「キリストが与えるくびきは軽い。自分を捨て、自分の十字架を負ってついてきなさい。」ルカによる福音書9章18-27節

目次

イエスは、人々の前で,多くの奇跡やいやしを行った。

  1. わずかなパンと魚を増やし、男だけで5000人を、その後4000人以上を食べさせた。
  2. 盲人の目を目えるようにした。ひきつけを起こす子供をいやした。
  3. その他にも、多くのいやしを行った。そのうわさは国中に広がって、
    国主ヘロデさえ知るほどであった。

群衆も弟子たちも、イエスがローマを倒し、イスラエル王国を再建する「メシヤ」だと期待した。しかし、イエスは否定した。

  1. イエスは彼らの思いを知っていた。それで、彼らが間違っていることを教えた。
  2. 私はこの世で、あなた方を敵から守り、豊かな暮らしをさせるために来たのではない。
    あなたはがたの、私に対する期待は間違っている。

    「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」ヨハネ6:26

私は父なる神から遣わされた。私は人の罪を赦すために死ぬ。
私を信じる者は永遠の命を得る。と言われた。

  1. 私は天の父の認証を受けて、父から遣わされてこの世に来た。私の父は神である。
    私を「神」と信じることが、神のわざを行うことである。
    「私たちは神のわざを行うために、何をするべきでしょうか。」
    「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」ヨハネ6:27-29
  2. 私は、人に「永遠の命」を与えるために来た。私の王国は「天国」である。
    「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」ヨハネ6:51
  3. 私は、生きてこの世に王国を築くためではなく、死んで人の罪を赦すために来た。
    「まことに、まことにあなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちをもっています、わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」ヨハネ6:54

群衆はイエスの言葉につまづいた。弟子たちの多くも離れた。

  1. 群衆は、イエスのことばにつまづいた。
    なぜなら、彼らはイエスの父も母の知り合いで、イエスを幼少のころから知っていたからである。
    「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天からくだって来た』と言うのか。ヨハネ6:42
  2. 弟子たちの多くも、イエスこのことばにつまづいた。
    これ以降、彼らはイエスから離れ去って、イエスとともに歩かなかった。

    「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いていられよう。」ヨハネ6:60,65

天の父が引き寄せられない限り、イエスのとこに来ない。
イエスは、信じた者を決して見捨てないと言われた。

  1. 天の父が引き寄せた者だけが、イエスを神と認め、イエスのところに来る。
    教会=エクレシア(神に引き寄せられた者の集まり)

    父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。ヨハネ6:35
    わたしを遣わした父が引き寄せられない限り、だれもわたしのところに来ることはできません。ヨハネ6:44
  2. 天の父は、ご自分が引き寄せた者に真理を知る啓示を与える。
    預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書いてありますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
  3. そして、天の父はご自分が引き寄せた者の「救い」を保証する。
    1、肉体的な渇きや飢え
    ではなく、霊的に枯れることがないという意味。
    わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。ヨハネ6:35
    2、イエスによって命を与えられたものを、イエスは決して捨てることがない。
    その者がどのような状態であっても、その者を見捨てて救いを取り上げることはがない。
    父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。
    そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。ヨハネ6:37

群衆はイエスを預言者だと言った。
弟子たちは「キリスト」だと答えた。

  1. 群衆は、イエスを預言者だと言っていた。
    「群衆はわたしのことをだれと言っていますか。」

    「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い。また他の人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」
    群衆は、イエスが神から特別な能力を与えられた人間だと言っていた。
  2. 弟子たちは、イエスがキリストだと言えた。
    「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

    ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」ルカ9:20
    「生ける神の御子キリストです。」マタイ16:16
  3. イエスは弟子たちのことばを喜んだ。

祭司長たちに殺され3日後によみがえると、弟子たちに教え始めた。

「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」ルカ9:22/マタイ16:21

  1. 宗教学者たちがイエスを殺す計画し実行する。
  2. イエスは非常に苦しんで死なれる。(十字架刑)
  3. しかし、死んで後3日後に生き返る。
  4. これは永遠の昔からの神のご計画。私はこれらを経験しなければならない。
    (私の苦難無しに、あなたがたの救いはない。)

自分を捨て、自分の十字架を負ってついてくるように弟子たちに命じた。

イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。ルカ9:23

1.自分を捨てて私に従いなさい。

「自分を捨てる」とは、
自分の今までの生き方を反省して、神中心に変えていこうとする努力ではない。

イエスが言われた「自分を捨てる」とは、それ以上の根本的な自己否定である。
自分という罪人が生きることを恐れるということである。

自分の罪におののいて、自分が生きることを嫌うこと、否定すること。
自分の代わりに、神に生きていただくように、願うことである。

2.日々自分の十字架を負って私についてきなさい。

自分の十字架を負うとは、信仰のため、福音宣教のために重荷を負うこと。

十字架は、処刑の道具。受刑者は棒を担いで刑場に行かされた。
イエスは、イエスに従う人生は、決して楽なものではない。それは死ぬまで、キリストのために困難を負い続ける人生であることを弟子たちに伝えた。この当時、信仰を持つことは死を意味した。事実、迫害によって殺された兄弟たちも多くいた。つまり、イエスは死を覚悟してついてきなさいと言われた。

