目次
第1篇16章 神は摂理により世界を統治する
- 神はご自身世界を造っただけではなく、造ったもの全てを個別的摂理によって、
1羽のすずめに至るまで、支え、守り、配慮する。
神は人間に能力と理性を吹き込んだだけで、あとのことは、人間に生来備わる能力にゆだねておられると考えることは愚かである。 - どのような人物も、神のゆるしがない限り、他者を傷つけることはできない。
信仰のない者は、被造物自体の内に自分を傷つける力と能力があると思って恐れる。しかし、被造物の中にある力、働き、動きは人が好き勝ってに引き回すことができるものではなく、神が定めたものでない限り、何1つ襲いかかることができないように、神の配慮のもとに支配されている。 - 偶然と思われることも、全て神によって起こされている。
- くじの決定は主から来る(箴言16;33)
- ダビデが見つけ出された時、ペリして人が侵入して、サウル王は立ち去らざるをえなかった(1サムエル23:26,27)
- キリストの骨は折られなかった
- 人の地位を決定しているのは神。(詩編75:6,7)
- 神は、人間の意志を神の望むままに向けられる。
神は万物の統治者であられる。永遠の昔から全てを決定しておられる。天地、動物などを統治するだけでなく、人間をも統治しておられる。人間の意志を、ご自身が定められた目標に向かわせておられる。
第1篇17章 摂理の教理が益となるために覚えるべきこと
- 物事が起こる原因は隠されている。そのために「神は人をもてあそぶ」などと言われる。
しかし、神の計画は最善であり。その正しさが後に明らかになる。
我々は、神の隠された計画を尊ぶべきである。
神に対して畏れとへりくだりを持って従う者でなければ、神の摂理の教理を正しく理解することはできない。そうでない者たちは摂理の教理に反対する。 - 神は信者を守られる。真に救われた信者を打つことは、神を傷つけることになる。神からの復讐を覚悟しなければならない。
神の個別的摂理は、夜も休まず、信者を守り、信者にとって善と救いになること以外は何も起こらない。
「あなたを撃つ者は私の目の瞳を撃つのである」(詩編55:22)
「わたしはあなたの盾となり、あなたの青銅の城壁となろう」(イザヤ26:2)
「あなたに敵対する者には私が敵対する」「たとえ母が子を忘れても、わたしはあなたを忘れない」 - 人は神の御手の中に置かれている。善人も悪人も神の決定によって、神の良しとされるままに変えられ、神の良しとされる時に抑制される。悪人ですら信者に害を加えることができない。
- 悪人の行動が変えられている例
- アハブが預言者にあざむかれ勝利を確信して戦場に行く(不信仰なアハブを殺す為)
- レハブアムが判断を誤る(イスラエルを分裂させるため)
- アヒトヘルの優れた計画が無に帰した(ダビデの命を守るため)
これらは、主が主の民を守るために悪しき者から守られる証拠である。
- 悪人の行動が変えられている例
- 摂理を知る者は、逆境の時、神を責めたり、のろったりはしない。彼らは、直ちに心を神に向け、神が良い計画を持って逆境を送られたことを信じる。
彼らは、直面している問題、敵対する人間を超えて働いておられる神を認める。そして神が逆境を益と働かせてくださることを信じて忍耐する。- 忍耐した聖徒たち
- ヨセフ 兄弟たちを受け入れ「すべては神の計画であった」と語った。
- ヨブ 家族を殺したカルデア人に復讐することをせず、全ては神がなさったこととして受け入れた。
- ダビデ シムイの言葉に怒らず、「主が彼にのろわせておられるのだから、のろわせておけ」と言った。
- 忍耐した聖徒たち
- 神の摂理を知ることで、信者は順境のときには神に感謝し、逆境の時は忍耐が与えられ、将来については信じられないほどの安心を与えられる。
