- 1 「種蒔きのたとえ」は、弟子たちにとって非常に印象深い説教だった
- 2 いつ、どこで、どのような状況で、この説教がなされたか
- 3 イエスは「みことば」を「種」、聞く人の心を「土地」にたとえて、
信じる人と信じない人について話した
- 3.1 考察1:福音は隠された宝。福音を聞く機会が与えられたら、それは恵み。 しかし、聞く人の心の状態によって、それが受け入れられるどうかが決まる。
- 3.2 考察2:「かたくなな心」は神のことばを受け入れない。神に従うことを嫌う。
- 3.3 考察3:「良い心」の人は、イエスが言われた「幸いな人」。 このような人は、神のことばを喜び、忍耐して実を結ぶ。
- 3.4 考察4:神の奥義を正しく伝える責任がある。間違った聞き方をして、違った福音を伝えるなら、自分の命を失うだけでなく、多くの人を不幸にする。
- 3.5 考察5:「かたくなな心」を柔らかくするのは神のわざ、人間にはできない。 伝えた後は、神にゆだねる。神に祈る。これが私たちがすべき伝道の方法。
「種蒔きのたとえ」は、弟子たちにとって非常に印象深い説教だった
- 「種蒔きのたとえ」はルカ8章以外にも、マルコ4章1~9節、マタイ13章1~8節に登場する。
- このことから、神の国をたとえたこの説教は、弟子たちにとって、特に印象に残るものであったことがわかる。
いつ、どこで、どのような状況で、この説教がなされたか
- 山上で説教をされた後、平地のほうに移動され、カペナウムに入られた。
コラジンとベツサイダの町のかたくなさを嘆いている。マタイ11:21 - イエスはカペナウムのある家に滞在された。おそらくイエスを指示する人の家だろう。
- イエスの母、兄弟たちがイエスを連れ戻しに来ていた。人々がイエスが悪霊によって人をいやしていると言っていたからである。マルコ3:21/マルコ3:31-35 /マタイ12:46-50
- カぺナウムの町、ガリラヤ湖の水辺で、イエスは舟に乗り、座って話した。
おびただしい数の人々が、岸辺に立ってイエスの話を聞いていた。マタイ13:1/ マルコ4:1
イエスは「みことば」を「種」、聞く人の心を「土地」にたとえて、
信じる人と信じない人について話した
「みことば」に全く関心を示さない人 「みことば」が心に入らない人
種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。ルカ8:5
- 「種」は神のことば、
「種まく人」は、みことばを伝える人=イエス、弟子たち、信者たち - 「道ばた」は畑の脇のあぜ道や道路。人の足で踏み固められていて固い。ルカ8:5
そのため、そこに落ちた種は根を地中に伸ばすことができない。種は鳥に食べられて消えてしまう。 - 「固い土」は信仰を受けつけない「かたくなな心」のたとえ。ルカ8:12
このような心を持つ人は、他の信仰に確信を持っていたり(パリサイ人のように)、
自分の信念に自信を持っている。イエスの福音を聞いても全く興味を示さないで、はねのける。 - この人は、福音を聞いても信じないし、救われない。
信じやすいが続かない人
「みことば」に従うことで困難や迫害が起こると、簡単に信仰を捨てる人
また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。ルカ8:6
- 岩の上に薄く土があるために、種は芽を出す。しかし、土が深くないために根を深くはることができない。日照りがあると、簡単に枯れてしまう。ルカ8:6
- 「土が薄くおおう岩」にたとえられたのは、簡単に信じる「浅はかな心」ルカ8:13
このような人は、すぐに信じる。しかし、依然としてかたくなな心が根底にあるため、
信仰のための困難や迫害が起こると、簡単に信仰を捨てる。熱しやすく冷めやすい人。 - このような人は、信仰を持つが続かない。
家族、親戚、友人とのつきあい、仕事で成功すること、金持ちになること、快楽を存分に楽しむことが、神にまさって重要なため、みことばがふさがれる人
また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。ルカ8:7
- 「種がいばらの中に落ちた」とは、原語では、いばらの根が残っている上に種が落ちたと言う意味。
(ギリシャ語(エピ)は上という意味)
いばらは生命力が強い。いばらのほうが早く生えて、種をおおってしまう。
種は、いばらに養分を吸われ、光を奪われて、枯れてしまう。ルカ8:7 - 「いばらに落ちた種」はこの世の心遣い(人づきあい)や富、快楽を優先するために、
信仰が邪魔になり、信じなくなる人を意味する。ルカ8:14 - このような人は、信じたようでも、葛藤があり、ぐらつきやすく、結局は信じなくなる。
みことばを聞いて、しっかりと守り、困難によく耐えて実を結ぶ人
また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。ルカ8:8
- 良い地は、良く耕されている深い土があるところ。このようなところに落ちた種は大きく成長する。
- 「良い地」にたとえられた心は、みことばを信じ、みことばに従って実行する心
このような人にみことばが語られる時、その人は多くの実を結ぶ。
その生活が神によって整えられ、人格の上に御霊の実を結ぶ。
考察1:福音は隠された宝。福音を聞く機会が与えられたら、それは恵み。
しかし、聞く人の心の状態によって、それが受け入れられるどうかが決まる。
「種」に問題があったから、芽がでなかったのではありません。種が落ちた土の状態が悪かったから成長できずに枯れたのです。
これと同様に、福音自体に問題があるのではありません。福音は隠された宝です。(マルコ13:44-46)この宝は人生に大きな実を実らせます。(ルカ4:31,32/マタイ13;31-33)
そして、もしあなたに福音を聞く機会が与えられたとしたら、感謝しなければなりません。
なぜなら、日本には福音を知る人は少なく、また知らせる人も少ないからです。
しかし、せっかく伝えられた「神のことば」も、それを聞く人の心の状態によって、実を結ぶか、無駄に捨てられるかかが決まります。
考察2:「かたくなな心」は神のことばを受け入れない。神に従うことを嫌う。
「道端の土地」や「岩地」にたとえられたのは、神の定めよりも自分の欲望を第一にする「かたくなな心」でした。
