第2編1章 自己認識の方法を誤ってはいけない
一般に言われる自己認識は、自己のすばらしさを見つけるもの。しかし、それは自己賞賛に終わる傾向にある。
真の自己認識は、神の基準から見た自分の不完全さを知って謙遜になることである。その不完全さを回復するために、神に助けを求める願いが起こされることである。
- 自己を肯定するための自己認識は、罪の状態そのままにして人を安心させる
一般に自己認識とは、自分のありのままのすばさしさ、価値を認めることと言われる。自分に自信を持ち、そのままの自分を肯定することが勧められる。しかし、全ての人は何らかの罪の思いを持っていて、他人に知られなくても、隠れた罪を犯している。だから、このような自己認識は、罪の状態を肯定させて、その良くない行いや思いを続けさせることになる。 - 真の自己認識は、自分の欠陥を知り、改善の必要を思い起こさせ、人を謙遜にする
自己を知るとは、人間が神に創造された時の完全さと、アダムの堕落以降の悲惨な状況を知ることである。
神の基準から自己を見て、そのありのままの姿を知ることである。
これにより、自分が罪に汚されている状態であることを知って、神の前にへりくだることである。
第2編1章1:真の自己認識から生まれる願い
自分の真の状態を知った者は葛藤する。そして自分の不完全さを回復するために、神に助けを求める。
- 真の自己認識はキリストによる回復を望ませる
この自己認識から、自分の失われた善をキリストにおいて回復する熱意さが引き起こされる。 - その願いをかなえるためには、自分の経験、知恵ではなく、神の知恵に頼ることが条件になる
この願いをかなえるためには、自分の経験や能力、判断に頼るのではなく、神の知恵、神のことばに従うことが必要になる。
第2編1章2:人間の善を説く説教は喜ばれるが、それは人を破滅に追いやる
私たちは、人間の善やすばらしさを聞きたい。そのような説教は受け入れられ賞賛される。しかし、これは彼らに自分の罪の状態を知らせないまま、今までと同じ行いを続けさせることになる。しかも彼らに「神のさばきはない」と安心させることである。このような説教は、人を喜ばせて破滅に追いやるもので、親切でも真実でもない。
- 人間には善があると説教すると、人々に受け入れられる
人間には自己愛がそなわっているため、自分が善であるとか、偉大な賜物があるなどの話を好んで受け入れる。このような説教は人気がある。 - しかし彼らをそのままで喜ばせるなら、破滅に向かわせることになる
人間の卓越生をたたえる知らせは、いつの時代も喜ばれた。しかしこれは、彼らの罪の本性を知らせず、そのままで安心させて、そのわざを続けさせることになる。その結果、彼らから悔い改めの機会を奪い、彼らを破滅に導くことになる。
第2編1章3:自己認識の違いによって徳の追求の仕方が違ってくる
自己認識の違いによって、徳の追求の方法が違ってくる。自分の善を信じる者は努力によって聖くなろうとする。一方、神の基準によって、真の自己認識をした者は自分の中に徳を生み出すものを認めることができなくなり、葛藤する。ここに至って、神による真の回復の道が示される。
- 自己の善を信じる人
自己の知性と完全さに信頼して、自己にたよって徳を追求するために努力する。 - 神の基準で自己を認識した人
神の基準で自己を計った結果、自分に徳の追求ができると信頼できなくなる。しかし、義と善への衝動が私たちの中に埋め込まれているため葛藤する。しかし、この絶望がゆるがない希望の根源になる。自分には、徳を完全に追求できるだけの能力がないと知った人は、神にその回復の手段を求めるようになる。そして、神が用意してくださっているキリストによる回復にあずかる者となる。
第2篇1章4:なぜ人は罪人として生まれるのか?