順境は神がくださった恵みであるから、神に感謝する。逆境は、神が益をもたらすために、送ったものであるから、神が逆境の目的を知らせてくださるまで、また逆境を益に変えられるまで忍耐して待つ。将来については、信者はできる限りの手段と知性を用いて危険を避けるように努力する。しかし、物事の結末を決定することは主であるから、あとは主にゆだねて安息する。 - 神の摂理を知ることの幸いは計り知れない。どの人の人生も禍いと死に常におびやかされている。ところが摂理を知ると、以前の不安と恐怖は消え、心は軽くなる。なぜなら彼らは神に大胆に身をゆだねることができるからである。
- 神は至る所で働いており、その働きは信者の益になる。悪人も神の手の中で抑制されており、神のゆるしがなければ、いや神の命令がなければわざわいを計画することも、実行することも、たとえ実行できたとしても完成することもできない。これは大いなる慰めである。
- 神にとっては強大な大軍も虫けらである。
- イスラエルの全軍の火―「くすぶった燃え木」にたとえられる
- エジプトのパロの大軍―「魚」にたとえられる
第1篇17章 摂理に反すると見られる聖句についての反論
疑問1:神の計画が不動ではなく、ある条件により変更され、廃止される箇所がある。
主は、サウルを王にしたことを悔いた(1サム15:11)
ニネベへの宣告が変えられた(ヨナ3:4,10)
これらの聖句から、神は永遠の決定によって人間のことを決めておられるのではなく、各人の功績や時に応じて、決定を変えておられるのではないか。
- 答え1:神は悔いることがない。計画通りに行かず後悔することはない。この証拠が1サムエル15:29である。
「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」この言葉が、「王に立てたことを悔いる」と語ったサウルに対して語られていることから、神は悔いることのない方。神の計画は変わらず、必ず実現することを示す他の聖句がある。「神は人間のように偽ることなく、人の子のように変心することなく、語ったことを行わずにおくこともできないから、語られたことは成就しないままであることはない」 - 答え2:神は感情の外におられる方。聖書は人間が神を理解しやすいように、人間の感覚を比喩として用いている。神が悔いると書かれているから、神が後悔したと理解するべきではない。神の判定が変わったように見えるが、永遠の摂理によってあらかじめ定められたことが起きたに過ぎない。
- ヨナの預言が取り消された事
主がヨナに厳しい預言を語らせ、彼らを悔い改めさせて、ニネベをさばきから逃れさせるためであった。神は永遠の昔からニネベを滅ぼさないと決めておられた。滅亡の預言は、彼らの滅びを回避するための手段であったと見るべきである。 - アブラムの妻をめとったアビメレクの場合
アビメレクは死ぬと預言された。彼が悔い改めた後、サラをアブラム帰せば生きることができると告げられる。アブラムの選択を正するために、主はアビメレクを脅し、妻をアブラムの元に帰らせた。サラがエジプトの王の妻になることは、主の御心ではない。それではイスラエル民族は生まれない。アブラムの神を畏れたエジプトの王は、彼らを保護し、多くの財宝を与えた。おかげでアブラムは裕福になり、エジプトで飢饉の間、命が守られ、その後イスラエルに戻り、イスラエル民族の父となった。すべては、神の永遠の計画にそって起こった。そして、神はすべての出来事をアブラハムの益とされた。
- ヨナの預言が取り消された事
第1篇18章 主は不敬虔な者に神のさばきを実行させ、しかも彼らの罪をさばく
疑問2:悪人はが神の命令なしには何もできないのなら、悪人に悪をなすように命令し、しかも悪人の罪をさばく神のなさり方をどう理解すれば良いのか。
- 答え1:神は事が行われることをただ許可しているとか、人間の意志に任せているのではない。全ての事は神の命令、決定によって起きている。
