教会は一致しなければならない
2:1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
教会は一致しなければならない
パウロが投獄されたことによって、ピリピの教会は、頼りにしていた指導者を失いました。また、パウロが留守であることを利用して、教会のリーダーになろうとする人たちがいました。教会内には派閥争いがありました。
ピリピ地方は迫害が強い地域です。このことは使徒行伝を読めばわかります。
ですから、教会は迫害に耐えて、反対者たちと戦わなければなりません。
教会の内と外に問題を抱えるピリピの教会のことをパウロは心配しています。
このような状況では、彼らが力を合わせて戦うことがさらに必要です。
そこで、パウロは教会が一致して戦うことを求めています。
教会が一致するために、各人に神との親しい交わりがなければならない
神と語り、神から教えられ、神に従っていなければならない
第1に、「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり」とあり、
各人が、キリストによって励まされ、愛され慰めを受けていることが必須です。
第2に、「御霊の交わりがあり」とあります。
御霊による神との親しい交わりを持っているかが重要です。
このことは、神に祈り、神から教えられていることを意味します。
第3に、「愛情とあわれみがあるなら」とあります。
内住する御霊の働きかけによって、ぱうろは、人格に御霊の実を実らせていることの重要性を指摘します。
各信徒が、神との深い交わりによって慰められ教えられているなら、信者の集まりである教会は、必ず一致を保つことができ、心を合わせて霊の戦いを戦うことができるのです。
パウロは他の聖句でも、このことが重要であることを教えています。
ただし、ほんとうにあなたがたがにキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。エペソ4:20-21
真の知識と識別力がいよいよ豊かになり・・義の実に満たされる者になり、神の御栄えが現わされますように。ピリピ1:9-10
ここで信仰の一致は「保つ」と言われていることに注目しましょう。
福音が、キリストや使徒たちによって世に伝えられました。
この福音に留まるなら、信徒は一致できるはずなのです。
福音からはずれるとき、教会は一致を失います。信徒間の不和が生じます。
ですから、教会は、伝えられた福音を曲げることなく、違えることなく保たなければなりません。
そして、次の世代に、福音を引き継がなければなりません。
教会が一致するために、各人が謙遜を身に着けていなければならない
2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分よりも他者を優れた者と思いなさい
虚栄や自己中心の思いを制御しなさい
「自己中心」や「虚栄」の思いが、各人の賜物を合わせて働かせる妨げになります。
しかし、人間の罪の思いに、教会を支配させてはなりません。
「自分の意見を通したい」「自分が活躍したい」「自分の価値を評価されたい」
自己中心と虚栄は、教会を混乱させる2大要素です。
ですから、パウロは自分よりも他者がすぐれていると思って、謙遜になりなさいと言います。しかし、これは生まれながらの人間には難しいことです。
ですから、信徒は大いに御霊の助けを求めて、自分の罪の思いに気づき、それらを制御しなければなりません。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
自分の益だけではなく、他者の益になるためにも働きなさい
自分の幸わせだけを考えるのではなく、他者が幸せになることにも関心を持ち、そのために自分ができることを行いなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
キリストが現わされた謙遜が、私たちの模範である
キリストの謙遜に見習いなさい
「自己中心や虚栄心を捨て、神の前に謙遜になり、他者のために仕える」
このような姿を、私たちはキリストのうちに見ることができます。(5)
キリストは謙遜の生涯を歩まれました。
この世界の創造主であり天におられた神が、罪に汚れた地上に降りて来てくださったのです。(6)
罪を持たないこと以外は、私たちと同じようになられたのです。(7)
キリストは、人々を仕えさせる権威を持っておられたのに低くなられ、人々に仕えました。
それだけではなく、罪人の罪をゆるすために十字架にかかって、ご自分の命を犠牲にされたのです。(8)
私たちは、キリストが現わされた謙遜を模範として歩まなければなりません。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
地上で自分を低くした人が、天で高く上げられる
十字架の死にまで従ったキリストの謙遜を、父なる神は喜ばれました。
神はキリストの謙遜を高く評価し、キリストに最高の権威を与えました。(9)
すべての被造物にキリストの名を誉めたたえさせました。
ですから私たちも神に喜ばれる歩みをするために、謙遜を身につけましょう。(10、11)
