- 1 洗礼後、イエスは40日間荒野にいた
- 2 悪魔はイエスを誘惑した 誘惑の意味を考える
- 2.1 1番目の誘惑 「自分の命を救うために奇跡を行いなさい」
- 2.2 2番目の誘惑 「この世の富を与えるから悪魔に従いなさい」
- 2.3 3番目の誘惑 「聖書のことばを自分に都合がいいように用いなさい。解釈を曲げて適応しなさい。」
- 2.4 参考:「しるし」ではなく聖書に書かれた証言によって信じることを教えたイエスのことば
- 2.5 考察1:信仰に入るとき、私たちもイエスと同じ試みを経験する。悪魔は私たちにささやく。救われるかどうかは、悪魔の誘惑を退けることができるかどうかにかかかっている。
- 2.6 考察2:悪魔はみことばを曲げ、あやまって実行させる。異端が良く使う方法。 イエスは「みことば」により対抗した。みことばを正しく知ることは大切
- 3 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた
- 4 悪魔の試みに勝利した後、イエスは宣教を開始した。 ご自身が「メシヤ」であることを明らかにした。
洗礼後、イエスは40日間荒野にいた
- 洗礼を受けて後、イエスはサタンの試みを受けられた。
これは宣教をする準備ができていることを確かめるための、神から課された試験であった。
さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。4:1,2
「聖霊に導かれて荒野におり・・」より、悪魔の試みに会うことは、神からの命令であったことがわかる。
荒野は食べ物も水も何ないさびしい所。頼ることができる人や物が何もない所。これは、そのような状況においても、悪魔がささやきを退けることができるかどうかを試す試験であった。これはイエスが宣教を始めるために、乗り越えなければならない課題であった。言い換えると、この試みを通ってはじめて、イエスは宣教を開始する準備が整うのである。イエスは私たちが受ける誘惑を同じように受られた。この聖書個所を通して、本当の信仰はどのようなものかを学ぶことができる。どのような告白ができてはじめて救われると言えるのか、どのように人を導くことが大切なのかを教えてくれる。また、自分は果たしてイエスと同じ告白ができるだろうかと、自分の信仰を吟味する機会を与えてくれる。
悪魔はイエスを誘惑した 誘惑の意味を考える
1番目の誘惑 「自分の命を救うために奇跡を行いなさい」
自分の命を救うために奇跡を行って、自分の命を救えと悪魔はささやいた。
イエスは荒野で40日間何も食べないように命じられていた。4:2
その期間が終わった後、イエスは非常に空腹であった。40日間の断食は命を失う危険があった。
そこで悪魔は「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」と言った。4:3
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」と答えた。
イエスは、父なる神の命令により荒野にいた。そこで40日間断食するように命じられた。
その期間は終わったが、イエスはまだ「荒野を出てよい」との指示を受けていなかった。
彼は非常に空腹であり、このままでは命を失う危険があった。
そこで、「悪魔は荒野の石をパンに変えて食べ、自分の命を救え」とイエスを誘惑した。
事実、イエスは神の子であるので、この奇跡をすることができた。
しかし、悪魔のささやきに従うなら、父なる神の命令に逆らうことになる。
なぜなら、どのようにして食べ物が与えられるかは、父なる神がイエスに命じることで、
イエスが決めることではないからだ。
<1番目の誘惑の意味1>
この誘惑は、命を失うかもしれない状況、主の命令を第一にできるかを試す試みであった。
イエスは見事に悪魔の誘惑を退けた。
イエスは、神の命令を退けて生きるよりも、たとえ死ぬとしても神の命令を守ると言い放った。神との関係が絶たれることが自分は一番堪えられない。それは本当の死を意味するからだ。
神との関係が正しいかどうかこそが人間の生死を決めるからだ。
つまり、神の敵となってこの世で生き長らえるよりも、主と共にあって試練を受ける方が良いと言った。体が食物で養われたとしても、魂(霊)が神のことばで養われなければ、生きることができていても、神の目からは死んだ者である。また、神のことばによって霊が生かされていないならば、心に平安はなく、本当の幸福はありえないからだ。
<1番目の誘惑の意味2>
この誘惑は、イエスに十字架での死を避けさせるという目的があった。
十字架刑の想像を絶する苦痛を、同じように奇跡によって避けさせ、十字架の死を経験しないように誘惑することも可能だからである。そうなれば、イエスによる「罪のあがない」が成立しなくなる。
全ての人は、サタンの思惑通りに地獄に行くことになり、悪魔が神に勝利することになるからである。
2番目の誘惑 「この世の富を与えるから悪魔に従いなさい」
悪魔は、この世の富、権力を与えるから神を退けて自分に仕えよとささやいた。
1番目の誘惑に失敗したサタンは、この世の栄華をイエスに見せ、自分を拝めば与えてあげようと誘惑した。
悪魔はまたたくまに世界の国々を全部イエスに見せて言った。
「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。
それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」4:6,7
イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」4:8
<2番目の誘惑の意味>
