悔い改めの定義
己の罪を知って審判の恐れにおののき、神の前にひれ伏し、
われわれの生が真実に神に向き変わること。
悔い改めの2つの部分「罪の告白」と「新生」
これは聖霊の働きによってなされる。
- 「罪の告白」=「自己否定」
「自己の本性を罪だと悟り、自己を価値なしと認めること(自己否定)」これは聖霊によってのみ可能になる。
わたしたちは生まれつき神にそむいているのだから、己を否定しなければ神に立ち返ることはできない。
神の義に対する反発の思いを否定しなければ、悔い改めはできない。これは、聖霊がわれわれの心を新しくすることによってのみ可能になる。 - 「新しく生きる」=「新生」
信じた者は、キリストが死んで復活されたように、新しい人となってよみがえる。
自己を頼りとして生きることを止め(自己の死)、聖霊を頼りとして生きる者に生まれ変わる。(復活)
悔い改めから生じる変化
魂そのものが変化し、その人を聖化する。その結果、神に従うこと、神に喜ばれることを、心から望むようになる。
- 魂の変化
「聖霊」が信者に与えられる。つまり、信者の魂に神が宿る。 - 魂の変化の結果として生じる生活の変化
神に立ち帰った生活は、外的な行ないの変化ではなく、魂そのものの変化から生じる行いの変化。
義の努力は、心の変化なしには成功しない。 - 感情の変化
神を愛し、慕う
神への熱意 一生懸命従いたいと思う
自分の罪を認める
神の審判を恐れる
罪を嫌う 審判を恐れるだけでなく、罪自体を嫌う
悔い改めた者に働く神の力。聖霊は信者に働き続け人格を聖める。
これを「聖化」という。
人は、信じてからも罪を犯す。しかし「聖化」を進める神の働きは止むことがない。
- 信者は救われてからも罪を犯す
人間は、むさぼりを止められない。人々はこれを「弱さ」と呼ぶ。罪の思いを実行に移したときに、「罪」になると考える。しかし、われわれは、律法に違反する思いを抱くこと自体が「罪」だとする。だから生きている間は罪が残る。 - 聖化は御霊によってなされるが、人間が神に従うことなしには起きない
御霊は「聖化」のために与えられている。しかし、その成果は人間の神への服従無しには得られない。 - 御霊による聖化は、われわれが自分の悪と弱さに悩まされることを通して成される
- 生涯の聖化は続く。聖化は生涯を通して成され、死によってしか完成されない
- 悔い改めた者の罪は支配を止めている。しかし内に宿る
自分で罪に勝とうとしても失敗する。しかし、神は、聖霊によって、罪に勝利できるようにしてくれた
神は、人を生まれ変わらせることによって、罪の支配が廃止されるようにした。つまり、信者に御霊の力が与えられ、罪との戦いに勝利することができるようにした。 - 罪の自覚が信者をへりくだらせ、聖化を進める(良い効果)
罪の支配はないが、神は私たちに自己の弱さを思い知らせて、神の前に謙遜にさせる。
自力では悔い改めは不可能。聖霊の助けが必要である。
人間の本性は堕落しており、自分から神を求めることができない。悔い改めには、聖霊によって根本的に心が変えられる必要がある。
- 1、人間の本性の堕落(全的堕落)
人間の本性は堕落しており、その欲望は悪である。神にさばかれて当然の状態である。
信者といえども、神の憐れみによって罪責を免れた罪人に過ぎない。 - 人間の部分的に堕落しているのではない、全的に堕落している
人間はなぜ罪を犯すのか?ある人々は、人間は、善であって、一部分が汚れているために、悪をしてしまうのだと考える。だから、その部分さえ矯正すれば、罪を犯さなくなると考える。この考えのもとに、教育や平和のための努力がなされてきた。しかし、その結果はどうだろうか。現代は以前に増して悲惨な犯罪や戦争が横行しているではないか。
だから、事実はそうではないのである。人は、生まれつき本性が腐敗し汚染されているので、真実な行いができず、罪を犯さないではおれないのである。その結果、わたしたちが今見ている世界になっているのである。 - 聖化によって生きている間に完全になれると思うのは間違っている
御霊を受ければ、いっさい罪を犯さなくなるのではない
悔い改めに導く宣教のために知るべきこと、語るべきこと。
Ⅰ 信仰と悔い改めの関係を知る
- 悔い改めは罪の赦しの条件ではない
イエスが人の罪を赦すとき、必ず悔い改めを約束させた。これは悔い主キリストとヨハネとが「悔い改めをせよ。天国が近づいたからである」という形で説教したとき、悔い改めの根拠を、恩寵そのものと、救いの約束とから引き出したのではなかろか。したがって、かれらのことばは、「天国は近づいた。だから悔い改めよ」と言ったのに等しいのである。改めの原因が、神の恩寵であることの暗示である。 - 悔い改めは信仰の恩寵が与えられて後に起こる
