エルサレムに入ったイエスは、昼は宮で教え、夜は都の外に出た
イエスは毎日、宮で教えておられた。ルカ19:47
夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。マルコ11:19
祭司長、律法学者たちはイエスをわなにかけようとして、
質問をした(イエスの権威について)
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祭司長、律法学者、長老たちはイエスに敵対した。民衆はイエスの教えを熱心に聞いた。
イエスはロバの子に乗って入城し、王としてメシアとして歓迎を受けた。
宮の商売人たちを蹴散らし、礼拝以外の目的で宮を通りぬけることを禁止させた。
これらユダヤ教に関することは、サンヘドリンの下にあった。
彼らの許可なしにイエスがしたことは違反行為だった。そこで彼らはイエスに敵対した。
- イエスの権威は神からのものか、人からのものか、彼らは尋ねた。
「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」ルカ20:2
この質問に対して、イエスが「自分の権威は天から受けた」と言えば、彼を神を冒涜した罪で捕らえることができると考えた。 - 彼らの質問に答える前に、イエスは彼らに質問した。
「あなたがたは、ヨハネの権威がどこから来たと思うか。天からか、人からか。」
そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。
ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」ルカ20:3-4
イエスは彼らの質問に答える条件として、自分の質問に答えてほしいと提案した。
それはヨハネの権威を、彼らがどう考えるかという質問だった。 - 彼らは答えに困った。そして「わかりません」と言った。
すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」そこで、「どこからか知りません。」と答えた。ルカ20:5-7
彼らはヨハネを預言者と認めていなかった。ヨハネが彼らの偽善を指摘したからだ。しかし民衆はヨハネを預言者と認めていた。天からと言えば、自分たちが間違っていたことを認めることになる。しかし、人からと言えば、ヨハネが預言者であることを否定することになり、民衆の怒りを買う。そこで、答えに困った彼らは「知りません」としか言えなかった。 - そこで、イエスも彼らの質問に答えなかった。
するとイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。ルカ20:8
彼らがイエスの質問に答えられなかったので、イエスも彼らの質問に答えなかった。
<この問答の意味>
彼らは、自分の身の安全のために、真理を認めようとしなかった。神の前に真実に生きることは、「何が安全か」ではなく、「何が真理か」を問うことである。
イエスはこの質問が自分へのわなだと気付いておられた。それで彼らに答える必要はないと思われた。
イエスはパリサイ人たちの罪をたとえを用いて教えた
- 主人の息子を殺したブドウ園の農夫たちのたとえ ルカ20:19-26
主人はブドウ園を借りていた農夫たちに、分け前を取り立てるためにしもべを送った。農夫たちはしもべに何も持たせないで返し、次ははずかしめ、最後には殺した。困った主人は、息子を送った。しかし彼らは息子を殺せばこの土地は自分のものになると、息子も殺してしまった。怒った主人は農夫たちを殺し外に投げ捨てた。
<たとえの意味>
イエスラエルが霊的に目覚めるために、神は預言者たちを送ったが、ユダヤの教師たちは彼らを殺した。そこで最後に、息子イエスを送ったのに、彼らはイエスをも十字架にかけて殺した。神は、おまえたちパリサイ人、律法学者たちを滅ぼす。地獄に投げ入れる。 - 王子の結婚式に招待した人たちのたとえ マタイ22:1-14
祭司長、律法学者たちの問いかけ(税金問題)
- 今度は、イエスに賛同すると見せかけて、わなにはめようとした。
さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った。ルカ20:21 - まずエスをほめてから、「ローマに税金を納めるべきかどうか」質問させた。
「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基 づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」ルカ20:21,22 - イエスは彼らの意図を見抜いていた。
「神にもローマにも義務を果たすべきだ」と誰も反対できない答えをした。
イエスはそのたくらみを見抜いて彼らに言われた。
「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」ルカ20:23-25 - 祭司長、律法学者たちは、イエスの知恵に驚嘆した。
彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。
<この箇所から学ぶこと>
イエスは「ローマへの税金は支払うべきだ」というお考だった。たとえ異教徒のローマの王であったとしても、悪い王であったとしても、自分が置かれた場所の法律を守り、与えらえた義務を果たすようにとイエスは教えられた。なぜなら、それは神に仕えることの障害にはならないから。それよりも、見せかけだけの信仰で、自分たちの権威を保つために、「メシヤ」を殺そうとしているユダヤの教師たちに従うなと言われた。