イエスが、この世の富や権力が与えられなくても、悪魔に仕えず、主に仕えるかを試した。
悪魔に仕えてになって神に敵対することはない。たとえ、主に従うことで、富や権力が与えられなくても、貧しく、人々から尊敬されなくても、いや軽蔑されても、自分は主に仕えるとイエスは悪魔に言い放った。
3番目の誘惑 「聖書のことばを自分に都合がいいように用いなさい。解釈を曲げて適応しなさい。」
「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。
『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」4:9-11
するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」4:12
3番目の誘惑の意味1>
神のことばを曲げて解釈し、神を自分に従わせたい誘惑。この誘惑に勝てるかどうかを試された。
これは、神を自分の召使いとして、自分の思い通りに働かせることである。
神に対して「傲慢の罪」を犯すことになる。
イエスはみことばを使ってこのような罪は犯さないと、悪魔の誘惑を退けた。
<3番目の誘惑の意味2>
神の奇跡を体験したい誘惑。 奇跡がなくても神を信じる信仰があるかを試された。
神の力を疑う思いがあるので、信じるために奇跡を必要としているのである。
弟子たちがイエスに、神を信じることができるように、奇跡を見たいと願ったとき、
聖書に、神について書かれてあることを信じなければ、たとえ死人が生き返って証言しても、人々は信じないと語った。イエスは奇跡によらず、みことばによって信じるように弟子たちに教えた。
参考:「しるし」ではなく聖書に書かれた証言によって信じることを教えたイエスのことば
<神がおられるしるしは、イエスの十字架と復活。これ以上のしるしは与えられない。>
そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」
しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。マタイ12:38,39
イエスが神である「しるし」は、十字架の死と復活である。それ以上の奇跡やしるしを神は人間に与えていない。だから、これ以上のしるしを求めてはならない。
<奇跡によるのではなく、聖書のことばによって神を信じることが信仰>
それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならない で、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。ヨハネ20:27-29
トマスはイエスの復活を信じられなかった。彼は、イエスの手やわきの傷を見て、さわらなければ信じないと言った。そのトマスに復活のイエスは現れた。イエスは彼に、「あなたは復活のしるしを見たから信じたのか」、しるしを見ずとも、聖書のことばによって確信する者のほうが幸いだと、しるしによらず信じることができることを教えた。
<イエスのわざが神の存在の証拠 信じるためにこれ以上のしるしは必要ない>
ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたとにいるのに、あなたはわたしを知らないのですか。私を見た者は、父を見たのです。・・・・わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。・・」ヨハネ14:8-11
イエスのことばを信じること。イエスのなさったわざ(奇跡)を信じることを教えた。私たちが、父なる神を知るためには、これらの証拠で十分なのである。
< 聖書を信じられなかったら、死人が生き返って語っても信じない>
彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」ルカ16:27-31
金持ちが死後、ハデスで苦しんでいた。彼は兄弟たちが、自分と同じように、苦しみの場所に来ることがないように願った。そこで、ラザロを生き返らせて彼らのところに送り、彼らに忠告させてほしいと神に頼んだ。
しかし神は、兄弟たちには聖書があり、預言者が与えられている。これらの証拠があっても神を信じることができないならば、彼らはたとえラザロが生き返って語っても信じないと言った。
考察1:信仰に入るとき、私たちもイエスと同じ試みを経験する。悪魔は私たちにささやく。救われるかどうかは、悪魔の誘惑を退けることができるかどうかにかかかっている。
私たちもキリストを信じる時、これらの悪魔のささやきを聞く。
悪魔は、信じないほうが、「楽に生きられるよ」「金持ちになれるよ」「出世できるよ」と誘惑する。
また、信じたら「貧しくなるよ」「皆から馬鹿にされるよ」「友達がいなくなるよ」とおどす。
イエスも経験された悪魔のささやきに、私たちも「ノー」と言うことができなければ、本当の信仰は得られない。「貧しくなっても、人から誤解されても、たとえ死であっても、私は主を否定することはできません」と言えなければならない。そうでなければ、イエスを信じることも、ましてや宣教をすることも無理なのである。私たちは果たして、このように宣言して信仰に入っているだろうか。
イエスが受けられた誘惑、つまり私たちが信仰に入る時に受ける誘惑を要約すると次のようになる。
- あなたにとって、この信仰は命よりも大切なものですか?(イエスが受けた1番目の誘惑)
もし、信仰のために迫害され命が危険にさらされた場合、あなたはこの信仰を捨てますか、捨てませんか? - あなたにとって、この信仰はこの世の富や権力、快適な暮らしよりも大切なものですか?
