「心砕かれ、神を知ることこそ幸い。山上の説教 幸いと不幸」ルカによる福音書6章20-26節

イエスは弟子たちを教えられた

  1. イエスは群衆をいやしてから、弟子たちに対して話された。(弟子を近くにおらせて)
    この話は、弟子たちに語られたことを覚えよう。
    群衆に話したのではない。未信者に対する勧めではないことを知っておこう。
    イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。ルカ5:20
    この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
    そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。マタイ5:1,2

イエスが言う「幸いな人」とは、どのような人か

自分の心の破産状態を知って、神により頼む者は幸いである。

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。ルカ6:20
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。マタイ5:3

  1. 「貧しい」ギリシャ語(ホ・プトーコス)は
    神の前に無一文であることを知る、神が全てであることを知るという意味
  2. 「心が貧しい人」とは、自分の心が、神無しには破たん状態であることを知った人のこと。
  3. マリヤも心低くされている者の幸いを賛美している。
    力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
    主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。ルカ1:49-53
  4. このような者の内に、このような者を通して、神の支配はさえぎられること無しに行われる。
    神は、このような者を喜ばれる。だから、幸いな者なのである。
  5. ものだからです」ギリシャ語(エステル)は永遠を意味する現在動詞。
    この動詞は、自制の影響を受けない。永遠を意味する現在動詞。
    つまり、天国の祝福は現在も存在し、これからも永遠に続くということ。
  6. マタイ伝では、このような人は柔和な人でもあり、神の国を相続すると言う。
    柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。マタイ5:5
    「柔和な者」ギリシャ語(ホ・プラス)は、自分の存在が全く神によることを知る人の意味。
    それゆえ柔和な人は優しく、謙遜である。しかしこれは「ただの弱さ」ではない。
    彼らは、自我を主張するのではなく、神の御心に従う。このような人が天国を相続する。

自分の罪を知り、悲しんでいる人は幸いである。

いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。ルカ6:21
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。マタイ5:4

  1. 「悲しむ」ギリシャ語(ペンセオー)
    強い悲しみを表す言葉、死者に対する人の悲しみ、罪に対する嘆きとして使われる。
  2. 「慰められるであろう」ギリシャ語(パラクレーセーソンタイ)未来形動詞
    現在の慰めと、将来神の国の到来のとき受ける慰めの両方を意味する。
  3. 自分の罪に悲しんでいる人は、イエスが語る福音によって慰めを受ける。
    将来、神の国が到来するとき大いなる慰めを受ける。

自分の霊的必要のために、神の義が自分を支配することを渇望する人は幸いである。

いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。ルカ6:21
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。マタイ5:6

  1. 「義」とは、神の義、神が信者に与える義。
  2. キリストを信じて義とされた者が、自分の内に神の義が全面的に支配することを強烈に求める願い。
    このような渇望を、神は満たされる。
    完全に満たされるのは天において「栄化」されたときである。
    しかし、生きている間も主は、神のわざを行ってくださり信者を聖めてくださる。(聖化)

イエスに従う信仰のために迫害されている人、苦しんでいる人は幸いである。

人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。 その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。ルカ6:22,23

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。マタイ5:10-12

  1. イエスは弟子たちに安全を約束しなかった。かえってこの信仰のために苦しむことを預言された。
  2. 信じた人はいつも命を奪われる危険があった。死んだ人も多くいた。
    イエスー十字架刑、バプテスマのヨハネー牢で首を切られる
    使徒たちー1人を除き全員殉教 
    パウロー殉教
    確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。2テモテ3:12
  3. しかし、彼らはキリストのために苦しむことを光栄として喜んだ。
    そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。使徒5:41
  4. 彼らは、この世ではなく、次の世に与えられる報いを待ち望んでいた。上記聖句から
    1. 主のために勇敢に戦った者の報いは大きいから。
    2. 昔の預言者たちと同じ経験ができ、彼らの仲間になれたから。
      迫害者たちは、昔の預言者たちにも同様にした。預言者たちと同じ迫害を受けたことで、自分たちが彼らの仲間になれたと喜んだ。

罪を悲しむ人たちに対して、あわれみの心を持つ人は幸いである。

あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。マタイ5:7

  1. 病や不幸は罪の結果と考えられた。人々は彼らをあわれむどころか裁きの目で見、忌み嫌った。
    当時は、苦しみの全ては、罪の結果だと考えられていた。そのため病気や貧困もその人や家族、先祖の罪が原因だと人々は思っていた。そのため、人々は、もちろん律法学者たちも、苦しみの中にある人へのあわれみを持たなかった。そのような人たちはさばきの目で見られ、忌み嫌われた。
  2. 「憐み深い者」になれるのは、自分が神から計り知れないあわれみを受けたからである。