私たちは、クリスチャンになったからといって殺されることはない。しかし、イエスの言葉に忠実に生きるとき、貧しくなる、人から見下されと、いやがらせを受ける、家族との間に不和が起こるなど、私たちは多くの生きづらさを経験する。また、伝道するなら、人から誤解され、批判される。しかし、これがイエスが言われる十字架である。信仰に入れられた者は、おのおのに負うべき十字架がある。イエスに従うことは、ハッピーなだけではない。むしろ多くの困難がともなうことを、覚悟しておく必要がある。

生まれながらの私たちには、このような生き方はできない。努力では続かない。

生まれながらの私たちは自己に価値を置いている。他人の罪を指摘しても、自分の罪を深く知ることがない。自分の能力を誇る。自分の利益を最優先する。他者のことを本当に心にかけることができない。そのような私たちは、自分を否んで、キリストのために、一生涯十字架を負う生き方はできない。決心、祈り、努力によって、自分を他者に支えさせ、主に従うようにすることはある程度はできる。しかし、たとえできたとしても、ずっと続けることは難しい。ほんの少しのことで、化けの皮が剥がれて、本性が剥き出しになってしまう。頑張って聖く振舞っていても、内心は非常に疲れを覚えてしまう。

イエスの命令は、聖霊が降ってキリスト者とされた者たちに与えられたものだった。

1.このとき弟子たちは、この命令を守るための知識が十分ではなかった。

この時、弟子たちはイエスを神の御子キリストと告白した。しかし、彼らは依然として地上にイエスが王国を再建することを期待しており、キリストは「人を罪から救う救い主」であることがわかっていなかった。この命令を守るためには、彼らの知識は十分ではなかった。

2.このとき弟子たちは、この命令を守るための能力がまだ与えられていなかった。

弟子たちはイエスから直接教えを受けた。イエスの死と復活を目撃した。しかし、それでもまだ不十分だった。伝道し、迫害に耐え、主の命令を守るためには、彼らには聖霊が必要だった。神の超自然的な介入が必要だった。弟子たちはエルサレムで聖霊を待つように言われた。そして、聖霊が降った後、彼らは全く変えられた。新約聖書には、キリスト者になったことは、聖霊を受けたことによって認められている。当時は異言がその印であったが・・。

御霊によって新生することなしに、神の命令を実行することはできない。

新生は自己の死と御霊による新しい人としての復活である。バプテスマに象徴される霊的な大転換。
新生によって、今までの価値観、世界観が180度変わる。みことばを理解する能力が与えられる。
この心の変化があって初めて、主の命令が重荷ではなく、喜びとして受けとられ、実行されるようになる。

イエスは、新生の必要について教えている

イエスは、夜こっそりとやって来たパリサイ人ニコデモに対して、次のようにニコデモを教えた。
このとき、主は「まことに、まことにあなた方に告げます」と前置きをされている。
この表現は、イエスが非常に重要なことを教えるときに言われることばである。
つまり、ニコデモに教えたことは、非常に重要であるということである。

1.人は御霊によって新生しなければ天国に入ることができない。

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ヨハネ3:4

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」ヨハネ3:5
水と御霊は、エゼキエル書に書かれた、水による清めと、新しい霊のこと。イエスは旧約に預言された御霊による「新生」のことを言われたのであった。律法の教師であるニコデモイエスの言葉で、このことを悟ることができるべきであった。しかし、このとき彼は悟ことができなかった。

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。エゼキエル36:25-27

2.人間が造り出した聖さは神の目には肉としか映らない。御霊によって新しくされなければならない。

肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。ヨハネ3:6

3.御霊は神の思いのままに吹く。人間の思いに従って御霊を吹かせることはできない。

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。ヨハネ3:8
聖霊は誰に吹くか誰もコントロールできないし、予想することもできない。しかし、聖霊が吹いたことは、自分も周りの人も知ることができると言われた。

パウロは、聖霊を受けてキリスト者となった。彼は全く変えられた。

パウロは聖霊を受けて新生した。パウロの価値観は、全く変えらえた。これは、彼の意志に反して起こった。もはや以前は価値があると思っていたことは、ちり同然と思うようになった。

パウロは、新生の奥義を諸教会に書き送った。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。ガラテヤ2:20