各人の歩みに注意しなさい
2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。
キリストは、父なる神に最後まで従順に歩んだ。
このことを覚えて、私が不在である時も、神に喜ばれる歩みをしなさい
キリストは、父なる神に全く従順に歩まれました。
神は、キリストの謙遜な歩みを喜ばれ、キリストを高く上げられました。
このことと同じように、ピリピの信者たちは、パウロがピリピの教会を指導していた時、神に従順であったように、パウロが投獄されて不在である今は、なおさら神に従順であるべきです。
パウロが見ていないから、いい加減にするのではいけません。
自分の歩みを神が見ておられることを忘れてはいけません。
信者は、神から良い報いを受けることができるように、指導者いてもいなくても、正しく歩む努力を止めてはいけません。(12)
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。
聖霊によって示されたことは、たとえ気が進まないことでも行いなさい
神の命令を疑がったり、文句を言って実行しないことになってはいけない
御霊は、あなたに思いを与え、神の計画を行わせます。(13)
ときには、自分に不利なことや、やりたくないことを命じられることもあります。
ちょうど、アナニヤがパウロに洗礼を施すことを命じられたときのようにです。
しかし、神からの命令は、人間のより好みによって、実行されないことが起きてはなりません。
信者は、救いを達成するために、言い換えれば、神に喜ばれる歩みをするために、聖霊によって示されたことは、文句を言わずに行わなければなりません。(14)
2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
今まで書いてきたことを守るなら、あなたは信仰が純粋な者になり、邪悪なこの世に神の光を照らすことができる者になる
神からの指示に従順に従い実行するなら、そのような信仰の歩みをするなら
罪に満ちた邪悪な時代にあって、神に喜ばれる者になります。(15)
神についての真理を保ち、神のことばに従うあなたは、暗闇の世に神の光をもたらす存在です。
つまり、純粋な信仰から生じる生き方によって、神の聖さ、神の正しさをこの世にあかしする「光の子」です。
パウロが不在でも、ピリピの信者たちがこのように歩んでくzwsaxzれるなら、パウロが彼らの信仰のためにした努力は無駄ではなかったと言えます。
キリストがさばきをなさる日に、パウロはピリピの信者たちを誇ることができます。(16)
2:17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
2:18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。
このようにあなたがたが成長してくれるなら、私は満足して死ねる
あなたがたが「みことば」に基礎を置いて、神に喜ばれる歩みをしてくれるならば、私は投獄されたまま死ぬとしても満足です。(17)
あなたがたも私の死を悲しむのではなく、私の働きが実を結んだことを、私と共に喜んでください。(18)
投獄されている私の状況がわかり次第、テモテを遣わす
2:19 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。
ピリピ教会の様子を知るため、パウロの様子を伝えるためにテモテをピリピに送る
早くテモテをピリピの教会に派遣したいと願っています。私のことを祈っているあなたがたに私の状況を知らせたいからです。
また、私もあなたがたの状況を知りたいし、あなた方から励ましを受けたいからです。(19)
2:20 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。
2:21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。
2:22 しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。
2:23 ですから、私のことがどうなるかがわかりしだい、彼を遣わしたいと望んでいます。
2:24 しかし私自身も近いうちに行けることと、主にあって確信しています。
テモテを高く評価するパウロ
彼がピリピを訪問した時は、彼を尊敬して彼の指導に従って欲しい
テモテは信頼ができる弟子です。私と同じほど、あなたがたのことを心配している働き人はテモテ以外にはいません。(20)
彼の立派な働きぶりについて、あなたがたは良く知っています。
彼は、子が父を仕えるように、私を敬って助けてくれています。
また、彼は私と一緒に福音伝道のために奉仕して来ました。(22)
ですから、私がこの先どのようになるかが解かれば、すぐにテモテをピリピへ遣わしたいと願っています。
テモテがあなた方に会ったように、私も近いうちに釈放されてあなたがたに会えるだろうと、主にあって確信しています。(24)
エパフロデトをピリピに送り返す 彼を喜んで迎えてほしい