考察1:私たちが考える「不幸な人」を、イエスは「幸いな人」だという。

私たちは、健康や成功、家族や友人、財産を多く持つことなどが幸せだと考える。しかし、実はこれらの宝は、人を神から遠ざける。彼らは神無しで満ち足りるからだ。そしてこれらの宝は、自分の努力で獲得したと誇るようになるからだ。神はこのような人は不幸だという。なぜなら、彼らは神を求めないからだ。

考察2:神なしでは、自分の心は破綻状態にあることを自覚して、イエスに頼る者たち。このような者が神の国を相続する。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。詩編34:18

善行が悪いといっているのではない。善行をする人の心に、自分の義を誇る思いが潜んでいる。そして善行を行えない人をさばく。これが罪なのだ。神は自己義に酔う人を嫌われる。
かえって神は、善をしたくても行えないで、自分の罪を悲しむ人が幸いだという。
聖くなくても平気な人、平気で罪を犯す人のことではない。
そうではなくて、聖くなれない自分、汚れた自分を悲しむ、そのような人を神は愛される。

なぜなら、そのような人は神に罪の赦しを求めるから。神により頼むからである。
このように私たちが考える幸福と、神の考える幸福は正反対であると知ることは重要である。

考察3:このことを知る時、信者は、今の自分や他人の境遇につまづくことを避けられる。
この世では十分に報われなくても、天で完全に報われることを期待して、困難と闘う力が与えられる。

信仰のない者が富み、楽しんでいてもうらやましいと思わなくなる。
信仰を持つ自分が苦しいままに置かれたとしても、耐える力が与えられる。
かえって、苦しいからこそ神に頼るから幸いである、神はそのように自分を導かれていると思えるようになる。この世で、報われることがなくても、天で報いが与えれれることを待ち望んで、迫害に耐え、主のために最善を尽くす生き方ができる。

考察4:信者にとって弱さは強さ。弱さ、逆境を通して主は人に信仰を与える。信じた後も、神は目的をもって信者に弱さを与えておられる。

多くの場合、苦しみや悲しみが信仰の目を開かせるきっかけになる。
信者は信仰が与えらえた後、自分の過去を振り返って、あの困難があったから、あのとき思い通りに出来なかったから、今のわたしがあると神に感謝するようになる。
また、信じた後も、安心しきって神を忘れることがないために、主は自分に限界を定め、乗り越えるべき課題をいつも与えておられる。このことを信者は知って神に感謝する。

神が信者に弱さを与える目的は、神を求めさせるため、自分の力を誇らせないためである。私たちはしばしば計画したことが実行されず、やりたいことができない、行きたいところにいけないことが生じる。これらは全て、神が目的をもって私の益のために働かれた結果だととらえるべきである。

パウロも、弱さを与えられた。しかし、彼は弱さを誇ると言った。なぜなら彼は、弱さの内に神の力が完全に現れると知っていたから。私たちも同様である。自分の弱さや力の限界を嘆くのではなく、弱さがあるからこそ、限界があるからこそ、神の力が私をおおうと、「弱さ」こそ「強さ」だと宣言しようではないか。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですか ら、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。2コリント12:9,10

結論:自分の罪を知り、キリストへの信仰を持った人が一番幸せな人。そのために弱さ、困難が助けとなったならば、それらは恵みである。

自分の罪を悲しんで、キリストを信じる信仰が与えらえた人が本当に幸せな人です。
そのために、病気や失望、困難が役に立ったのであれば、それらは恵みであったと言えるでしょう。
だからイエスは、今悲しんでいる人は幸いだと言われたのです。
あなたは幸いな人でしょうか。もし、そうでないなら、主を知ることを求めようではありませんか。
そして、主が用意してくださっている計り知れない恵み、安息をいただこうではありませんか。

こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたが たが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。・・
どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に・・エペソ3:17-20

 

NO IMAGE
最新情報をチェックしよう!
NO IMAGE

「私と一緒に聖書を読んでみませんか?」

今から約2000年前、キリストは預言されていた通り、死んで3日後に復活し、ご自身が神であることを証明されました。神がおられるのですから、その方を無視して生きることは、神があなたを造られた目的を知らずに生きることを意味します。どうか、神を知り、神に生かされる確かな人生を歩んでください。そのために、聖書を学び、神について、自分について、知ることを始めませんか?