- 神が悪人に命じてさばきを行わせている例
- カルデヤ人はヨブの息子達を殺し、財産を奪った。ヨブは、神の御手をこの略奪の中に見た。
- ユダヤ人はイエスを殺した。イエスを殺し、あがないを成就することは神の御心。ユダヤ人らは、はからずも神の救いを完成させた。
- アブシャロムは父ダビデのそばめと寝た。父ダビデに彼の姦淫の罪をさばくため、アブシャロムは用いられた。
- イスラエルを占領したアッシリア王国
預言者により、「神の怒りの杖」、「御手の斧」と呼ばれる。王国の滅亡、神殿の破壊は神の御心、アッスリヤはそれを実行した。 - シムイはダビデをのろった。ダビデは、シムイの言葉に神の御心を認めていた
- 神が悪人に命じてさばきを行わせている例
- 答え2: 摂理は、聖霊に統治されている人(信者)だけでなく、悪しき者らをも強いて服従させる。
- 神が人の心に働き、彼らの思いを向け変えている例
- エジプトの王パロの心をかたくなにした(出エジ4:21)
- カナン人にイスラエルを憎ませた(ヨシュア11:20)
- サウルに悪しき霊を送って悩ませた(1サム16:14)
- 堕落の後、人々を悪しき思いに渡した(ローマ1:28-29)
- 神が人の心に働き、彼らの思いを向け変えている例
- 答え3 : 摂理は、信仰の非常に重要な教理である。摂理を信じないことは、神への冒涜の罪を犯すことになる。
摂理について、「そうは思えない」とか「これは触れないでおこう」と言うことは、神の権威に服従していない証拠である。この教理は非常に重要である。これを信じない者は自分の判断を神の真理よりも正しいとする者であって、聖書に書かれた他の真理についても、疑問を持ち、自分が受け入れやすいように変更したり、信じなかったりするであろう。- 神が理不尽な方法で事を進めておられる例
- エリの息子たちを殺すことが神の御心であったこと
- ヘロデとピラトが協力してイエスを殺したこと
- 異邦人が先に福音を信じ、ユダヤ人は後になったこと
- これらすべては、神のご計画によって起こった。神が、律法に禁じられていること(人を殺す、ある人には寛容でない)をなさるとき、私たちにはその理由が理解できないので神を疑う。しかし、そのような時には、自分の理解の限界を思い起こし、「神のなさり方は間違っている」などと判断しないことである。
- 神が理不尽な方法で事を進めておられる例
- 答え4 : 悪人は、神の命令に従って悪をなし、神のさばきを遂行する。それでも、彼らは自分の罪のさばきを受けて当然である。悪人が神に用いられるが、罪にさだめられる例
- イスラエルの民は、御心の通りヤロブアムに味方し王国を分裂させた。しかし彼らは罪に定められる。王国を分裂させることは、神の命じたことであり、神の計画であったが、それでもダビデの子孫に反抗した彼らは罪に定められて当然である。
- サマリヤの住民は、アハブの子孫を皆殺しにした。これは神の御心であった。しかし彼らは罪の責任を負う。アハブの血統を絶やすことは神の御心であった。しかし自分の主人に反逆したことは、罪に定められる。
- 答え5:同一の行為の中に、人間の罪と神の義の両方が現れる。悪人は、神の御心を実行しつつ、罪を犯す。だから、彼らは罪に定められる。
神の命令によってなされた悪人の行為が、神の御心を遂行する行為であり、同時に自分の罪を増し加える行為となっている
結論
悪人たちは神の命令により実行しているが、彼らは悪を行っており、罪に定められて当然である。
摂理が真理であるなら、殺人、盗み、破廉恥行為すべて過去に起きた事は、神の命令によることになる。彼らは罪の責任を負う必要がないのではないかと主張する人たちがいる。たしかに、彼らは神の義のために用いられた。し悪の責めと責任は悪人にある。神が悪人の働きを用いたとしても、神に罪の責任はないし、悪人の悪事が義と見なされることにはならない。