- 1 女たちは、週の初め(日曜日)早朝、イエスの墓にやってきた
- 2 見ると、墓の入り口の大きな石がわきへころがしてあった
- 3 女たちに天使が現れた
- 4 天使たちは女たちに「イエスの復活」 「ガリラヤで再会できる」ことを知らせた
- 5 イエスが墓で、マグダラのマリヤに現れた
- 6 弟子たちに伝えに行く女たちにも現れた
- 7 女たちは弟子たちに知らせたが、弟子たちは信じようとしなかった
- 8 エマオへの途上の2人の弟子に現れる 過ぎ越しの祭り第1日目、日曜日の昼から夕方
- 9 弟子たちに現れる 日曜日の夕方 女たちからの報告を受けた後
- 10 トマスを除いた10人の弟子と仲間たち、 エマオから戻った弟子が集まっているところにイエスが現れた おそらく日曜の夜 9時から11時ごろ
- 11 その8日後、トマスも一緒のときに現れる
- 12 湖畔で弟子たちに現れる これで3度目
- 13 弟子たちはガリラヤでイエスに会う
- 14 イエスは山で、彼らに世界宣教を命じられた
- 15 べタニやで、弟子たちの前で、天に昇って行かれた
女たちは、週の初め(日曜日)早朝、イエスの墓にやってきた
週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。ルカ24:1、
16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。マルコ16:1,2 | マタイ28:1/ヨハネ20:1
- 日曜日の早朝、女たちはイエスの墓にやってきた。
安息日が明けるのが朝6時。女たちはこの時刻ごろイエスの墓にやってきた。
早朝、日が昇ったとき(マルコ16:2) / 週の初めの日の明け方(マタイ28:1) /
朝早くまだ暗いうち(ヨハネ20:1) - 彼女たちは、イエスの体に香油を塗りに香油をもってやって来た。
見ると、墓の入り口の大きな石がわきへころがしてあった
見ると、石が墓からわきにころがしてあった。ルカ24:2、マルコ16:4/ヨハネ20:1
- 墓の入り口の石は大きくて重たかった。
墓に行く道で、女たちは石をころがしてくれる人がいればいいがと話し合っていた。
石はそれほど大きく重たかった。
彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。マルコ16:3 - 大きな地震が起こった。天使が石をころがして脇にすわったからだ。
すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。マタイ28:2
すると地震のように大きな音と共に地が揺れ動いた。 - 彼女たちは、石がわきへころがしてあるのを見た。
女たちが墓に行ってみると、石がころがしてあった。 - 女たちは走って行って、シモンペテロと愛する弟子にこのことを知らせた。
ペテロと愛する弟子は墓にやっきた。墓が空であることを確認した。
シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。ヨハネ20:6,7- イエスの体を巻いていた衣は、死体だけがすっぽりと抜けたまま、納められた位置に埋葬したときのままの状態で残されていた。頭に巻かれた布は巻かれたまま置かれていた。
イエスの死体は、復活の瞬間に消えた。
消えるとき、体や頭に巻かれていた布が巻かれたままで同じ位置に残された。
- イエスの体を巻いていた衣は、死体だけがすっぽりと抜けたまま、納められた位置に埋葬したときのままの状態で残されていた。頭に巻かれた布は巻かれたまま置かれていた。
- 弟子たちは復活したとは思わなかった。不思議に思うだけで帰って行った。
そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。ヨハネ20:8-10- 弟子たちはイエスの体が無くなったことを認めた。不思議に思って帰った。
彼らはまだ復活の奥義を理解していなかった。 - 女たちは悲しんだ。
彼女たちは遺体がないので悲しんだ。
イエスの死体を丁重に葬りたかったから。イエスを愛していたから。
- 弟子たちはイエスの体が無くなったことを認めた。不思議に思って帰った。
女たちに天使が現れた
しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見え た。ヨハネ20:11,12
そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。ルカ24:4
それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。マルコ16:5
その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。マタイ28:3 ほかマルコ16:5
- 弟子たちが去った後も、女たちは泣きながら墓のところにとどまっていた。
- そして泣きながら体をかがめて墓の中をのぞき込むと、2人の天使が見えた。
