- 1 12弟子の1人、ユダが裏切る
- 2 過ぎ越しの食事を準備する
- 3 弟子たちと、過ぎ越しの食事をする(最後の晩餐)
- 4 ユダの裏切りを預言する ユダを祭司長たちのところへ行かせる
- 5 ペテロが裏切ることを預言した
- 5.1 考察1 聖餐式のたびに、私たちは神の命が自分のためにささげられたことを覚える。救われたことの幸いと、与えらえた神の憐みに深く感謝する。
- 5.2 考察2 イエスは聖餐式を、主の日まで行い続けるように命じた。 その理由は、信者の信仰を励ますため、未信者に主の契約を知らせるためである。
- 5.3 考察3 聖餐式は、未信者に「イエスの死」を見える形で現わす。「イエスの死」にあずかる者だけが受ける。これは、教会員になるための儀式ではない。 聖餐の意味を知らず、それを感謝する信仰がないのに聖餐式を受けてはならない。 受ける側も受けさせる側も、神に対して罪を犯すことになる。
- 5.4 考察4 神が主権的に働かれて、十字架の出来事を起こしておられる。 「イエスの死」は、人間の計画や、偶然の積み重ねで起きたのではない。
- 5.5 考察5 サタンは、信者を滅ぼすために働く。イエスを殺し、ペテロをつまづかせた。しかし、その結果、救いの道が完成し、ペテロはつまづく前よりも神に近い者にされた。このように、信者のためには、サタンの策略を上回る神のご計画がある。だからサタンを恐れる必要はない。
12弟子の1人、ユダが裏切る
さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。
さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。
ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。 彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。
ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。
- 過ぎ越しの祭りが近づいていたが、祭司長たちは何もできなかった。
祭司長たちはイエスを殺したかったが、群衆が反対して自分たちを襲うことを恐れた。 - 12弟子の1人であったユダにサタンが入った。
- ユダは祭司長のところに行き、彼らと取引した。
祭司長たちは、イエスを差し出す報酬として銀貨30枚をやる約束をした。 - ザカリヤ書の預言が成就した。
私は彼らに言った。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。」すると彼らは、私の賃金として、銀三十 シェケルを量った。ゼカリヤ11:12
<ユダが裏切ったのはなぜか?>
- 彼は以前から金に貪欲だった。金欲しさにイエスを裏切った。
なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつ も盗んでいたからである。ヨハネ12:5,6
ユダは、イエスの金を預かっていた。しかし、その金を盗んで自分のものにしていた。
女が高価な香油をイエスの足に注いだ時に、彼は女を愚かなことをすると非難した。
もし、女が金でささげていれば、大金が自分のものになっていたからだ。 - ユダは金に貪欲な男。たった銀貨30枚で請け負ったのはなぜか?疑問が残る。
祭司長たちは、イエスを殺す機会を捜していた。
彼らはイエスを殺すためなら、いくらでも金を出したに違いない。
銀貨30枚は、約100万円に相当する。
金に貪欲なユダとしては、銀貨30枚は、安すぎる取引ではないか。 - やはり、サタンが彼の心を「裏切る」ように固くしたからだと思われる。
皮肉にもユダの裏切りの結果、救いの道が完成した。サタンは神に用いられる器にすぎない。
サタンは、神の預言(聖書)を成就させるために、ユダの心に働きかけ、イエスを裏切らせた。
サタンは、人の心を悪へと傾けたが、そのことを通して神の計画が成就している。
神はサタンの上に権威を持つ方。サタンも神に用いられているに過ぎないことがわかる。
過ぎ越しの食事を準備する
さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。
イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。
すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」
彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。ルカ22:7-13
- 過ぎ越しの祭りが始まる前日に、弟子たちに準備をさせた。
夕方からの食事の準備を、その日の昼にさせた。
イエスは過ぎ越しの祭りの直前に、弟子に祝宴の用意をさせた。
いつも暗殺者たちに狙われていたので、自分たちの居場所を知らせないためだったのだろう。