(イエスが受けた2番目の誘惑)
もし、信仰を続けるためにこれらのことを制限されるとか、捨てるとかしなければならなくなった場合、それでもあなたは信じ続けますか? - あなたは、イエスを見たことがないけれども、聖書の証言からイエスを神だと信じることができますか?(イエスが受けた3番目の誘惑)
あなたにとってイエスが神だと信じるために、聖書に書かれた証言で十分ですか、それとも別のしるしが必要ですか? - あなたは、聖書をそのままの意味で受け取り、実践したいと思いますか?(イエスが受けた3番目の誘惑)
あなたにとって受け入れ難い聖書個所を受け入れやすくするため、あるいは神に従うのではなく、神を自分に従わせ、自分を幸せにするために、みことばの解釈を曲げる誘惑に勝つことができますか?
これらすべての質問に「はい」と答えることができなければ、本当の信仰は始まりません。
洗礼を受ければ、教会員になれば、クリスチャンになるのではありません。
イエスは、ヨハネから洗礼を受けた後、信仰が試され、悪魔からの誘惑を受けました。イエスは悪魔の誘惑を退けてから、宣教を開始されました。私たちも信じるとき、上記のような悪魔からのささやきに信仰が折れそうになる経験をします。イエスも私たちと同じ様に試みられました。ですからわたしたちは、第一に悪魔の誘惑を退けてから、教会生活、伝道活動を開始していきましょう。
考察2:悪魔はみことばを曲げ、あやまって実行させる。異端が良く使う方法。
イエスは「みことば」により対抗した。みことばを正しく知ることは大切
悪魔は聖書のことばを引用して、神が助けるから飛び降りてみろと言った。しかし、悪魔はみことばの一部を削除して応用した。これが異端が用いる手口である。そして、間違って行わせ、神に従わなくさせて、その人を滅びに陥れるのである。たいていは、自分たちの組織のために利用できるように洗脳する。
これらの誤った教えから自分を守り、天国に入ることができるようになるためには、聖書を知らなければならない。聖書を知り、何が正しく、何が誤りかを知っていなければ、簡単にだまされてしまう。
イエスは、悪魔が聖書を間違って引用したことをズバリと指摘した。そして、みことばを用いてなぜ自分が悪魔の教えを退けるのかを反論した。私たちも同様である。間違った教えは、この世に山ほどある。私たちも、みことばを意図的に曲解して、誤って行わせようとする教えに対して、イエスと同様、みことばを引用して、その間違いをはっきりと指摘しなければならない。そして、その教えを退ぞけなければならない。。
誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた
サタンは、自分が用いることができるあらゆる手段を尽くしてイエスを自分の味方にしようとした。神の国の宣教を止めさせようとした。イエスが罪の身代わりとなって十字架にかからないようにしようとした。
しかし、キリストを自分の側に引き込むことができないと悟ったとき、サタンはイエスから離れた。4:13
悪魔の試みに勝利した後、イエスは宣教を開始した。
ご自身が「メシヤ」であることを明らかにした。
- ナザレでいつも通り、安息日に会堂に入り、聖書を朗読した。4:16
- イザヤ書61章1節を開き、ここに書かれたメシヤこそ自分であると宣言された。4:18-21
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免 を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」ルカ4:18-21
これはイザヤがメシヤについて書いた預言である。その預言が自分において今日実現したとイエスは言った。つまり、自分こそ皆が待ち望んでいた「メシヤ」であると公にされたのであった。 - しかし、ナザレの人々は、イエスのことばを受け入れなかつた。彼らはイエスがヨセフの子だと思っていたからだ。4:22
- イエスが、預言者は郷里では歓迎されず、エリヤもエリシャも異邦人に遣わされたと言うと、彼らはイエスを町の外に追い出し、がけのふちまで連れて行って、そこから投げ落とそうとした。4:28,29
イエスを殺そうとした。しかし、イエスは彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。(奇跡)4:30