1人はイエスの体の置かれていた場所に、もう1人は頭のところにすわっていた。 - 天使たちは白い衣を着ており、その衣はまぶしく光っていた。顔は雪のように白く輝いていた。
- 天使たちは女たちのところに近づいてきた。
天使たちは女たちに「イエスの復活」
「ガリラヤで再会できる」ことを知らせた
すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あ なたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」マタイ28:5-7
- 天使たちは彼女たちがイエスの体を捜していることを知っていた。
- 天使は、イエスがよみがえらえたことを伝えた。空の墓を指し示した。
あの方はよみがえられました。ここにはお られません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。マルコ16:6、マタイ28:6 - 女たちに、イエスが「死んで3日目によみがえる」と言っていたことを思い出させた。
まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
女たちはイエスのみことばを思い出した。ルカ24:7,8
イエスは預言どおり復活された。だから悲しむことはない。 - 女たちに、弟子たちへの伝言を命じた。
「イエスは復活された」、「ガリラヤでイエスに会える」ことを弟子たちに知らせなさい。
イエスが墓で、マグダラのマリヤに現れた
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運ん だのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼 らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」ヨハネ20:14-17
- 後ろから「誰をさがしているのですか」と声がした。
それで、マリヤは「わたしの主を誰かが取って行った。どこにいったかわからないのです」と言って振り返ると、そこにイエスが立っておられた。マリヤは、はじめ「園の管理人」かと思った。 - その人は「マリア」と声をかけられた。その瞬間、彼女はその方がイエスだとわかった。
彼女は「ラボニ」(ヘブル語で先生)と答えた。 - マリヤはイエスにすがりつこうとしたが、
イエスは「私はまだ天に昇っていないから、さわってはならない」と言われた。 - イエスもマリヤや女たちに、「ガリラヤで会える」ことを伝えなさいと言われた。
弟子たちに伝えに行く女たちにも現れた
そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」マタイ28:8-10
- 天使に会って、イエスがよみがえった知らせを聞いた女たちは、
急いで墓から離れて、大喜びで、弟子たちのところに走って行った。 - 女たちはイエスが復活されたことを信じた。イエスの預言が成就したことがわかった。
- その途中、イエスが彼女たちに出会った。「おはよう」と言われた。
イエスは天使が告げたこととと同じこと彼女たちに告げた。
女たちは弟子たちに知らせたが、弟子たちは信じようとしなかった
そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。ルカ24:9-11
マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。ヨハネ20:18
ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。,マルコ16:11
- 女たちは一部始終を報告したが、弟子たちは彼女たちの証言を信じなかった。
「イエスが復活したこと」「ガリラヤで再び会える」ことを伝えたが、弟子たちは女たちの報告を信用しなかった。 - マグダラのマリアから「イエスに会った」と聞いても信じなかった。
エマオへの途上の2人の弟子に現れる
過ぎ越しの祭り第1日目、日曜日の昼から夕方
ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。ルカ24:13-
その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。マルコ16:12,13
- 復活された日、エマオへ向かう2人の弟子にイエスは現われた。
彼らと一緒に歩きながら、ご自分について聖書から説明された。 - 日も暮れて来たので、その人を夕食に誘った。その人がパンを裂く様子を見てイエスだと気づく。
- イエスだと気がついた瞬間、イエスの姿が消えた。
- おそらく夕方6時ごろではなかったかと思われる。(日が暮れるころ、夕食を食べる時間)
- 2人の弟子は大急ぎで使徒たちのところに行って知らせたが、使徒たちは信じなかった。
弟子たちに現れる 日曜日の夕方
