キリスト教綱要3篇18章「報いは行いによらず、恵みにより与えられる」

18章1:ローマ8:30 「行いに従って報いが与えられる」とは

  1. 聖書の中に「行いに応じて報いを受ける」と言われている個所が多くある。これらは、報いが人間の功績に由来すると言っているのではない。神が人に報いを与える順序を示した聖句である。
    神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。ローマ2:6なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。2コリント5:10喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。マタイ5:12
    これらの聖句は、報いの原因が人であると言っているのではない。神が人に報いを与える順序を教えた聖句である。信者の良き行いは、神が救い、義とした結果生じたものである。良き行いは、神がご自分のみわざを完成するために、ご自身が定めた順序に従って、信者に行わせているものである。 

    神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。ローマ8:30

  2. 信者自身が良い行いが報いを決めるのではない。信じたときに、信者の内に始まった聖霊の働きが、信者に善を行わせておられるのだ。その働きは信者の完成の日まで止むことはない。
    人は、福音を知り、聖霊をいただいてキリスト者となる。そのとき同時に彼らの内に永遠の神の働きがはじまる。この働きは、イエスの日までに完成せずにはおかない。彼らの完成は、彼らが聖められ天の父の姿を現わすことである。

報いは働きの報酬ではなく、約束の相続人とされたので与えられる

  1. 天国は、神の子とされた者が受け接ぐものである。そのほかの条件はいっさいない。
    もちろん行ないによるのでもない。
    神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、エペソ1:18(報いは受け継ぐものと言われている)
  2. キリストもパウロも、報いは相続によると必ず付け加えている。
    キリストもパウロも「行いに励んで報いを得るように勧めるとき、その後で、この報いは相続によって与えられると付け加えている。
    『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。マタイ25:34
    あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。コロサイ3:24
  3. アブラハムへの約束は、彼が従順を示す前に与えられた。後になって彼は神への従順を示したが、それは彼の功績ではなく、神が彼を聖化した結果であった。アブラハムは神の憐みのゆえに約束されたものを受けた。
    アブラハムへの約束と、彼の従順な行ないから祝福が与えられる方法を考える。アグラハムが従順を示したから、彼は祝福を約束されたのか。それはちがう。彼はまだ何もしらない不従順な時に約束を受けた。神は、憐みのゆえに彼に与えた約束を成就したのである。創世記22:3-17

報いは恵みとして与えられる ブドウ園の農夫のたとえから

  1. 主が朝から雇われた者と、夕方に雇われた者に同じ賃金を渡したことは、神の報いが働きの報酬としてではなく、神が与える恵みとして与えられることを証明している。
    主が語られた「ブドウ園で働く農夫への賃金」のたとえは、私たちに天国での報いは、私たちの働きの報酬として与えらえるものではないこと。それは、神の恵みによって与えらえるプレゼントだということを解らせるためであった。

私たちの弱さを支えるため報いへの期待がゆるされている

  1. 私たちは神の訓練を受けて、意気消沈する。
    神は信者を訓練する。それは彼らがこの世のはかなさを経験し、絶望しかないことを知り、天国での幸福にあこがれさせるためである。
  2. 信者の善き行ないに対する報いは、意気消沈しやすいわれわれの弱さを補うためである。
    私たちの地上での苦しみを耐えやすいものにするために、神は私たちに対して報いを約束するのである。

アウグスチヌス証言

  1. 行いは誇ることは赦されない。
    私たちの行いは汚されていて、神の目には聖くないことを覚えていなければならない。
  2. 信仰による人こそ神に喜ばれる
    自分の良い行いをもって神の前に出る人ではなく、正しく行えない自分を恥じて、神に助けを求める人こそ、神に喜ばれる人である。

愛は信仰にまさるものではない

  1. 「愛が一番すぐれている。だから、愛によって義とされるのだ。」と主張する人たちがいる。
  2. 「たしかに賜物の中で愛が一番すぐれている。しかし完全に愛を実行できなければ義を得ることはできない。だから人間は愛によって義を得る望みはない。

マタイ19:17のイエスと律法学者の問答から

  1. 行ないによって義は得られない。キリストを信じて義を得るしか道はない。
    律法学者が「救いを得ることができる行いとは何か」と尋ねたとき、イエスが「もしあなたが命に入りたければ、戒めを守れ」と言われたのは、行いの義を確信する彼らを、神の裁きに引き渡したのだ。彼らが天において、律法によって裁かれ、律法を守ることによって義は得られないことを思い知るためであった。

    すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」マタイ19:16,17

 

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今から約2000年前、キリストは預言されていた通り、死んで3日後に復活し、ご自身が神であることを証明されました。神がおられるのですから、その方を無視して生きることは、神があなたを造られた目的を知らずに生きることを意味します。どうか、神を知り、神に生かされる確かな人生を歩んでください。そのために、聖書を学び、神について、自分について、知ることを始めませんか?