大事なのは、新しい創造です。ガラテヤ6:15

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。エペソ4:22-24

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。2コリント5:17  

キリストの御霊を持たない人は、 キリストのものではありません。ローマ8:9

キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられ たように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。ローマ6:1-4

聖霊を受けるとは、「異言がで」たとか、「幻を見た」とか「、祈っているたら体が熱くなっ」たということではありません。
聖霊を受けることは、神の超自然的な介入により、心が新しくされることです。その結果、生き方が全く変えられることです。人間の努力できないレベルの、根本的な変化です。
聖霊が降るなら、その人にはわかるし、他の人も認めるものです。
しかし、聖霊は、神の御心のままに吹き、私たちにはコントロールできません。
そのため。誰に吹くのか、いつ吹くのかは誰にもわかりません。ただ、風が吹けば、葉が揺れ、風を感じるように、聖霊が降った結果を人は見ることができます。
聖霊が降った人の変化を見ることができます。

キリスト者の服従は人間の努力ではない。
新しくされた心で、自由の律法によって、神の命令を実行すること。

神は、律法を、心の板に書き記すと言われた。新しくされた心にとって主の命令は重荷ではない。主は「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」と言われた。マタイ11:30
あることに対する違反が定められていなくても、キリスト者は正しいことを行おうとする。失敗した時は悲しく思う。誰が知らなくても、誰に責められることがなくても、神に悔い改める。

キリスト者は、もやは律法では裁かれることがなくなった。律法が適応されなくなった者である。
もはや何ができなくても、どんな失敗をしても神に裁かれることはない。しかし、それでも彼らは罪を嫌う。それは、裁きが怖いから、天国での報いが減らされるからではない。ただ、罪を犯したくないという自然に思う。それは、彼らの内に聖霊が住まわれるから。彼らはまた、神にに用いていただきたいと心から願う。そして、善を成す機会が与えられれば神に感謝する。これもまた、彼らの内に聖霊が宿っておられるからである。

「身よ。その日が来る。―主のみ告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。、、その契約はこうだ。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」エレミヤ31:31,33

「あなた方に新しい心を与え、あなた方のうちに新しい霊を授ける。わたしはあなた方のからだから、石の心を取り除き、あなた方に肉の心を与える。わたしの霊をあなたがtのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを行わせる。」エゼキエル36:26-27

モーセは言います。「あなたの神、主はあなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」申命記30:6

良い行いは、信仰の結果生じたもの。信仰を得るために良い行いに励むのではない。

1.良い行いによって神から「救い」と「報酬」を得ると考える人が多い

イエスが「なくならない食物のため(神のため)に働きなさい」と言われた時、
群衆は「私たちは神のわざを行うために、何をしたらよいでしょうか?」とイエスにたずねた。
つまり、「行いによって神の愛を勝ち取り、報酬を得ることができる」と考える人が多い。
キリスト教以外の宗教は、皆これである。キリスト教でも、たとえばカトリックやプロテスタントのあるグループはこの考え方を採用している。
この信仰によると、神のために何ができたか、何ができなかったかによって、神の評価が変わる。
そのため、信者は善行ができないとき
に焦る。救いを失うのではないか、天国での報酬が減らされるのではないかと恐れる。

2.しかしイエスは、「救い」と「報い」は神の一方的な哀れみによって与えられると言っている。

イエスは「神のわざを行うために何をしなければなりませんか」と聞く群衆に対して、
「神が遣わした者を信じること、すなわち神のわざです
と言われ、ヨハネ6:29
信仰のみに言及し、行いについて一切指示されなかった。

イエスは律法の中でたいせつな戒めとして、
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と言われた
マタイ22:35

3.「報い」も、それを受けるに価しない者に授けられる恵みだということを忘れてはならない。

なぜなら、その良い行いを神が備えて信者に行わせているからである。
私たちは良い行いの功績を誇る権利はないからである。

みことば エペソ2:10
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをも あらかじめ備えてくださったのです。

 

新しい心で、神の律法に従う。「自分を捨て、主のために十字架を負う」これがキリスト者の特権、キリスト者生活の奥義です。何ができても、自分のしたこととして誇らず、神に感謝する。何ができなくても、たとえ大失敗しても、神の約束は変わらない。神の内に平安でいることができる。
これが、他の宗教とは、まったく違うキリスト者の神に従う道です。

 

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「私と一緒に聖書を読んでみませんか?」

今から約2000年前、キリストは預言されていた通り、死んで3日後に復活し、ご自身が神であることを証明されました。神がおられるのですから、その方を無視して生きることは、神があなたを造られた目的を知らずに生きることを意味します。どうか、神を知り、神に生かされる確かな人生を歩んでください。そのために、聖書を学び、神について、自分について、知ることを始めませんか?