簡単に言うと、神に干渉されることなく、自分の思いのままに生きたいのです。
これは、全ての人が、生まれながら持っている傾向です。
私たちには良心が与えられています。私たちは、自分がしていること、自分が求めていることが、神の定めに反することを知っています。だから神にいてもらっては不都合なのです。
また、自分は正しいことをしてきた。あの世があったとしても裁かれないと思っている人もいます。彼らは、自分の罪がわかりません。そのため、父なる神にとりなしをしてくださるキリストを必要としません。彼らは福音を聞いても平気で踏みつぶします。
神なしで、富み、笑い、人にほめられる人たちを、イエスは「哀れな人」と言いました。
なぜなら、この人たちは神の国を求めることなく、本当の平安を知ることができないからです。
しかし、富んでいるあなたがた、いま食べ飽きているあなたがたは、。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。ルカ6:24-26
このような人たちの中にも、何かのきっかけで信じる人がいるかもしれません。
しかし、「かたくなな心」がその人の心の底に、しっかりと根を張っているので、
信じたとしても長続きはしません。
信仰のために不都合が起こると、簡単に信仰から離れてしまいます。
考察3:「良い心」の人は、イエスが言われた「幸いな人」。
このような人は、神のことばを喜び、忍耐して実を結ぶ。
では、福音を聞いて受け入れる「良い心」の人とは、どのような人のことでしょうか。
- それは、ルカ6章20-26節でイエスが言われた「幸いな人たち」のことでしょう。
- 自分の罪を悲しむ「心の貧しい人」でした。正しいことをしたいのにできない。正しくないとわかっているのに止められない自分の罪を知り、悲しむ人でした。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。マタイ5:3
- この世が罪だらけで、正義がないことを知って、決して変わることのない真の正しさを探している人。自分が正しくなることを願い、自分を正してくれる助けを求めている人でした。「義に上渇義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。マタイ5:6
- 自分の罪を悲しむ「心の貧しい人」でした。正しいことをしたいのにできない。正しくないとわかっているのに止められない自分の罪を知り、悲しむ人でした。
- 「良い心」=「自分の罪を知り、正義を求める心」を持つ人は、福音を聞いて喜びます。
この人たちは、福音のすばらしさを理解できる人です。
ですから、この信仰のために困難や迫害が起こっても、よく耐えて、実を実らせます。
彼らは、みことばを聞いて、みことばに従い実行します。
そのため、彼らの人生に、神が大きな実りを与えてくださることになります。
人格の実など(聖霊が結ばせる)愛、平安、寛容、親切、柔和、自制
彼らの人生全体に、神の影響が現れるようになります。
考察4:神の奥義を正しく伝える責任がある。間違った聞き方をして、違った福音を伝えるなら、自分の命を失うだけでなく、多くの人を不幸にする。
イエスは言われました。「聞き方に注意しなさい」そして「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。間違った聞き方をすると、イエスのことばを違って理解し、間違って実行するからです。
神のことばは、正しく用いるとき、その人の人生にすばらしい結果をもたらします。
しかし、もし間違って用いるなら、人の人生に破滅をもたらします。
ですから、福音を伝える人たちは、良い心で、神のことばを聞いて理解し、正しい知識を人々に伝える責任があります。
そうでなければ、自分も失われ、伝えた相手も永遠に失わせる、大きな罪を犯すことになるからです。
だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからで す。ルカ8:18
考察5:「かたくなな心」を柔らかくするのは神のわざ、人間にはできない。
伝えた後は、神にゆだねる。神に祈る。これが私たちがすべき伝道の方法。
私たちの心は生まれつき「かたくな」。神のことばを拒絶する。
私たちの心は生まれつき「かたくな」です。神を嫌い、神の命令に逆らいます。
聖書には、全ての人が「罪人」として生まれると書かれています。
ですから、私たちには、生まれつき福音を受け入れることが不可能なのです。
義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。ローマ3:10,11
聖霊が「かたくなな心」を新しくする。神のことばを受けれることができいるようにする。
しかし神は、絶望的な私たちに救いの手を差し伸べてくださいました。
イエスが十字架で死んで、天に昇られて後、聖霊が信者に与えられるようになったからです。
聖書には、聖霊が人の心を「新しくする」と書かれています。
聖霊によって生み出された「新しい心」、これが福音を理解し実行できる「良い心」です。
そして、イエスは「求める者には、聖霊が与えられる」と約束してくださいました。
救われたいと願い、聖霊が与えられて、福音が理解できるようになりたいと願う人の祈りに、神は答えて下さいます。
伝えた後は神にまかせる。主に祈る。福音を聞いた人と神との対話の時間を大切にする。
救われたい人の願いに、主は答えてくださる。
ですから、神について伝えた後のことは、伝道する者たちは神に委ねることが必要です。伝えた人が救われるように祈ること、これが私たちにできる最善のことです。
結果を出そうと、救いを人為的に造り出そうとしてはいけません。その場合、救われていない人をクリスチャンと呼んでしてしまう可能性があります。伝えた人と神との間に十分な対話の時を持ってもらうことが大切です。その上で、もっと知りたい、信じたい場合は、助けることです。これが聖書が勧める伝道だと思います。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たち に、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。ルカ11:9-13