は、艱難時代にユダヤ人が多く救われるとき、それまでは、異邦人に救いのチャンスが多く与えられている。だから、この聖句で「異邦人の時が終わるまで」は、艱難時代が始まる時という意味に解釈できる。
そのときにエルサレムがイスラエルの所有になっているという預言。 - 艱難期が始まるしるしとして「エルサレムがユダヤ人の所有になる」ということが起きる。これは注目すべきしるし。
- 現在エルサレムは、どの国にも属さない。どの国のものでもない。
将来、エルサレムがイスラエルのものになる日が来る。
このしるしを見たら、私たちは艱難期が始まる覚悟をするべきと思う。
- ユダヤ人の時は、艱難時代にユダヤ人が多く救われるとき、それまでは、異邦人に救いのチャンスが多く与えられている。だから、この聖句で「異邦人の時が終わるまで」は、艱難時代が始まる時という意味に解釈できる。
- 地球規模の天変地異が起きる。
- そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。ルカ21:25,26
- これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。マタイ24:29
地球環境の大変動が起きる。太陽、月、星が光を失って地上は真っ暗になる。海は荒れ、津波や大災害が起きる。
- イエスの再臨。
- そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。ルカ21:27
- そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。マタイ24:30
人々がパニックに陥っているところに、イエスが雲に乗って地上に降りてこられる。
キリストを信じなかった者は、イエスが神であったことを知って悲しむ。
彼らは自分たちに与えられるさばきを知って恐れながらイエスを見る。
未信者とは反対に、信者は大いに喜んでイエスを迎える。
自分の罪が除かれて栄化され、天国で永遠に生きる日が来たことを喜ぶ。
艱難時代は、皆が安心している時、突然はじまる
- 艱難期は突然に始まる。
キリストを信じない人々が、平和だ安全だと「イエスの再臨なんかない」と思って安心しているとき。自分たちの暮らしを楽しんでいるとき、突然にして艱難時代が始まる。- 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。1テサ5:2,3
- 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
マタイ24:37-39
ノアたちが箱舟を作っているとき、人々は彼らをあざ笑った。そして彼らは飲んで食べて楽しんでいた。神がノアたちを箱舟に入れた後、大洪水が起き、彼らは全滅した。しかしノアたち家族は箱舟に入っていたので守られた。
イエスは、人々が平和だ安全だと神を畏れず、自分たちの欲望のままに生きているとき、突然やってくる(再臨)。そして再臨後、主のさばきをのがれることができる者はいないと言われている。
- 「軽挙」がある。マタイ24:37-44
- ある日、突然、信者が天に引き上げられる。イエスの証言
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。マタイ24:40-42
神の超自然的な力により、信者が突然天に引き上げられる。
このことはパウロも証言している。 -
引き上げられた信者は、空中で待つイエスと合流する。(会う)パウロの証言
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。1テサロニケ4:16-17
-
信者を迎えに来る。イエスの証言
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くので す。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。ヨハネ14:2-3
- ある日、突然、信者が天に引き上げられる。イエスの証言
- 艱難を逃れる信者がいるということを予感させる聖句
- しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押 し入られはしなかったでしょう。マタイ24:43
- あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつ けていなさい。・・しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさ い。」ルカ21:34-36
主の日が近いことを知り、偽預言に惑わされず、正しい信仰にとどまる者は艱難を逃れることができるというニュアンスのみことばがある。艱難を逃れる信者がいるのかもしれない。
おそらく軽挙は艱難時代に入る直前に起きる。(私の考え)
軽挙によって、一気に終末のシナリオが実現しいくのではないか。
軽挙は、平和な時代に突然に起きる。艱難の最中であるとは考えにくい。
イエスが語られた軽挙の様子から、人々がいつも通り暮らしているときに軽挙があることがわかる。もし、艱難の最中であればこのような状態での軽挙は考えにくい。マタイ24:40-44参照
ルカ21章36節のイエスのことばから、
忠実な信者は艱難時代を経験することなく守られるようである。
しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさ い。」ルカ21:36
油断せずに祈る者は艱難を逃れることができるという意味。
自分の暮らしも問題がなくても、世の中が平和であってもイエスに忠実な者を、神が大患難時代から守ってくさるという預言。
イエスのことば「人の子が来るのはノアの日のようだ」マタイ24:37
ノアが箱舟に入った後、大洪水が起きた。神は信者を災いから守られる。
洪水が起きるまで人々は普段通り暮らしていました。誰も洪水が来るとは思っていませんでした。ノアたちが箱舟に入った後(彼らの安全が確保されてから)大洪水が起きた。ノアたち家族は何の傷も受けませんでした。
出エジプトのとき、神の怒りはエジプト人に下り、イスラエル人を過ぎ越した。
エジプト人の初子は死に、イスラエル人の初子は守られた。
門に羊の血を塗ったイスラエルの人々の家だけは、神の怒りが過ぎ越しました。
イスラエルの民は守られてエジプトを出ることができました。
これらのことから神はご自分の民を分離して、迫害する者たちから救い出す方であることがわかる。神が、魂を守るだけではなく、肉体の安全も守ってくださった多くの事例が聖書に記録されている。
「艱難時代はひどい苦難の時で、全地に及び誰も逃れることはできない」と言われている。全人類に及ぶ苦難から信者を逃れさせるには「軽挙」という超自然的な方法しかない。
その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。ルカ21:35
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。マタイ24:21
艱難の最中では、クリスチャンの安全は守れません。おそらく苦難が始まる前に、クリスチャンたちがこの世から天に挙げられる「軽挙」という超自然的な出来事があり、クリスチャンが地上から取り去られた後、艱難時代が始まるのではないかと考えます。
再臨はいつか、イエスは私たちに知らせることに関心がなかった。
その日は、わからないように定められている。私たちはこの立場にとどまるべき。だからイエスの再臨を預言する「にせ預言」を信じるな。
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。マタイ24:36
エホバの証人は、再臨の日を預言した。しかしイエスはその日を私たちに知らせなかった。
再臨の日については、誰も知ることがゆるされていない神の奥義。
もし知っているというなら、その人は「にせ預言者」。そのような教えを信じてはならない。
「やがて起ころうとしていることからのがれるために目を覚ましていなさい」とイエスは言った。これはどういう意味か。何に注意しなければなないのか。
イエスは終わりの日の前兆について話した。
信仰にとどまる者は、艱難を逃れることができると言った。
しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさ い。」ルカ21:36
「油断せずにいる」ために私たちは何に気を付けるべきか。
- 救いに至る信仰を持つこと。
イエスやパウロ、使徒が教えた福音が何かを知り、それを堅く信じること。
つまり、聖書を良く調べて、聖書に示された信仰を持つ。
だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のよう に来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。黙3:3
奉仕に熱心だったら救われるのではない。「何を信じているか」によって救いは決定します。だから「何をどう信じるか」は非常に重要な問題です。
自分が信じていることが正しいのかどうか、聖書を調べることは大切です。 - 主の再臨が遅いからと、怠惰になってはいけない。
いつ主が来られてもいいように、自分の信仰を整えておく。
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。1テサロニケ5:2
イエスの昇天ご2000年以上たっても、イエスはまだ地上に再臨されていません。
再臨が遅れているために、「イエスは来ないのではないか」「聖書は間違っている」と思い始めます。信仰がなくても、罪を犯しても、自分たちには不幸も起きていないし楽しく暮らしているじゃないか。やはり、神も天国もさばきもないのだ。このような状態のときに、主の再臨を経験することがないようにとパウロは忠告しています。 - 神のことよりも、この世のこと(家族、仕事、遊び)が自分にとって一番大切ではないか。
信仰があるように振舞っているが、心は未信者と変わらないのではないか。
自分を吟味して、悔い改め、救われる信仰へと立ち返る。
あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつ けていなさい。ルカ21:34
教会の外では、みことばへの渇きもなく、信仰が無くても全く困らないのではないか。
日曜だけ、クリスチャンを装って、交わりを楽しんだり、奉仕を楽しむために教会に通っているのではないか。それらの奉仕や楽しみが奪われても教会に通い続けることができるか。
自分の信仰を吟味することは非常に重要です。
そして、神に本当の意味で立ちかえることが、私たちがすべきことです。