女たちからの報告を受けた後
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言わ れた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」ヨハネ20:19-23
- イエスが復活された日、つまり過ぎ越しの祭りの第1日目(日曜日)の夕方。
- 弟子たちは1つところに集まっていた。
ユダヤ人に襲われることを恐れて、家の戸は全て閉じられていた。 - そこに突然、イエスが現われた。霊の体、物質にさえぎられず移動ができた。
ご自分の手と脇腹の傷を弟子たちに見せた。 - 「平安があるように」 ヨハネ14:27 でイエスが告別の説教で残すと言われた。
イエスのあがないの死によって罪をゆるされ、神と和解させられた者の平安。 - 使徒たちが伝える福音は、必然的に、聞いて信じる人に罪の赦しを得させる。
信じない人の心をかたくなにして救われなくする。
トマスを除いた10人の弟子と仲間たち、
エマオから戻った弟子が集まっているところにイエスが現れた
おそらく日曜の夜 9時から11時ごろ
すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。ルカ24:33-43
- エマオへの途上でイエスに会った弟子たちは、すぐさまエルサレムに戻った。
エマオはエルサレムから11キロ離れたところ。急いでいけば2.5時間ほどで着く。 - おそらく、これは日曜日の夜10時頃の間に起きたのではないか。
エマオでの食事が夕方6時だとすると、それから2.5時間で帰ったとして夜8:30になる。
その後、弟子たちと話し合っていたところにイエスが現われたので、おそらく9時以降であると思われる。あまり遅くなると家に帰るから、夜12時にはなっていなかったのではないかと思う。 - 彼らが帰ってみると、弟子たちも「イエスが自分たちに現われた」と言っていた。
彼らもエマオの途上でイエスに会ったいきさつを弟子たちに話した。
しかし、弟子たちには信じられなかった。そうこうしているうちに・・・ - イエスが彼らの真ん中に立たれた。
- イエスは彼らの不信仰を戒めた。
- ご自分に体がある証拠を見せた。そして弟子たちの前で魚を食べた。
その8日後、トマスも一緒のときに現れる
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また 私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、 信じる者になりなさい。」 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」ヨハネ20:24-29
- 日曜日、過ぎ越しの日の第一目に、弟子たちにイエスが現われたとき「トマス」はいなかった。
- トマスは「イエスの手の傷の穴に手を差し入れ、わき腹の傷も同じようにして確かめなければ決して信じない」と言い張った。
- イエスが初めて現れた日の日曜日から8日後に、もう一度イエスは彼らに現れた。
そのときとが戸が閉められてあったがイエスはお入りになられた。
(新しい体は物体を通り抜けることができる。3次元より上の世界で住むことができる体) - そしてトマスにご自身の傷を見せられた。
- トマスはイエスを神だと告白した。「私の主、私の神」
- イエスは「あなたはわたしを見たから信じたのか、見ないで信じる者は幸いだ」と言われた。
湖畔で弟子たちに現れる これで3度目
この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。・・・ イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。ヨハネ21:1-
- 弟子たちがテベリヤの湖畔で漁をしていたとき、イエスは彼らに現れた。
- これで、3度目だった。
- イエスは弟子たちのために、魚を焼いて朝食を用意してくださった。
- イエスはペテロに3度「あなたは私を愛するか」と質問された。
- ペテロは、自分の弱さを知った上で、あなたを愛することはあなたがご存じです」と答えた。
- そのペテロに、イエスは神の羊(イエスを信じる者たちの群れ)を養う務めを与えた。
弟子たちはガリラヤでイエスに会う
しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。マタイ28:16,17
- 11弟子たちはガリラヤに行って、イエスが示された山に登った。
- 弟子たちだけではなく、信者たちが大勢いたと思われる。
パウロが「500人以上の弟子たちに同時に現れた」と言ったのはこの時のことかもしれない。 - 彼らはイエスに会って、イエスを拝んだ。マタイ28:17
- 中には、疑う者もいた。
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。マタイ28:17