神は人間を創造されたとき、人間は罪を持たず、永遠に生きた。ところが、はじめの人「アダム」が神に背いたため、人類に罪が入った。それ以来、全ての人は罪をもって生まれ、生まれながら創造主に反抗する性質を持つ。人類に罪が入ったため、神は人間を永遠に生かしてはおけなくなった。そのため、人間は死ぬようになった。
- アダムの罪は神への不従順であった
アダムは、神の命令に従わず、己を神よりも高く上げようとした。
彼は、知恵の木の実は自分を賢くすることを知った。木の実を食べることで、神よりも偉くなろうとした。 - アダムは、神が彼を守るために命令じた「ことば」を疑った
神は、アダムが死ぬといけないから、木の実を食べるなと命じられた。これはアダムの安全のための命令であった。しかしアダムは、自分を賢くさせないために神が言ったのだと、神の善意を疑った。このように、不服従は、神のことばに対する不信からはじまる。 - アダムは神に与えられたもの以上の立場を欲した
神への不信が引き金となって、彼の内に欲望が生じた。アダムは神に従うのではなく、神を従える立場を欲した。
そして、神の指示に反する行動をした。(知恵の木の実を食べた)
第2篇1章5:アダムの罪は全人類に影響した 原罪のはじまり
アダムが罪を犯したことにより、アダムの子孫たち(全人類)にその罪の性質が引き継がれた。アダム以来、全ての人は罪人として生まれる。この世に、罪のない人は1人もいない状況になった。
- アダムの罪が全人類におよんだ
「原罪」とは、アダムにはじまり、彼のすべての子孫に影響した、世襲的な罪である。
第2篇1章6:義への回復はキリストによってなされる
- 元の状態への回復はキリストによってなされる
回復は「キリストに見習って行う」ことによるのではない。キリストが、義を守る力を私たちに与えることによってのみ起こる。
神は、キリストによる回復を願う人に聖霊を注いで、私たちを新生さる。私たちの心を新しくすることによって、キリストに従うことができるようにする。
「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人 イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」ロマ5:17
「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」ローマ5:19
- 罪の結果、死が入った
罪と死は、アダムを通して全人類にもたらされた。
アダムは単に人間の本性の祖先であるばかりではなく、いわば「根」であって、この根が腐ったために当然人類は腐敗したのである。アダムに罪が入ったとき、それと同時に死も入った。
「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」第1コリント15:22 - なぜ神は死ぬようにしたのか? 死は人間に責任がある。神に責任はない。
アダムは神に反抗したため、彼に罪が入った。それを子孫に継承させた。神が死を造ったと言って神を責めてはならない。
人間が神に反抗した結果、死が始まじまったのだから、死は人間の責任である。
「すべての人は生まれながら、怒りの子である」エペソ2:3「肉から生まれるものはみな肉である」ヨハネ3:6 - 死の問題を解決するのはキリストのみ
すべての人は生まれながら罪人であるために、天国に入れない。しかし、神は人間が天国に入ることができる道を用意してくださった。キリストを信じて新しく生まれた人は、天国に入ることができる。
「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人 イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えら れるのです。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」ローマ5:17-21
第2篇1章8:原罪とは何か? 原罪の定義
原罪の定義
『原罪』とは、われわれの本性の遺伝的な歪曲または腐敗であって、たましいのすべての部分にひろがっている。これは第一に、われわれを神の怒りにあたるものとし、次にわれわれのうちに、聖書が『肉の行ない=罪の行い』と呼ぶ行ないをもたらすのである。
第2篇1章8:全ての人は原罪を持つ
- 全ての人は罪の種を持っている
子どもも例外ではない。たとえ今それが現れていなかったとしても、罪を持って生まれてくる。全ての人は罪人である。
自らのとがのゆえに神に罪と認められる存在である。ローマ5:12 - この罪の種は止むことなく罪の実を生じさせる
この罪の種は私たちのうちで決して絶えることなく、たえず新しい罪の実を生み出している。その実というのは、私たちの「罪の行い」である。(ねたみ、うらみ、ぬすみ、うそetc) - 善を欠いているからではなく、罪人だから罪を犯す
人間はあるべき善が欠けているから罪を犯すのではない。
罪を犯して止まない罪の性質を持つから、罪を犯すのである。 - パウロは現れた罪の行いだけを取り上げず、その原因である精神の腐敗を取り上げた。
問題は、個々に現れた罪ではない。それらの罪を犯さないように戒めたり、教育しても、人間は罪を繰り返す。それはなぜか?それらは枝葉であって根本的な罪の解決方法ではないからだ。問題なのは、あらゆる罪を引き起こしうる精神の腐敗である。一番重要なことは、人間が生まれつき持つ精神の腐敗をどのように回復させるかである。ローマ書3章全体
第2篇1章9:人は新生を必要とするほど、罪の影響が全体に及んでいる
聖書が「新生」が必要であると言っていることによって、人間のたましいは、矯正で直るものではなく、全く新しくしなければならないほど腐敗していることがわかる。
- キリストは新生が必要だ言われた。このことは人間が全的に罪に汚されていることを良く説明する
新生「更新」は、単に、魂の一部分とか、人間の官能な性向を矯正するために与えられるのではない。新生は人間の全部分の完全な改革を含むものだからである。だから、パウロは、欲望を抑えよというのではなく、「心の霊を新たにするべきだ」というのである。また、「心を新たにしてつくりかえる」必要を語っている。私たちの人格は、正しくない部分があるというだけなく、全てに罪の影響が及んでいる。もはや修復することでは回復は不可能。だから、神がくださる新しい性質をまとわなければ、回復されないのだということである。