「キリスト者は確信を持って偶像の習慣を退けることができる。生活について信仰の確信にもとづいて行う。/ パウロは、律法の生活習慣を守る信者を受け入れるように指導したが、「何でも食べていい」確信があった。そして同じ確信を持つ信者を励ました。」ローマ人への手紙14章

<ローマ人への手紙14章 概要>

 初代教会は、ユダヤ教からキリスト教へ改宗するという、前例がない事態が起こったため、食事の仕方や日を守る(安息日や祭礼)について、信徒の間で意見の相違がありました。そこでパウロは、この問題を解決するために教会を指導しました。

<ローマ人への手紙14章 解釈>

Ⅰ 律法が定めた生活の規則を止めることができない、
「信仰の弱いユダヤ人改宗者」をさばかないように

Ⅰ―1信仰が弱い人とは誰か。
キリスト者になった後も、律法が定める生活の規定を守り続ける人。
それらに違反することを恐れる人。
14:1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

 ユダヤ人の改宗者の中で、キリストを信じた後も、ユダヤ教が定めているさまざまな生活の規定に違反することを恐れる人たちがいました。彼らはキリスト者となった後も、律法が定める汚れた肉を食べず、安息日を守っていました。

Ⅰ―2律法が定めた生活の規定。
<食べ物に関する規定>

  1. 偶像に備えられた肉は食べない。(当時、売られている肉に、偶像に備えた肉が混ぜ合わされて売られていたので、肉を食べずに野菜のみを食べる人がいた)
  2. 蹄(ひづめ)が2つに分かれて反芻(はんすう)する動物以外は食べない。
    (牛、羊、ヤギ、シカ、鶏OK 豚、一部の鳥はダメ)
  3. うろことひれの無い魚は食べない。(ウナギ、貝類、イカ、タコ、エビ、かきなど)
  4. 血が含まれるものは食べない。 肉は完全に血抜きしたものしか食べない。
  5. 料理法が律法違反のものは食べない。牛肉と牛乳、魚と肉を一緒に煮るのは禁止。

ユダヤの律法には、食べ物に関するさまざまな決まり事がありました。

<日に関する規定>

  1. 安息日を守る  土曜日は、仕事はもちろん家事など全ての活動はしない。移動していい距離、歩いて良い歩数まで決まりがある。
  2. 祭礼を守り行う 1年を通してさまざまな記念日を祝う。
  3. プリムの祭り、仮庵の祭り、過ぎ越しの祭りほか。
  4. ヨベルの年   60年に一度すべての不債を帳消しにする。
  5. 口伝律法    生活上で守るべきさまざまな決まり事

Ⅰ―3初代教会には多くのユダ人改宗者が集っていた。
律法の定めに従って食事をする者とそうでない者が、さばき合っていた。

初代教会には、キリストを信じたユダヤ人たちが大勢いました。
そのため、律法が定める食や日の規定を守り続ける信者と、キリストへの信仰によって律法の規定を否定できる人に分かれました。そして、律法を守って食事をする人たちは、何でも食べるクリスチャンたちを見下してばかにし(侮る、あなどる)、食べる人たちもまた、食べない人たちの信仰の弱さを責めていました。

Ⅰ―4クリスチャンは食事のことで仲たがいしてはならない。
何でも食べられる「信仰の強い人」は、食べられない「信仰の弱い人」をそのままにしておきなさい。
14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

初代教会の時代は、ユダヤ人が初めてキリスト者となった特別な期間
初代教会の時代は、熱心なユダヤ教徒だった人たちの中から、はじめてキリスト者になった人が起こされた特別な期間と言えます。ですから、教会にこのような混乱は起こって当然です。

パウロは、この時期のユダヤ教からの改宗者に対して指導したことは、食べられない人をそのままにしておくこと、お互いを批判しないように指導した。
パウロは、この特殊な期間の対処法として、信仰の強い人たちは、律法の規定を守る信仰の弱い人たちの振る舞いを責めず、そのままにしておくようにと指導しました。