当時、ユダヤでは夕方から次の日になる。このとき、ニサンの月の14日朝か昼に弟子に命じて場所を確保させ、その日の夕方(15日、過ぎ越し際が始まる日)から食事を始めたと思われる。 - 食事ができる客間を詳細に弟子に指示した。
当時、水がめは女が運んだ。男が運んでいれば目立ったはず。その男が所有する宿の2階の広間が開いていることをイエスは言い当てた。多くの人の予約が入っているために、過ぎ越しの前日に広間を捜すことは難しかったのではないかと思われる。しかしイエスは神。全てをご存じだから、このようなことができた。 - イエスは十字架にかかる時が来たことを知っておられた。
神の計画に従って、過ぎ越しの食事をする場所を弟子に指定した。
イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」マタイ26:18「わたしの時が近づいた」=十字架にかかって救いのわざを完成する時が近づいた。
「あなたのところで過ぎ越しを守ろう」
「守ろう」はギリシャ語で「ポイオー」預言的現在形。そうならなければならないことを預言することば。つまり、あなたのところで過ぎ越しの食事を守らなければならない。
これは神が定めたことであるから、実現しなければならないと言う意味。
弟子たちと、過ぎ越しの食事をする(最後の晩餐)
さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。ルカ22:14-15
自分の死、復活と再臨を預言する。
あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」ルカ22:16-18
- 「もはや2度と食事をすることはない」
これが最後の食事。自分の死を預言した。 - 「過ぎ越しが神の国において成就する」
イエスの死によって、罪を過ぎ越すいけにえが、永遠にささげられるようになる。
そのとき、動物のいけにえを捧げる必要はなくなる。
イエスを信じる信仰によって、罪が赦される時が来る。 - 「今から、神の国が来る時までは、ぶどうの実で造った物を飲むことはない」
死後に弟子たちと再会して、再び一緒に食事をする日が来ることを預言した。
イエスは復活して神の国の王になる。そして再臨する。
そのとき弟子たちは神の国で、イエスと再び食事をするようになる。
新しい契約が結ばれる 「パン」と「ぶどう酒」の儀式(聖餐式のはじまり)
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚え てこれを行ないなさい。」
食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。ルカ22:19-20
- イエスは弟子たちに「パンを裂いて配った」
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです」
「パンを食べる」=イエスの身代わりの死によって、自分の罪がゆるされていることを感謝する。
「パン」はイエスの体を象徴している。イエスが十字架にかかり体を裂かれたことを現わす。
驚くべきことに、イエスは、私たちの罪の「いけにえ」となるために、ご自身の体をささげると言っておられる。
「イエスが裂かれたパンを食べる」とは、イエスが身代わりに死なれたこと、そのおかげで罪がゆるされ天国に入ることができるようになったことを意味している。 - ぶどう酒も同じようにした。
「あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」
「ぶどう酒を飲む」=イエスが流した血によって、新しい契約に入れられたことを感謝する。
旧約時代、罪のゆるしのために、動物の血が注がれた。人々は罪を犯すたびにいけにえをささげなければならなかった。動物の血は、個別の罪しか処理できない。しかしイエスは神。神の血は1度流されれば、信じる人の過去、現在、未来の罪を永遠にゆるす効力がある。
新しい契約によって、イエスがなされた「罪のあがない」に、信仰によって結びつけられることにより、永遠に罪がゆるされる道が開かれた。 - モーセによって始まった古い契約は無効になった。
イエスの十字架以降は、新しい契約によって罪がゆるされる。
古い契約=律法を守ること、動物のいけにえを捧げることで罪がゆるされる。
新しい契約=イエスのあがないを信じることによって、罪がゆるされる。
ユダの裏切りを預言する
ユダを祭司長たちのところへ行かせる
しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。ルカ22:21-23
- ユダの裏切りは、神によってあらかじめ定められていたこと。
イエスは、ユダが裏切ることを知っておられた。彼が、金を横取りしていたことも知っておられたと思う。もっと言うなら、ユダを12弟子に召した時、このような結末になることを承知しておられた。その上で、十字架の死を実現させるために、あえてユダをご自分に近い弟子として同行させていたのだと言える。 - 私が死ぬことは、聖書に預言されている。