サドカイ人の問いかけ(復活について)
- 復活はないとするサドカイ人がイエスに質問した。
「7人の兄弟と結婚したが子を産むことなく死んだ女は、誰の妻になるのか。」
サドカイ人は、この質問によって死後に復活はないことを証明しようとした。
ところが、復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、イエスのところに来て、質問して、こう言った。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかったばあいは、その弟はその女を妻 にして、兄のための子をもうけなければならない。』
ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。次男も、三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子どもを残さずに死にました。 あとで、その女も死にました。すると復活の際、その女はだれの妻になるでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが。」ルカ20:27-33
死後の復活があるなら、この女を誰を夫とするのか天で決められないことになる。
このような混乱は天国では起きないはず。だから復活はないとサドカイ人は主張した。 - イエスはサドカイ人の間違いを指摘した。死後の復活があることを証明した。
- 死人は復活のとき天使のようになる(性別がなくなる、結婚も出産も死もなくなる)
イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。 彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。ルカ20:34-36 - 死んだ聖徒たちは今も生きている。人は死後、復活して永遠に生きる。
それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」ルカ20:37,38
今も、神は聖徒たちの神である。彼らを配慮しておられる。これは聖徒たちは死んだが、今もパラダイスで生きていることの証拠。彼らが死んでいるなら、彼らの神だと主が名乗ることはないはず。(彼らの神だったとなるはず) - これらのことは、神の超自然的な力によってなされる。
- 死人は復活のとき天使のようになる(性別がなくなる、結婚も出産も死もなくなる)
<この箇所の説明>
サドカイ派は、貴族、大祭司や有力者から成る。彼らは裕福でこの世的だった。。彼らは、預言書、詩編、伝承をいっさい排除し、モーセの5書しか認めないため、復活の教理は認めなかった。復活の際の女の困惑を考えるとき、復活信仰は間違いであるとイエスに指摘した。彼らの根本的な間違いは、復活後も同じ体を持つと考えたことだった。
問答ではイエスに勝てないと知った祭司長たちは、
イエスに質問することを止めた。
律法学者のうちのある者たちが答えて、「先生。りっぱなお答えです。」と言った。
彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった。ルカ20:39,40
キリストダビデの子ではない キリストはダビデのは神だ
(パリサイ人の間違いを指摘した)
- 今度はイエスの方から彼らに「キリストは誰の子ですか」と質問した。
彼らのメシヤ観が間違っていたからである。 - 彼らは「キリストはダビデの子」だと答えた。
つまり、ダビデの家系から出る人物で、イエスラエルの国を再建する者だと言った。 - イエスは彼らに「キリストはダビデの子(人)ではなく、ダビデの主(神)だ」と教えた。
「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。 ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」』こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう。」ルカ20:41-44
<この箇所の説明>
創造主は、ダビデの主に対して「自分があなたの敵を滅ぼし、あなたが王となる時が来るまで、天の御座で待っているように」と語っている。
将来、イエスを信じない敵たちは滅ぼされて、イエスが王となる新天新地が出現する。
敵に殺されたが復活したイエスは、神の右の座について、その時を待っておられる。
つまりダビデの主とは、十字架刑で死んだが復活して天に昇られたイエスのこと。
イエスのことをダビデは「私の主」と呼んだ。
だからキリストはダビデの子孫から出る人間ではない。キリストはダビデの神。
このことは、創造主とキリストの交わりを表現している。神が3位一体である証拠である。
パリサイ人たちは偽善者、彼らへのさばきは重い
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ユダヤの教師たちは偽善者。人前で信仰深く見せるが、自分たちは神の戒めを守っていない。彼らは金銭欲が強く、貧しい者たちからまで搾り取る。だから気をつけよ。