この人が本当にイエスか。イエスの代わりに演じている人ではないのかと疑う者もいた。
イエスの顔を良く知らない人であればこのように思ったとしても当然である。
イエスは山で、彼らに世界宣教を命じられた
さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。
わたしについてモーセの律法と預言 者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」ルカ24:44
- 私についてモーセや預言者たちが預言したことは、全て成就した。
旧約聖書かかれたイエス(メシヤ)についての預言はすべて成就した。
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。ルカ24:45-48
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。マルコ16,15,16
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいま す。」マタイ28:18-20
- イエスは彼らの心を開いて、聖書を悟ることができるようにした。
- ご自身の死と復活がメシアについて預言されていたことを弟子たちに教えた。
ご自身がメシヤであることを証明された。 - 「イエスの名による罪の赦しをさせる悔い改め」を述べ伝えなさい。
イエスの名にすがって悔い改めるなら、罪の赦しが与えられ、永遠の命、天国が保証されることを伝えなさい。 - 信じる者は救われる。信じない者は罪定められる。
- あなたがたは、私の生涯と死、復活の証人です。証人=目撃者
- 全世界に出て行って福音を述べ伝えなさい。
- ユダヤ人だけではなく、あらゆる国の人に述べ伝えなさい。
あらゆる国の人を弟子としなさい。 - 信じた者にバプテスマをさずけなさい。
- イエスが弟子たちに守るように命じていた全てのことを、彼らが守るように教えなさい。
- ユダヤ人だけではなく、あらゆる国の人に述べ伝えなさい。
さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカ24:49 | マタイ24:49
- 私はあなたが方に以前から約束していたもの「助け主なる」を送ります。
- あなたがたはエルサレムにとどまって、聖霊が降るときを待ちなさい。
- 聖霊が与えられるまでは宣教してはいけない。力が与えられてから述べ伝えなさい。
べタニやで、弟子たちの前で、天に昇って行かれた
それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。ルカ24:50,51 | マルコ16:19/マタイ24:50,51
彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。ル24:52,53 |マタイ24:52,53
- イエスは40日40夜、弟子たちに現れて教えらられた(使徒1章)
その後、弟子たちをベタニヤまで連れて行った。
(ベタニヤやエルサレムから2マイル 約3.2キロ離れたところ) - そこで、イエスは弟子たちを祝福した。
- 彼らが見ている前で、彼らを祝福しながら天にのぼっていかれた。
- 弟子たちは、大喜びでエルサレムに戻った。
そして、は聖霊が下るのを待った。それまで主の宮で神をほめたたえていた。
考察1 イエスの復活は本当に起きた事実。信じていない人にも関わる重要な出来事。私たちは、この事実に向き合い、生き方を問い直す必要がある。
イエスの復活を、誰も期待していないなかった。
イエスの復活を「作り話だ」とか、人々の希望が生み出した「物語だ」と言う人々がいます。
しかし、今日学んだ聖句から、イエスの復活は実際に起きた事実だということがよくわかります。
使徒たちはイエスの復活を期待すらしていませんでした。彼らはイエスに会ったという女たちの知らせを聞いも信じられなかったのです。女たちも同様です。彼女たちは安息日が明けてすぐイエスの死体に香油を塗るためにやってきました。死体がそこいあると思っていたのに無くなっていたから悲しんだのです。
彼女たちは天使のお告げを聞き、復活のイエスに会ってはじめて、イエスがよみがえられたことを知ったのです。
弟子たちは恐れて戸を閉じて集まっていた。彼らにイエスの死体を盗む勇気はなかった。
また、弟子たちが死体を盗んで「復活した」とウソをついたのでもありません。
イエスが捕らえられたとき弟子たちは全員逃げました。
十字架につけられたときも、近くにはいませんでした。イエスの近くにいたのは女たちでした。
そして、イエスが復活された日、彼らはユダヤ人たちを恐れて家の戸を閉じて集まっていたのです。
このように臆病な彼らが、墓を守っている番兵と戦って、イエスの死体を盗むでしょうか。
イエスは生きていたとき「自分は死んで3日目によみがえる」と弟子たちに教えらえました。