悔い改めが信仰から生み出されると言う時、それは、時間の経過を意味しているのではない。信仰により神の民となったことを自覚しない限り、人は真剣に悔い改めることができないという意味である - 悔い改めは御霊による賜物
悔い改めは神のたぐいなき賜物。神は救いに定めた者に御霊を与えて再生させる。神の憐れみによって信仰が与えられることによって「悔い改め」が生じる
<信仰と悔い改めの関係 結論>
信仰から悔い改めが生じる。つまり神の恩寵により信仰が与えられた者が悔い改める。
第1に信仰が与えられる。
神は、ある者に聖霊を注ぐことにより、神を求めさせ、神がわかるようにさせる。つまり、信仰を与える。
その結果、悔い改めが生じる
信仰が与えられ、自己の悲惨を自覚した人が、自ら進んで神に己の罪を告白し、その赦しを願う。つまり、悔い改めが起きる。そして神の約束に従って赦されたと信じる。これが信仰と悔い改めの関係である。
Ⅱ 語るべきことを知る 下記の3つの要素を伝える。
- 自己の悲惨、死後のさばきを伝える
悔い改めが起こるためには、自分のいっさいの思いと感情が邪悪になっていることを知らされなければならない。そして、このままでは死後神にさばかれ、神から完全に離された世界(地獄)で永遠に過ごさなければならない事実を知らせなければならない。 - 2、新しく生まれる必要を促す
天国に入るために、新しく生まれなければならないことを教えなければならない。 - 信仰のみ、価なしで罪が赦されることを伝える
「罪の赦し」を伝えるために、キリストの贖いによって、価なしに義とみなされると教えなければならない。
悔い改めない者についての考察
Ⅰ 悔い改めないのはなぜか?
悔い改めが不可能な人が存在する
神に憐れみを求める者たちが神に拒否されることはがある。それは、彼らが、主に立ち帰ったのに、主が彼らを拒絶されたのではない。彼らが、本当の意味で悔い改めることが不可能であったからだ。
<彼らの特徴>
- 彼らは、嘆くが悔い改めない
問題に直面して、神の助けが去ったことを嘆く。
しかし、魂の救いを哀願しないために、悔い改めに至らない。
例:エサウ 長子権を奪われて悲しんだ。彼は悲しんだだけで、神への真実な立ち返りはなかった。 - 偽の信者、新生していない
「悔い改め」は、神がまず聖霊を与え、新生させることによって起きる。偽の信者のただの苦悶を「立ち帰り」とすることは誤りである。彼らは、神への立ち帰りこそ解決の道であると知りながら、あえて神を信じることを避けているからである。
Ⅱ 偽りの悔い改めが、神の赦しを得ているのはなぜか?
偽善者も、赦されて刑罰を免れている例がある。だが、彼らは地上での一時的な祝福を得たにすぎない。やはり、彼らの魂は永遠の滅びに向かった。 例:アハブとエサウ
- 偽の信者が、裁きの時、言い逃れできなくする為
「偽りの信者」が、悔い改めの様子を示す時、神は彼らの心が誠実でないことを知りながら、彼らを助けておられる。これは、彼らに真の立ち返りを促すため。彼らに、死後受けるさばきについて、言いのがれできなくさせるためである。 - 真の信者に、正しい道を歩もうと心がけさせる為
不敬虔な者らがさばかれず、この世で祝福を得ているのを見て、真の信者は、彼らに用意されている、死後の厳しいさばきを思って身震いする。そして、自分たちは、神の前に正しく歩もうと心がける。 - 真の信者に、神の憐れみを確信させるため
不信仰な者たちの偽の悔い改めですら、神の憐れみを勝ち取り、地上での一時的な祝福を受けている。このことから、真に悔い改める者を、神がいかに寛大に恵みを与えるかがわかる。
Ⅲ 赦されない罪とは何か?
神の真理に対する無知のために、キリストを呪う者は、信じれば赦される。
彼らはもし、知っていれば無礼なことはしない。例:パウロ
しかし、下記の者は赦されない
- 真理だと知りながら、攻撃を加える者
パリサイ人たちに、これらの手合いが多くいた。神からのものであると知っていて、神の教理に反逆した。彼らは聖霊を「ベルゼブル」と呼んだ - 腹をすえて福音を退ける者
聖霊を受けたのでは無く、一時的に信仰によって与えられる恵みを経験した者。しかし、彼らはその後、はっきり腹を据えた不敬虔によって、神の恵みを窒息させた。天からの賜物を味わうことをしりぞけ、神の御言葉を否定した。キリストを否定する者になった。
一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。
彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与 える人たちだからです。土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
ヘブル6章4-8節 - はっきりと福音を否定する者
真理知識を受けたのち、ことさらに罪を犯すものには、もはやいけにえは残されていない(聖書)