また、民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちにこう言われた。
「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。ルカ20:45,46 -
偽善者の特徴
- 身なりや振る舞いを信仰深く見せる。
長い衣を着る。広場を歩き回る。(皆に見せるため)
経札の幅を広くする。衣のふさを長くする。長い祈りをする。 - 尊敬されたがる。先生と呼ばれたがる。
広場であいさつされるのが好き。宴会の上座を好む。(上座は身分の高い人の席) - 金銭に貪欲
やもめからも容赦なく献金を取る。金に執着心がある。 - 人には律法を守るように教えるが、自分は守らない。心は罪だらけ。
自分たちに都合のいい解釈を作って律法を守らない。
『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。
しかし、神殿の黄金をさして誓った ら、その誓いを果たさなければならない。』
『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』など。
- 身なりや振る舞いを信仰深く見せる。
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律法学者、パリサイ人たちは、いっそう厳しい罰を受ける。彼らをまねてはならない。
こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。ルカ20:47
考察1:私たちは復活後、天使のようになる。
もはや結婚も出産も死もない。この世の重荷、しがらみからの解放。私はありがたい。
天国では、死がない。病気をしないで永遠に生きる体が与えらえる。
男性、女性の性差がなくなる。そこからくる差別や生きづらさがなくなる。
恋愛も結婚もない。結婚していた者も、独身だった者も同じ立場になる。
出産することもない。子供を持つことで抱える問題から解放される。
天国はなんとすがすがしい世界でしょうか。この世の重荷、わずらわしさから解放される世界、それが天国です。その世界で永遠に生きることができる。クリスチャンにはこのような希望が与えられています。
ですから、この世に生きている間は、多少不自由であっても、孤独でも、貧しくても、見下されていても、次の世で解放されて自由になるのですから、多少の不自由、不平等は良しとしようではありませんか。クリスチャンの故郷はは天にあります。この世では旅人です。
天国での幸いから目を離さず、この世を旅人として生きていこうではありませんか。
考察2:信仰的な偽善を神は忌み嫌われる。そのような者をきびしくさばく。
ユダヤの教師たちは、外見を信仰深く装っていました。人前で長い祈りするなど信仰深く振舞っていました。しかし彼らの心は、金銭欲、名誉欲に満ちていて、自己中心で神に不忠実でした。
イエスは彼らと敵対されました。彼らの汚れた心をあばきました。
そのように、神は偽善者を嫌われます。外側は聖く正しい人だと見せかけ、自分の心の罪を隠す人を嫌います。むしろ、自分の罪を認めて、イエスのところに集まって来た取税人や罪びとのほうを神は愛されます。
自分の心を聖くするのではなく、外側を聖くして、人に対して義と見られたり、信仰深く思われることを求めるのが偽善者です。彼らは、自分の心の汚れについては鈍感です。
神は、偽善者たちを嫌い、彼らへのさばきはいっそう厳しいとイエスは忠告しています。
私たちには、どのような罪びとも受け入れて、その罪をゆるしてくださるイエスがおられるのですから、神の前に隠し事のない自分を告白して、しっかりと神からのゆるしを受けつつ信仰者としての歩みを続けていきたいものです。外側よりも内側を聖くすることが大切だと知ることは重要です。
考察3:律法の教師といえども、利害のために罪を犯す。罪は深く私たちの心に根を張っている。だからこそイエスが与える「義の衣」を着る必要がある。
律法学者たちは、ローマ政府を否定したり、神を汚す言葉をイエスに言わせようとしました。
しかし、どのような質問にもイエスは賢くお答えになったので、かえって自分たちの間違いが明らかにされ、イエスの正しさがいっそう確かになる結果となりました。彼らは、イエスの知恵あることばに驚嘆しました。彼らにはイエスを言い負かすことは不可能だとわかりました。なぜなら、イエスは全知全能の神だからです。神の知恵に勝ることができる人間は存在しないからです。
追い詰められた彼らに残された道は、偽証する者を立ててイエスを罪に定めることでした。
しかし、このことは律法に違反する行為です。なぜなら十戒に「偽証しておかすはならない」とあるからです。律法を学んで人々に教える彼らが、自分の利益のために律法違反を犯すのです。
しかも、神から遣わされた「メシヤ」を殺そうとやっきになったのです。
人間の罪の恐ろしさを痛感しました。人の罪は心に深く根を張っているので、たとえ律法について知り、それを守るように努力していたとしても、自分の利害に関係する重大な問題が起きたときには、簡単に罪の思いに引っ張られてしまうものだと思わされました。
このことからも、自分の努力で罪を消すことは不可能だとわかります。善行の達人である律法学者たちでさへ、状況が変われば、罪を犯してしまうからです。だからこそ、私たちにはイエスが与えてくださる「義の衣」を着る必要があるのだと思わされました。