ところが、弟子たちはこのことばの意味を全く理解していませんでした。
信じられない復活の事実を見せつけられて、はじめて弟子たちの目は開かれたのでした。
ですから復活は事実です。復活を目撃しなかったら、使徒たちが復活を信じることはなかったからです。
イエスの復活は、この世に生かされている全ての人に関わる重要なメッセージ。
1人1人が、この事実と真剣に向き合う必要がある。
神は、イエスの復活を通して、私たちに重要なメッセージを残されました。
神が、私たちに、ご自身が存在する証拠を示されたからです。
このことは、当時の弟子たち、兄弟たちだけに関わる問題ではありません。
この地上に生を受けた全ての人に関係する重要な問題でもあるからです。
なぜなら、イエスを信じようと信じまいと、私たちは神に生かされている存在だからです。
わたしたちは自分に深く関わりのある出来事として、イエスの復活と向き合い、自分の人生の意味や目的を問い直す必要があるのです。
考察2 イエスの御名によるバプテスマは、人を神との交わりに加えて一体とする。
ヨハネは、ヨルダン川で「悔い改めのバプテスマ」を人々にさずけました。
ヨハネは、律法を持つことを誇りにして、自分たちは正しく行っているので天国に行けると思っていたユダヤ人たちに、彼らの偽善を示し、彼らの不正を指摘しました。
そして罪の自覚を持つこと、その罪を悔い改める必要を教えました。
自分の罪を認めた人は「悔い改めの証拠として」、ヨハネから水のバプテスマを受けました。
ですから、ヨハネのバプテスマは「自分は律法を守れない罪びとである」「律法では自分の罪は完全に赦されない」ことを告白する儀式といえます。
ヨハネのバプテスマは人の理性や良心の領域で、人々の行いを変える効果はあります。しかし人の心まで効力を発揮することはありません。そのため、罪を繰り返しては悔い改めることになります。
ヨハネのバプテスによって救いを得ることはできません。
ヨハネのバプテスマは、律法を守ることによる救いが不可能であることを知って、イエスへの信仰による「完全な救い」を求めさせる心を準備するためのバプテスマだからです。
イエスは昇天されて後、信者に聖霊のバプテスマをさずけました。
これは、ヨハネのバプテスマとは次元が違う神との結合です。
イエスの御名によるバプテスマは、ヨハネのバプテスマとは違います。
このことをローマ書でパウロは次のように説明しています。
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。ローマ6:3
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられ たように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。ローマ6:4
<キリスト・イエスにつくバプテスマ(新改訳)とは何か。>
Baptized into Christ Jesus(NIV、NASBほか)
キリスト・イエスに結ばれるための洗礼(新共同訳)
ギリシャ語のバプテスマは、「水に浸す」「浸して清める」「洗う」という意味。
そこから「水に浸しこんで洗礼を施す」の意味にもとられている。
ここで使われている「バプテスマ」は不定過去・受動態・複数形。
神によって「キリストの中に浸される」という経験を与えられた。(自分で起こしたのではない)
その結果、「キリストの支配の中で歩む新しい生き方が始まった」という意味です。
「あなたがた」と言われているように、1人ではなく複数の人たちが体験したことを証言しています。
キリストにつくバプテスマとはキリストの支配の中に、キリストの支配の外から入れられること。
(ギリシャ語では中へという前置詞が使われている。into=外から中へ 動きを現わす前置詞)
キリストの中に完全に浸された結果、キリストの圧倒的な力により覆われたことを意味します。
つまり、キリストと一体となった。キリストの体の肢体となったという意味です。
これは、性質において神と一体となったのではありません。神に覆われ、支配され、神の命令に従う器官、神の手足、神に用いられる道具となったという意味です。そして、神と私たちは一体となり、切り離せない者同士となったという意味です。この奥義は偉大です。このようにされた者が、どうして罪を犯し続けることがあるでしょうか? 絶対にありえません。
ヨハネのバプテスマによる信仰告白は、罪を告白しつつ、理性や良心を精一杯働かせて聖くなろうとする生き方にとどまります。ですから、失敗を繰り返しては悔い改めてまたがんばるしんどい生き方です。
そして、どんなにがんばっても自分が神に喜ばれているのか確信がもてません。
イエスが与える聖霊のバプテスマを受けた信仰は、神と深く結び合わされた結果として、自然と善行が生じる生き方になります。その人は、神との平和を持っています。神の民とされたことの確信が根底にあって、神への奉仕を喜んですることができます。失敗することはあっても、悔い改めますが、神との関係が揺らぐことはありません。そして、この神との交わりは肉体の死によっても途絶えることなく永遠に続くと聖書は語っています。