その理由として、律法を守る人も、律法から自由になる人も、両方ともキリストを主と仰ぎ、主に感謝して行っているからだとパウロは言っています。

このように指導することで、信仰の核心ではない事がらに関する意見の違いで、クリスチャンが分裂することを避けた。
食事のことでクリスチャンがさばき合ってはならない。
信仰の核心に関わらないことでクリスチャンが分裂してはいけないのです。

食べる人も食べない人も、主の血が注がれ、主が愛しておられる人だからです。パウロは、互いの信仰の確信に基づいて食事をするように指導しました。
そして、互いの違いをさばくことがないようにと注意しました。

これは初代のユダヤ人教会に対する対応であって、
本来の教会のあり方ではないことを知っておく必要がある。
しかしパウロは、律法から解放されない人の信仰を「弱い」と表現しており、決して「それでいい」とは認めていません。本来ならばキリスト者は、律法から完全に自由になることができるからです。この認識の上で、彼らの弱さを受け入れて共に礼拝するように勧めました。このことを私たちは誤解してはいけません。

Ⅱ 生活について主の御心を祈り「信仰の確信」にもとづいて行いなさい

Ⅱ―1各人が信仰の確信が持てる方法で食事をするように。
ただし、自分と違うやり方を非難してはならない。
14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないの であって、神に感謝しているのです。

ユダヤ教が定めた生活の規定をどうするのかについては、各人が自分の信仰の確信が持てる方法を採用しなさい。(初代教会のユダヤ人に対する指導)
「ある日」とは安息日のことではないでしょうか。ユダヤ人は安息日を特別な日として、いっさいの活動を止めていました。またユダヤ人には、食べてはいけない肉がありました。食べてもいい肉であっても汚れているかもしれないとパウロは、それぞれが信仰の確信が持てる方法で食事をしなさいと指導しました。

これは、今の時代のユダヤ人や異邦人の改宗者に採用できることではない。
しかしこのことは、初代教会の時代のことで、しかもユダ人改宗者たちに対する指導であることを忘れてはいけません。パウロがこのように指導したから、私たちも異教の生活習慣を続けていいのではありません。ユダヤ人でクリスチャンなった人は、ユダヤ教の生活習慣を続けていい訳はありません。

Ⅱー2主のために生きることがクリスチャンの生き方。律法が定める生活の決まりをどのように行うかは、主の御心にかなう方法を祈って実行しなさい。
14:7
私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

クリスチャンは、主イエスのために生きる人です。
私たちは、いっさいのことを自分のためではなく主の栄光のために行います。

新約時代に救われたクリスチャンの礼拝の一番の対象はイエス・キリストです。

ですから私たちは、日について食事についてどのようにすれば、主イエスに栄光を帰すことができるのか、主イエスがたたえらえることになるかを祈り求めることで、答えが出るのではありませんか。イエスの栄光のために生きることがクリスチャンの正しい生き方です。このことについて、ユダヤ人と異邦人の区別はありません。

Ⅱー3兄弟をさばかないだけでなく(消極的対応)
信仰の弱い人のつまずきとなる物を兄弟の前に置かないように決心しなさい。(積極的対応)

14:13
ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。
お互いにさばき合うことがないように。これは消極的な対応です。

また、積極的な滞欧は、信仰の弱い人たちが汚れていると考える食べ物を彼らの前に出さないこと。また、何でも食べられる人は、彼らの前で彼らが食べられない肉を食べないこと。このようにして食べられない人の信仰の良心を汚さない配慮をすることです。

Ⅱー4パウロは何でも食べられると確信していた。
それ自体で汚れている食べ物はない。しかし信仰の弱い人に配慮せよ。

14:14
主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。

食べるべきかどうかは、個人の信仰によって決まります。
パウロは何でも食べられると確信していますが、キリスト者となった後も、律法の規定に反することを恐れる人にとっては、汚れた食べ物であって、キリスト者になった後も食べることができないのです。

14:15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。
14:16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。

信仰が強い人が何でも食べるのを見て、食べられない人が信仰につまづいたり、兄弟間に不和が生じてはいけません。だからお互いが愛をもって行う必要があります。これが、キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことで、滅ぼさないという意味です。

食べられる人は、自分が良いとしている食事の仕方を、食べられない人から批判されないようにする配慮が必要です。このようにすることで、信仰の弱いユダヤ人クリスチャンと、もっと大切なことに心を用いることができるようになります。