2:25 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。
パウロを支援するために、ピリピ教会から来たエパフロデト
ピリピの教会がパウロへ物資を届けるために派遣したエパフロデトは、ピリピに返さなければならないと思っています。
彼は私とともに良く戦ってくれました。私は彼を信仰の兄弟であり、同労者であると認めています。
2:26 彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。
2:27 ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。
2:28 そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
2:29 ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。
2:30 なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。
彼は、病気になったことを引け目に思っている
キリストの仕事のために命をかけたためであった
彼を尊敬して迎えてほしい
エパフトデトはピリピの教会を慕っています。(26)しかし、彼はパウロを支援するために派遣されたにもかかわらず、自分が病気になってしまったことを、ピリピの教会に対して申し訳なく思っています。(26)彼は、キリストの仕事をするために命をかけ、そのために病気にかかったのです。
しかし、彼が悲しむだけでなく、私をも悲しむことをがないようにと、神は彼の病気を治してくださいました。(27)
ですから、彼を尊敬して迎え入れてください。(28)
<ピリピ2章 考察と適応>
考察 教会はサタンに対抗するために、一致しなければならない。
教会は、常にサタンの攻撃にさらされており、霊の戦いを戦っています。
ですから、教会が団結することは非常に重要です。
霊の戦いは厳しい戦いです。ですから、教会の霊的な一致は不可欠です。
教会が一致するために、1人1人が御霊により神との深い交わりを持っていることが必要 1節
神からの愛と慰めを豊かに受けるには、信者は、内住する聖霊との深い交わりを持っていなければなりません。
神との交わりとは「聖霊に祈る」「聖霊による聖書の解き明かし」「聖霊の導き」「聖霊による神へのとりなし」等により神との関係の中で生きることです。
教会が一致するためには、信者1人1人が神から教えられて、本当の愛を増し加え、兄弟を神に喜ばれる方法で愛し、戒め、励ますことができるように成長していることが必要です。
教会が一致するために、イエスやパウロが伝えた福音において一致している必要がある 2節
各人が、新生して御霊をいただいているなら、同じ御霊から教えられており、御霊に従順に従っているのでれば、互いが同じ信仰を持ち、キリストの栄光のために心を1つにすることは難しいことではありません。
教会が一致するために、人間的な野心や党派心によって教会が支配されてはならない。
そのためには、信者が御霊に従順に歩み、謙遜の徳を身に着けていなければならない。3節
虚栄や自己中心によって、教会が支配されることが起きます。
このことをサタンは喜びます。教会がサタンに対抗する力を失うからです。
ですから、パウロは、1人1人が「謙遜」を身に着け、他者の益のために仕え、
自分の救いを達成しなさい、つまり神に従順に歩みなさいと命令しています。
しかし、これらのことが、私たちには本当に難しいのです。
私たちは、「自分が一番優れている」と評価されたいのです。
自分の能力を、人々に見せたいのです。人の優れた賜物を、認めることを嫌います。
では、私たちが謙遜を身に着け、他者に仕えることは不可能なのでしょうか。
いいえ、キリスト者には希望があります。
信者の内に「キリストの御霊」が宿しているからです。
キリストは、謙遜の極みをつくされました。
ご自分の願いではなく、神のみこころが成就するために苦しまれ、ご自分をののしる者を救うために命を捨てられました。
信者には、この方が御霊として内住してくださっています。
そうであれば、信者の内に宿る御霊が「キリストの謙遜」を、彼らに啓示してくださらないはずはありません。
御霊は、信者をキリストにならって歩ませてくださいます。
問題なのは、私たちが御霊の勧めに応じないことです。
自分の願いに固執して御霊の思いを退けることです。
私たちは謙遜を身につけましょう。御霊に聞き従いましょう。
御霊が謙遜の道に歩ませてくださいます。
「謙遜の徳」は教会の宝です。これさえあれば、教会の和合は可能だからです。
この世では、自分の利益を勝ち取ることが、勝利への道です。
人々は、他者から奪い取ってまでも、自分のために得ようと必死になっています。
しかし、天国への道はこれとは正反対です。
天国では、自分の利益よりも、神の利益を優先する者がかしこいのです。
そのように地上で働いた者が、天で高く上げられます。
私たちは、この真理を心に刻んで、御霊に従って自分の救いの達成につとめていきましょう。