私の死によって新しい契約が成就する。
それは、あなたがたにとって非常に益であるから。絶望するな、あわてるな。 - ユダに「今行きなさいと」自分を捕らえる機会を与えた。
十字架の死を、神が主権的に起こしておられる。神はご自分のあがないが完成する時を、人間の思いや、偶然にまかせていない。
神が出来事に主権を持っておられ、神が定めた時と場所であがないが完成する。 - サタンに惑わされたとはいえ、ユダの責任は残る。
メシヤを殺す手助けをした彼の罪は重い。
ペテロが裏切ることを預言した
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ルカ22:31-34
- サタンは、ペテロの信仰をダウンさせる許可をもらった。神が許可した。
- イエスは、前もってペテロのためにとりなしの祈りをした。
だから、ペテロは一時的に信仰がダウンしても、必ず回復する。 - だから、信仰が回復したら兄弟たちを元気づけてあげなさい。
- ペテロは自分だけはイエスをうらぎらないという自信があったが、
イエスが捕らえられたとき、イエスを3度も知らないと言ってしまった。
ペテロは、自分は殺されても、イエスへの信仰を告白できると思っていた。しかし、イエスが捕らえられたとき、彼は逃げた。また、イエスの弟子だと気付かれたとき、弟子であることを3度も否定した。「早朝、にわとりが3度なくまでに、あなたは3度わたしを知らないと言います」というイエスの預言が成就、彼は泣いた。
考察1 聖餐式のたびに、私たちは神の命が自分のためにささげられたことを覚える。救われたことの幸いと、与えらえた神の憐みに深く感謝する。
私を救うために、神が十字架で究極の苦しみを味わわれ死なれました。
私の罪のゆるしのために、神が身代わりの「いけにえ」となられました。
このことを思いうとき、救いは身に余る、驚くべき恵みであると告白せずにはおれません。
聖餐式にあずかるたび、私たちは十字架にかかられたイエスを思い、そのみわざに預かっていることを心から感謝します。聖餐式は、私たちにとって、キリストと結び合わされていることを体感できる「しるし」です。この儀式を与えてくださった神に感謝します。
ですから、救われた人は、たとえ貧しくても、病気を抱えていも、幸いな人です。
なぜなら、その人の救いのために神の命が支払われているからです。
考察2 イエスは聖餐式を、主の日まで行い続けるように命じた。
その理由は、信者の信仰を励ますため、未信者に主の契約を知らせるためである。
聖餐は、信者の信仰を励ます。迫害や誘惑の中で信仰に立ち続ける力を与える。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚え てこれを行ないなさい。」ルカ
自分の罪のゆるしのために、イエスが体を裂き、血を流されたことを、実感できるのが聖餐式です。これを定期的に行うことで信者の信仰は励まされます。この世でクリスチャンとして生きることは、逆風の中を歩むようなものです。未信者は、「信仰を止めればこれが楽しめる」「あれが手に入る」と誘惑します。サタンのささやきに惑わされないために、私たちは、主の恵みのすばらしさを覚え、感謝する機会を持つ必要があります。聖餐式が、その機会を与えてくれます。
イエスは、世に残された信者が、イエスの昇天後も、イエスの恵みを覚えることがきるために、聖餐の式を備えてくださったのです。
聖餐式を行うことは、新しい契約を未信者に知らせることになる。(伝道的側面)
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。1コリント11:26
聖餐式は、イエスの血による「新しい契約」が始まったことのしるしです。
「新しい契約」とは、イエスによる「救いの御わざ」を信じることによって、天国に入ることができるという契約です。これは、私たちにとって良い知らせなのです。
この契約は、イエスの死後2000年以上たった今も、人々に開かれていて、契約を結びたいと思う人を、神は受け入れてくだされいます。このことを知らせるために、聖餐の式を行い続けなさいとイエスは弟子たちに命じました。
ですから、聖餐式は「未信者への伝道」という側面もあるのです。
しかし、この契約の門が閉ざされる時が来ます。私たちがこの世の生を終えるとき、またはイエスが再臨する時です。ですから、信者が聖餐にあずかることを通して、1人でも多くの人がイエスによる罪のゆるし」を知り、イエスを信じるようになることを願います。
考察3 聖餐式は、未信者に「イエスの死」を見える形で現わす。「イエスの死」にあずかる者だけが受ける。これは、教会員になるための儀式ではない。
聖餐の意味を知らず、それを感謝する信仰がないのに聖餐式を受けてはならない。
受ける側も受けさせる側も、神に対して罪を犯すことになる。
したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。1コリント11:27,28
聖餐は、教会員として認められるために受けるのではない。
聖餐式は、教会のメンバーになるために受けるものはありません。
教会の活動に参加したり、交わりを楽しんだりする資格を得るために受けるでもありません。
誤った動機で聖餐を受けることは、神に罪を犯すことだと、上記の聖句は警告しています。
教会に来る人々が聖餐を受けたいと言えば、彼らの信仰を確かめることなく、聖餐を受けさせる教会があります。救いの基準を下げて、容易に聖餐を受けさせる教会は、世間から好感を持たれるかもしれません。
聖餐にあずかる信仰のない者に受けさせてはならない。
偽りの安心を与えることになり、本当に悔い改める機会を奪うことになる。
しかしこのことが、宣教を大いに妨げることを知らなければなりません。
なぜなら、いい加減な信仰でも、自分勝手な信じ方でも、偶像を拝んでいても、たまに教会に来て、聖餐を受けているから、自分は救われていると、その人を安心させることになるからです。
教会は、救われていない人々に偽りの安心を与えて、彼らから本当の悔い改めをする機会を奪ってはいけません。神は、このようなことを喜ばれないからです。
考察4 神が主権的に働かれて、十字架の出来事を起こしておられる。
「イエスの死」は、人間の計画や、偶然の積み重ねで起きたのではない。
そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」マタイ13:27
イエスは、神の計画の通り、過ぎ越しの祭りの第1日目に死なれた。
イエスが死ぬ時は、過ぎ越しの祭りの1日目であることは、あらかじめ神によって定められていました。イエスは神の計画を実現するために、祭りの前にエルサレムに入られ、過ぎ越しの日が始まる夕方から弟子たちと一緒に食事をされました。
そして、その食事の席で、ユダに命じて「今すぐ祭司長たちのところに行って私を捕まえさせなさい」と言われました。マタイ12:37
イエスはその夜、捕らえられ、裁判にかけられ、死刑を言い渡され、十字架にかかり、過ぎ越しの第1日目が終わるまでに(午後3時ごろ)死なれました。
イエスは、自主的に、神が定めた時、十字架にかかられた。
これらの出来事を見るとき、イエスはご自分の死を、人間たちによって決めさせていないことがわかります。イエスは殺されたのではありません。自分から神が定めた時に、十字架にかかられたのです。その目的は、信じる者の罪を赦す「いけにえ」となられるためです。
このようなことは、神にしかできない。イエスは神。神が罪のいけにえとなられた。
だから、イエスがささげたいけにえにあずかるなら、罪が完全にゆるされる。
考察5 サタンは、信者を滅ぼすために働く。イエスを殺し、ペテロをつまづかせた。しかし、その結果、救いの道が完成し、ペテロはつまづく前よりも神に近い者にされた。このように、信者のためには、サタンの策略を上回る神のご計画がある。だからサタンを恐れる必要はない。
信者は、サタンを恐れる必要はない。
もし、私たちが救われているなら、サタンや苦境を恐れる必要はありません。
信者は、神の保護の下にあるため、たとえサタンが信者を痛めつけても、その苦しみを用いて、神は、信者のために、幸いな計画を成就させるからです。
サタンの策略は、信者の益のために神に用いられてきた。
たとえば、サタンはアダムとエバを誘惑して神に逆らわせましたが、サタンは人の子孫(キリスト)によって頭を砕かれると定められました。
メシヤであるイエスを十字架にかけて殺しましたが、その結果イエスによる救いが成就しました。
今もサタンは、信者の信仰を滅ぼそうとやっきになっています。
しかし、私たちは恐れる必要がありません。
私たちは、聖書からサタンの策略を上回る神の摂理を知っているからです。
サタンは、神の許しの範囲でしか働けない。だから気落ちせず神の救いの時を待ち望もう。
また、サタンは神の許し無には何もできないことを、今日の聖句から知ることができます。
イエスはシモンに「 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」ルカ23:31と言われました。
シモンをつまづかせることを、サタンが神に願い、神が許可を出されたので、サタンはシモンに働くことができたのでした。
ヨブを打った時も、サタンは神に許可を求めています。そして神は彼が打っていい領域をサタンに命じています。「命にふれてはならない」
このように、サタンは神の許しの範囲ないでしか、信者を傷めることができないのです。
そうであれば、なおさらのことサタンを恐れることは愚かです。
もし、あなたの信仰を滅ぼそうという働きがあるなら、忍耐をもって神の幸いな計画が成就する日を待ち望みましょう。決して絶望したり、神の力を疑ってはいけません。
神は、その時が来れば、奇跡をもって、あなたを救いだしてくださるからです。