Ⅱー5食事について兄弟の信仰に配慮することは、
教会が本来の使命を果たすことを前進させる。
14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

 信仰の本質は義と平和と聖霊による喜びです。
義とは、キリスト者の生活に具体的に現れてくる神の義、つまり神との正しい関係、また他者との正しい関係です。
平和とは、神との平和の関係、また他者との平和な関係。
聖霊による喜びとは、聖霊の内住から来る心の喜び、兄弟姉妹の交わり、互いの霊的成長を助けることなどです。

教会は、これらのことを追求し味わうところです。
食事のことで、教会の本来の目的がさまたげられるようなことがあってはなりません。


Ⅱー6信仰の弱い兄弟の前では食べないが、「食べていい」という確信は保っておきなさい。
14:20 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。
14:21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。
14:22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。

 食べてはいけないと思っている人の前では、肉はたべず、ぶどう酒を飲まず、兄弟につまずきを与えないように配慮することは良いことです。
しかし、あなたが持っている、何でも食べていいという信仰の確信は保っていなさい。パウロもこのように確信していました。22節

Ⅱー7信仰の確信がないなら無理に食べるな。食べるなら罪になる。信仰の確信があるなら食べても良い。それは罪に定められない。
14:23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

信仰の弱い信者は、汚れていると思うなら、そのような肉を無理に食べるなとパウロは言っています。信仰の確信によらないことはみな罪だからです。
ですから、信仰の確信があるなら、律法で汚れているとされる肉を食べても罪ではありません。

 

<ローマ人への手紙14章 考察>

考察1 キリスト者は、他の宗教が定める生活の規則から完全に自由。それらを守らなくても「神ののろい」を恐れる必要はない。

使徒パウロは、律法の規定を破って「何でも食べていい」と確信していました。そして「信仰の強いクリスチャンたち」に、自分たちの確信をしっかりと保つようにと励ましました。

仏教や神道にも守るべき生活の規定があります。仏教であれば、仏壇や墓の世話、お盆の行事。神道では厄年、人生の転機に祈祷してもらう、七五三参りなどです。
クリスチャンはこれらのことをしないから、家で不幸が起きるとクリスチャンがいるせいだと言われます。これは大変な誤解です。

未信者は、いまだ神の怒りの下にあります。
ですから不幸が起きると、神の怒りをなだめるために、仏壇や墓を掃除したり、お参りに行ったりして、偶像礼拝にさらに熱心になります。

しかしクリスチャンは、キリストのゆえに、神と完全に和解しています。
クリスチャンにとって神は「アバ父」と呼ぶ親しいお父さんです。
クリスチャンが偶像を大事にしないから、神が怒っているのではなく、彼らが主を信じないから、神は怒っておられるのです。ですから、このことを覚えて、未信者たちの「おびやかし」を恐れないことです。

考察2 パウロが、律法の規則を守って生活する「信仰の弱い人」を受け入れたことを、信じても異教の習慣から離れられない人には適応できない。

 考察2-1キリスト者になれば、ユダヤ人も異邦人も、救われる前の宗教的な生活習慣を止めるべき。

「信仰の弱い人」というのは、異邦人ではありません。
異邦人はキリストを信じたら、他の宗教のならわしに従い続けてはいけません。

ユダヤ人であっても同様です。
ユダヤ人は特別であると考える人がいます。ユダヤ教の儀式や生活の決まりは、天地創造の神が与えたものでしたし、イエスもユダヤ人だったからです。しかし、だからといってクリスチャンになってからもユダヤ教の儀式や生活習慣を守ってもいい訳ではありません。

その証拠に、ユダヤ人で信者になったパウロはそのことを否定しています。彼はどの肉を食べてもいいと確信していました。そして異邦人と共に食事をしました。異邦人の食卓から離れるペテロを責めました。

ユダヤ人と異邦人の区別なく、全ての信者は、聖霊によって新しい人とされており、その国籍はただ1つ、天国になっています。ですから、イエスラエル王国時代の人を縛っていた古い習慣に戻ってはいけません。
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。第2コリント5章17節