これはなんと素晴らしいことでしょうか。この恵みを1人でも多くの人が体験されることを祈ります。
考察3 信じた後も、真理を教え続けることの大切さ。
イエスは、「信じた者に私の命令を守るように教えなさい」と言われた。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。マタイ28:18-20
イエスは信じた人を「教え続けなさい」と命じられた。
イエスは、天に昇られる直前に、全世界に福音を述べ伝えることを命じられました。
そして、信じた人々にバプテスマを授けること、彼らを教えることを命じられました。
ここで使われている「教える」は、ギリシャ語でディダスコンテです。 現在分詞で、「継続して教える」ことを意味します。つまり、信じたら完了ではなく、信じた後も彼らに神の真理を教え続けて、霊的に養い、成長させなければならないということです。
イエスの教えを「知る」だけではなく、「実践できるように」教えなさいと言われた。
そして、信者たちがイエスのおしえを知るだけではなく、それを守るように指導しなさい。
イエスの教えが彼らの生活で実践されるようにしなさいと言われました。
(私があなたがたに命じておいたことを守るように)
これは本当だと思います。私たちは、たとえ信じて洗礼を受けても、放っておくと、どんどんこの世の価値観に傾いていくからです。神の真理は、この世で正しいと言われることと、一致しないことがあるからです。
正しい真理が教えられなければならい。そのため教師と信徒は努力する必要がある。
私たちは、常に、神の真理を教えられ、世的になる考えや生き方を修正していく必要があります。
そのためには、教えられる真理が、純粋で、神の目に正しいものでなければなりません。
ですから、牧師や教師の責任は大きいと言えます。また信徒1人1人も、自分のために、また教会の霊性を正しく保つために、自ら学んで真理を探究する責任があります。
考察4 イエスの復活以降の宣教の特徴
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいま す。」マタイ28:18-20
証人たちに宣教の使命が与えられた。主を知り、主を体験した者だけに宣教の使命が与えらえる。
宣教する人の条件は、主の証人であることです。イエスは述べ伝えなさいと言われる前に弟子たちに「あなたがたはこれれのことの証人です」と言われました。
使徒たちは、イエスと行動を共にし、イエスから教えられ、イエスの死と復活を目撃しました。
まさに、彼らはイエスについての証人でした。
知識があるだけでは不十分。聖霊を受けた者だけが宣教をする資格がある。
イエスは弟子たちに「あなた方はこれらのことの証人です」といわれました。
しかしすぐに宣教せよとは言わず「聖霊が降るまでエルサレムで待て」といわれました。
宣教は、聖霊を受けたことによって、必然的に起こる事実です。
ですから、イエスについての証人でない人、イエスを本当の意味で知らない人、イエスを個人的に体験していない人は、宣教する資格がありません。たとえイエスについて多くの知識を持っていたとしても、聖霊を宿さない人は宣教する資格がありません。神のことばは、聖霊の照明によって、はじめて本当の意味を理解することができるものだからです。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊 のことは御霊によってわきまえるものだからです。第1コリント2:14
世界宣教、異邦人伝道は、聖霊の力づけなしにはできない。
イエスが生きておられたとき、宣教は「イスラエルの滅びた羊」に限られていました。ユダヤ人だけに宣教がなされました。しかし、復活したイエスは弟子たちに「世界中に出ていきあらゆる国の人々を弟子としなさい」と世界宣教を命じられました。
キリストの福音を異教徒(他の神々を拝む人たち)に述べ伝えることは、困難や迫害に会うことです。
時には命を危険にさらすことになります。事実使徒たちのうち10人は宣教のために殺されています。
そのような力、忍耐はどこから来るのでしょうか。人間の決心、努力では到底耐えられるものではありません。
聖霊の力による伝道
弟子たちは、聖霊によって力づけられ、非常な困難の中にありながら福音を述べ伝えました。
パウロもこのことをこう告白しています。
あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。第1コリント2:3,4
イエスは弟子たちに約束されていました。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。マタイ28:20
常にある「エゴ・エイミー」なる方が共にいてくださる。その臨在と力づけにより、弟子たちは伝道しました。そして主は「励ましのことば」だけではなく、実際に彼らの宣教を助けられたのでした。