もはや律法を守るユダヤ人の誇りは取り除かれました。ユダヤ人も異邦人も、信仰によって神に義とされ、平等に神に愛される子となっているからです。
3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そ うではなく、信仰の原理によってです。ローマ3章26,27節

考察2-2このときのパウロの指導は、私たちには適応できない。

パウロが「信仰の弱い人」を受け入れたことを誤って適応してはいけません。
パウロの指導は、初代教会のある時期、それもユダヤ人信者に対する配慮であって、私たちには適応できないからです。

もし、今の私たちに、そのままを適応するなら、信者になってからも、異教と関わり続けることをゆるすことになります。これは主が禁止していることです。

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
私のほかに神があってはならない。出エジプト20章3節

ですから、初代教会のユダヤ人たちを指導したパウロの方法は、私たちには適応できません。私たちは、キリストを信じたら偶像との関わりをいっさい絶つべきです。偶像の行事に参加する、寄付をする、寺や神社の奉仕をすることは、できないことです。それでも、近所のつきあいでしなければならないという人もおられますが、そのような信仰を神は禁止しておられることは上記の聖句から明らかです。

考察2-3聖句は、その時の状況、誰に対して、何の目的で語られたかを正しく理解した上で適応しなければ、誤って実行することになるので注意が必要。

これらのことからも、聖書を理解するとき、その聖句がどのような状況の中で、誰に対して、何の目的で語られたかを、正しく理解した上で、聖句を適応しなければならないことがわかります。

考察3 それぞれの状況に対して、どのように対処すると良いのかを祈って「信仰の確信」に従って行おう。

 考察3―1キリスト者は、全てのことを「神の基準」に照らして判断する。
そして「信仰の確信」にもとづいて実行する。

キリスト者は、変わることのない、神が定めた義の基準を知っています。
クリスチャンになってからも、いろいろな解決困難な出来事が起きます。
そのようなとき、神に祈りつつ聖書を読むと、その出来事について、神が正しいとされる、私がとるべき行動の方向性を知ることができます。
これは、「みことば」と「御霊」によることです。

これが、パウロが語った「信仰の確信」に従って行うということだと思います。

考察3-2日々聖書に親しみ、神に祈る静まった時を持つ。
このことは、聖霊に導かれ「信仰の確信」にもとづいて歩むための準備になる。

問題が起きたときだけでなく、普段から日々聖書に親しむことは、聖霊に導かれるためにとても助けになります。さまざまな状況の判断を神に訴え、知恵を求めていきましょう。
その日の聖書個所を開いて、静まって神のことばを聞きましょう。
ときには、ある聖句が思い浮かぶこともあるでしょう。

神は、あなたの祈りに答えてくださいます。
あなたがどのように対処すればいいのか「信仰の確信」を与えてくれると信じます。

考察4 「信仰の確信」「神が定めた善悪の基準」に従って生きることが困難になる時代が来るかもしれない。そのために、私たちに今できることは、現在起きている小事を御心に従って対処すること。そうするなら、大事が来た時にも「神の基準」に従うことができるであろうから。

キリスト者が生きる時代や状況によって、「信仰の確信」もとづいて行うことが非常に困難になるときがあります。時には、それは死を意味することもあります。

江戸時代は、キリスト教が禁止されました。また、天皇を崇拝するように強制され、神への礼拝が禁止される時代がありました。キリスト者が1人出れば、その家族も近隣の人たちも罰せられる時代がありました。

今は、信仰の自由が保証されていますが、いつどのようなきっかけで迫害が始まるかもわかりません。

ですから、私たちは日頃から「神の基準」に照らして判断すること。「信仰の確信」に従って実行することを心がけていきましょう。

小事に忠実な者は、大事にも忠実だと言われます。
「信仰の確信」に従っていくことが、命の危険をともなうかもしれない事態にあっても、この確信を持ち続け、守り続けるキリスト者でありたいと思います。

 

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今から約2000年前、キリストは預言されていた通り、死んで3日後に復活し、ご自身が神であることを証明されました。神がおられるのですから、その方を無視して生きることは、神があなたを造られた目的を知らずに生きることを意味します。どうか、神を知り、神に生かされる確かな人生を歩んでください。そのために、聖書を学び、神について、自分について、知ることを始めませんか?